純粋贈与としてのトシの死

 先週の「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事では、上原專祿という歴史学者が、妻の死後にも常に彼女の存在を身近に感じつづけ、法華経の「常在此不滅」という自我偈の一節を拠り所に、「死者との共存・共生・共闘の生活」を生きたということについて、書きました。
 この新たな「生活」の中で上原は、「三つほどのいままで気づかなかった理念というようなもの、イデーのようなものが、イデーとしてではなく実感として出てきているのに気がつきました」と、講演「親鸞認識の方法」で述べています。
 それによれば、その三つのイデー(実感)の一つめは、先週の記事に引用した、「過ぎゆかぬ時間」ということの認識であり、二つめは、「死者との共存」という感覚だということですが、三つめの実感として、次のように述べています。

 第三になりますと、今度は、私たち生き残った人間と死んだ人間との間の共鳴、共存、共闘における主導的立場に立っているものは、私ども生きている人間か、死んだ人間か、というと、以前は、私が回向するご供養する、そういうふうに、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているものだと思いこんでいたんですが、考えてみるとそうじゃない。死者のほうがむしろ主導的なんです。回向ということも、私が回向しているのではなくて、死んだ家内が私らのために回向してくれている。その死んだ人間の背後にもっと大きな、絶対的な存在というものがあって、家内が私ども生き残った人間のために回向してくれている、その回向の、さらに原動力になって下すっているという感じがだんだんする。
(中略)
 今晩のこういう集まりは、なんかお供養になるとおっしゃっていただいたんですが、お供養じゃないんです。私の家内が供養をしている。回向をさしてもらっている、という感じ。その私はメディアなんです。そういったような問題、つまり、死者というものは、回向の主体でもある。審判の主体でもある。そういうふうに考えている。(「親鸞認識の方法」より)

 つまりここで上原專祿は、「生きている者は、死者のメディア(媒体)となる」ということを言っているわけですが、これをもっと一般的なわかりやすい言葉に言いかえれば、「生きている者は、死者から託された<使命>を帯びる」ということになるでしょう。そのような使命は、帯びたくて帯びたわけでは毛頭なく、大切な人の死によって、是非もなく、受け身的に「背負わされた」ものではありますが。

 このように、生き残った者が、死者から否応なく<使命>を託され、何らかの生成変化をこうむって、その後の生を生きるという事態のことを、教育学者の矢野智司氏は、「純粋贈与」という概念でとらえています。その著書『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』においては、宮澤賢治の作品もふんだんに引用して論が展開されていますが、これについては以前に「純粋贈与とそのリレー」という記事で、その一部をご紹介しましたので、そちらを参照していただければ幸いです。
 ごく大ざっぱに割り切って言えば、矢野氏の言う「純粋贈与」の典型例は、夏目漱石の『こころ』において、「先生」が「私」に、その自死によって与えたもののことです。例えばそれは、「先生」が「私」に宛てた遺書の、最後の箇所に表れています。

私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。(「先生と遺書」二)

 この「先生」の全く一方的な死によって、「私」は計り知れない衝撃を受けたでしょうし、その後の「私」の人生は、「先生」の遺した言葉や思想によって、甚大な影響を受けてしまうでしょう。そのような物凄く重たい「贈り物」を、「私」は「先生」から受け取ってしまったわけですが、それに対して「私」が何か応答をしようにも、すでに死んでしまった人に対しては、何をどうすることもできません。受け取った側からは、どんな返礼をすることも不可能なので、これは「〈純粋〉贈与」なのです。
 『こころ』における「先生」の死は自ら意図したものだったので、「贈与」としての性質が特に際立っていますが、矢野氏の「純粋贈与」の概念においては、その死は意図的なものには限りません。たとえばイエス・キリストの死は、イエス自身が望んだものではなく、無理に捕えられ処刑された結果ですが、それでも残された使徒たちは、イエスの死は全ての人間の罪を背負っての死だったと位置づけ直し、それをイエスからの「純粋贈与」として把握したのです。

 このような矢野智司氏の見方に従えば、上原專祿も妻・利子から、その死とともに「純粋贈与」を受けたのだ、と言うことができます。本当は、愛する妻の死など、絶対に受け取りたくない出来事ですが、しかしその死が現実であるからには、亡き妻の遺志を丸ごと引き受けて、「死者との共存・共生・共闘」を行っていくという道を、上原は進みました。その道を共に進むことによって、彼はその後も、常に亡き妻と共にありつづけたのです。

 ここで私が重要と思うのは、このような生者と死者との関わりにおいて、生者は常に「受け身的」な立場に置かれるということです。上原も上記の引用部において、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているのではなくて、「死者のほうがむしろ主導的なんです」と述べています。「自力」で死者に関わろうといくら努力しても、彼岸には手は届きませんが、受け身に徹して、「他力」に任せることによって、一種の交流が生まれます。前回も上原の「過ぎゆかぬ時間」から引用したように、「私の日常生活の中に、私や子供というものを通して、やはり妻は、自分の意思みたいなもの、あるいは思考のようなものをフッと出してくるんです」という体験が生まれるのです。
 そして、宮澤賢治が「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」において、「死んだ妹の声」「亡くなった妹の声」を聴いたというのも、これとちょうど同じ事態だと、私は思います。

 そしてまた、賢治がこのような体験をしつつ、トシの存在を身近に感じられるようになるためには、上に見たように、彼女の死をあたかも「他力」に任せるように甘受するというスタンスが、非常に重要だったのだろうと、ここで私はあらためて思います。「〔この森を通りぬければ〕」では、それは「またあたらしく考へ直すこともない」と記され、「薤露青」では、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝこと」と認識されています。
 思えば、トシとの通信を求めてサハリンまで行ったり、必要ならば真夜中の宗谷海峡に飛び込もうとまで思いつめていた頃の賢治は、あくまで「自力」を恃んでもがいていたのであり、彼女が決して自分の力の及ばないところにあるということに、まだ納得がいっていませんでした。ところが、トシの死を心の底から受け容れられた時、それまで求めても得られなかった「通信」が、彼女の声として耳に届くようになったのです。
 つまり、私が言いたいのは、ここにおいて賢治はついに、トシの死を「純粋贈与」として受けとめられるようになったのではないか、ということです。愛する妹の死が現実である以上、自らの内に彼女の死を、与えられた「贈り物」として受け容れて生きていこうと、ある時から賢治は思うに至ったのではないかと思うのです。

 そして実は、矢野智司氏もすでに上記の『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』において、賢治がトシの死を「純粋贈与」として受け取っていたということを、指摘しています。

そのように考えるとき、賢治のすぐ下の妹トシの鎮魂を描いた「無声慟哭」「オホーツク挽歌」といった一連の作品が、『春と修羅』という心象スケッチの作品集に収録されたことは重要な意味をもっている。心象スケッチは、トシの死を負い目による「贈与=犠牲」ではなく、純粋贈与へと転回する生の技法であった。このように心象スケッチとは死者と交流し、死者からの贈与を受けとめ、そして贈与者となる生の技法でもあったのだ。 (p.188)

 『春と修羅』に収められている「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の章だけでは、まだ賢治はトシの死を受けとめきれず、それはその後1924年の夏までの期間を要したのではないかというのが私の考えですが、しかし矢野氏の指摘のように、「心象スケッチ」を書き続けていくということが、賢治の「生の技法=喪の作業」であったことは、確かだと私も思います。

 さて、そのようにトシの死が賢治によって純粋贈与として受けとめられたとするならば、はたして賢治はトシの死によって、彼女から何を贈られた=受け取ったのでしょうか?

 「永訣の朝」を読むと、このトシの臨終の朝には、「贈与」をめぐるやりとりがあったことがわかります。すなわち、トシは(あめゆじゆとてちてけんじや)と賢治に頼み、賢治は庭に出てみぞれと松の枝を取ってきて、トシに与えます。これは確かに賢治からの一つの「贈与」ですが、しかし賢治は、そもそも妹のこの依頼が、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたものだと考えていました。そうであれば、この依頼自体が、トシから賢治への「贈与」でもあったのです。そして賢治は、そのようなトシの気づかいに対して、「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」と感謝をしています。
 ここまでの贈与のやりとりでは、互いに相手に自らの思いを伝達できており、物ではなくても心情的な交換が成されていることにおいて、「〈純粋〉贈与」ではありません。
 一般に純粋贈与は、贈与者が死んでしまって、もはやいかなる形でも返礼が不可能になった時に現実化しますが、賢治が妹トシから「受け取ることになる」ものを「永訣の朝」のテキストから取り出すとすれば、それはトシの優しい依頼に応えた「わたくしもまつすぐにすすんでいくから(強調は引用者)」という決意と、(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)という、トシ自身が述べていた「心残り」でしょう。「自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい」ということは、「他人のために苦しむ人として生きたい」ということです。

 そして、この情景に対応するように、「銀河鉄道の夜」の初期形三では、博士とジョバンニは次のように会話をします。

「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。
(中略)
お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。(強調は引用者)

 ここで博士は二度、「まっすぐに」という言葉を使い、ジョバンニも「僕きっとまっすぐに進みます」と答えます。ここには、「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」という「永訣の朝」の決意が再生されていると考えざるをえません。そして、賢治やジョバンニは何に向かって「まっすぐに」進むのかと言うと、博士が言うには「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし」にということです。

 ただ、このような内容の事柄は、賢治が他の作品においても形を変えながら繰り返し書いていることであり、こんな当然の指摘をするためだけならば、何も「純粋贈与」などという難しい言葉を持ち出さなくてもよいのですが、私がこの概念に強く惹かれるところがあるのは、「銀河鉄道の夜」という物語そのものが、「純粋贈与」という出来事について、格好の「モデル」を提示してくれていると思うからです。
 「純粋贈与」と言っても目には見えないので、実際にどういうものなのか、それを受け取った人以外には、なかなかわかりにくいものでしょう。また今回のこの記事では、矢野智司氏の詳細な説明を私が勝手に端折ってしまいましたから、これを読まれた方も、それがいったいどんなものなのか、なかなかイメージが湧きにくいかと思います。
 しかし、「銀河鉄道の夜」を読んで心打たれたことのある方ならば、「純粋贈与」とはどういう感じの出来事なのか、きっと即座にわかっていただけるだろうと思います。カムパネルラが死んだその晩に、ジョバンニが彼と一緒に鉄道で銀河を旅して、いろいろな人と出会い、「ほんたうのさいわひ」について考えることができた、あの体験こそが、カムパネルラからジョバンニに贈られた「純粋贈与」の象徴なのです。実際のカムパネルラは、ザネリを救助する代わりに命を落としたわけですから、具体的にはザネリに対して命という「贈与」を行ったのですが、しかしジョバンニにとっては、カムパネルラと乗った銀河鉄道の夜は、これもまたかけがえのない唯一無二の贈り物でした。カムパネルラの死は、絶対的に大きな悲しみであり、ジョバンニにとってその衝撃は計り知れませんが、これによってジョバンニの「生」の意味は大きく変容し、これからの人生は否応なくカムパネルラとともに生きていくことになるでしょう。
 このような出来事こそが、「純粋贈与」です。

 矢野智司氏が指摘しているように、実は賢治自身が、「純粋贈与者」としての側面を色濃く持つ人でした。「銀河鉄道の夜」以外にも、「虔十公園林」や「グスコーブドリの伝記」のように、「純粋贈与」を行う人物を、賢治はいくつもの作品に造型しています。
 賢治自身は、その贈与の源泉を、「人」からよりも「自然」から多く受けていた部分が大きかったでしょうが、その中で「人」から受けた最大のものの一つが、妹トシからだったのではないかと、私は思います。

 そして、そのトシから受け取ったものを、賢治が象徴化して一種の模型化したのが、「銀河鉄道」だったのではないかと、今は感じている次第です。

贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン 贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン
矢野 智司
東京大学出版会 2008-02
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