対馬丸の姿

 「対馬丸」というと、太平洋戦争中の1944年8月22日、政府命令による沖縄からの学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没し、1476名の犠牲者を出した悲劇が有名です(Wikipedia「対馬丸事件」参照)。
 この「対馬丸」は、1915年にイギリスのグラスゴー造船所で建造された大型貨物船で、欧州航路やアメリカ航路に就航した後、太平洋戦争開戦後に日本陸軍に徴傭されたものですが、今日ご紹介するのは、同じ船名ながら日本の三菱長崎造船所で1905年に建造されたもっと小さな船で、山陽汽船が運営する関釜連絡船として就航し、その後鉄道省の所有となって、1923年6月から北海道の稚内とサハリンの大泊を結ぶ「稚泊連絡船」になったものです。

 この稚泊連絡船「対馬丸」に乗って、賢治は1923年8月2日に宗谷海峡を渡り、船上での状況を「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)として書き残しました。
 また、帰途では8月7日または9日に乗船し、やはりその様子を「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」(補遺詩篇 I)に書いたと推測されます。さらにこれは、文語詩「宗谷〔二〕」に改作された可能性があります。
 (「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」がこの帰途の船上のことと思われる根拠としては、以前の記事「西洋料理店のような?」をご参照下さい。)

 今回、この記事で「対馬丸」をご紹介しようと思った理由は、たまたまネットで検索をしていたら、「札幌市中央図書館デジタルライブラリー」に、この対馬丸のかなり鮮明な写真の絵葉書を目にしたからです。
 下のリンクが、そのページです。

稚泊連絡船 対馬丸

 こちらのサイトでは拡大表示をすることもできますし、またダウンロードをすれば1667×1072ピクセルという大きな画像が得られるので、賢治が乗った対馬丸というのがどんな船だったのか、かなり具体的に見ることができます。
 すなわち、賢治が「宗谷挽歌」を、「こんな誰も居ない夜の甲板で・・・」と書き出したのも、「宗谷〔二〕」で「そらの微光にそゝがれて/いま明け渡る甲板は/綱具やしろきライフヴイ/あやしく黄ばむ排気筒」と描写したのも、この船の甲板だったわけです。
 また彼はこの船上で、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とまで思い詰めるという、ちょっと尋常ではない精神状態にあったのでした。

 一方、国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、「造船協会」編の『日本近世造船史 附図』という本を見ることができますが、ここには「対馬丸」の船体図が掲載されています(下図は同書より「第37図」)。

対馬丸船体図

 そして、「天翔艦隊」というサイトの、「最果ての海に:第一章 最北の鉄道連絡船」というページには、対馬丸および壱岐丸の船内について、次のように書かれています。

 ブリッジの真下にあたる上甲板の前部室を一等客社交室(サロン)兼出入り口広間(エントランス・ホール)とし、その下のメインデッキには一等食堂がある。両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており、天井には色ガラスの天窓(スカイライト)が設けられた。天窓の模様には山陽鉄道の社章が模されおり、これは晩年に至るまでそのまま残されていた。

 ここで、上の「船体図」の中の、上甲板前部の「一等客社交室」と、その下の「一等食堂」のあたりを拡大すると、下図のようになっています。

対馬丸一等客社交室・食堂

 上の方に楕円形に見えるのが、さきほどのサイトで「両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており・・・」と書かれている箇所と思われ、下の方に「TABLE.」などとあるのが、一等食堂でしょう。
 「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」という作品断片において、いきなり「大きな西洋料理店のやう」と形容されているのは、この豪華な造りの「一等食堂」のことではないだろうかと、私は個人的に推測してみているところです。