大内金助と「花巻納豆」

 花巻市豊沢町の賢治生家から少し南に行くと、納豆の製造販売をしている「有限会社 大内商店」があります。

(有)大内商店

 この会社の現在の社長さんは、大内俊祐さんとおっしゃいますが、先代の大内金助さんは、実は稗貫農学校における、宮澤賢治の教え子の一人だったのです。
 まず、稗貫農学校の大正12年卒業生名簿をご覧下さい(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」p.116より)。

稗貫農学校大正12年卒業生

 賢治が農学校の教師に着任したのが1921年(大正10年)12月ですから、翌年の3月にも、4か月だけ教えた卒業生を送り出しているわけですが、じっくりと一年を通じて教えた生徒としては、上に掲げた彼ら30名が最初だったわけです。
 下段には、「福田パン」の創業者として先日ご紹介した福田(及川)留吉がいますから、くしくもこの学年は、「食品会社の社長を2名も輩出した」ということにもなります。

 今日は、大内商店と大内金助氏の略歴について、「平成版 花巻の名人・達人 第17回大内俊祐」(高橋進氏の「花巻このごろ」より)や、若尾紀夫氏による論文「同窓生が語る宮澤賢治」などを参考に、以下に簡単にまとめてみます。

 大内氏の先祖は、豊沢町で「肝煎」(町名主)を務めていたということで、この地域の名家だったようですが、「大内商店」の歴史は、金助氏の祖母にあたる大内シマ氏が、1887年(明治20年)にこの地で豆腐の販売を始めたことを端緒とするということです。
 その息子の大内栄助氏は、取り扱い品目を増やして、藁苞納豆や、当時としては珍しいサイダーやラムネも売るようになり、このサイダーは、近所の宮澤賢治も買いに来たということです。後に賢治が「やぶや」で、蕎麦とサイダーを注文するようになる原点は、この大内商店のサイダーにあったのかもしれませんね。
 その後大内商店では、大正の初め頃から納豆の製造も開始しますが、まだ当時は藁苞に付着している納豆菌以外の雑菌のために、製造に失敗することもあったのだということです。

 栄助氏の長男の金助が稗貫農学校に入学するのは、こういう状況においてでした。大内家の家業は、農業ではなくこのように納豆製造販売でしたから、農学校と言っても田畑の耕作ではなく、発酵・醸造の方面を勉強することが、当初からの目的だったと思われます。
 農学校在学中の大内金助については、同級生の及川(福田)留吉が、次のようなエピソードを書き残しています。

 今追憶して面白いことは、(宮沢)先生は、授業は初めてだったらしく、お馴れになれなかったでしょう。最初の頃は、早口で、私ども生徒にはなかなかその講義に追っつけないのです。「ちっともわからん、ちっともわからん」と連発して口うるさい隣席の大内金助君や、前席の小田島治衛君、そのほかの連中もわいわい騒ぐものですから、おそらく隣室の職員室にも聞こえたのでしょう。あるいは廊下を通りすがりの校長先生がこの様子を知ったのかもしれません。二、三日してから校長先生は、宮沢先生の授業を見に来られ、三〇分ばかり見てから教室を出られました。
 その後の先生の授業は、かなり緩やかになり、回を重ねるにつれてだんだん丁寧さを増し、どの授業も非常にわかりやすくなりました。それに該博な知識にしばしば面白いユーモアが加わり、それに我々の稚拙な質問にも嫌味、億劫さのない親切な説明をされるものですから、本当に先生の授業は愉快なものになりました。(佐藤成編『証言 宮澤賢治先生』より)

 上の3-4行目に出てくるように、及川留吉の隣席だった大内金助は、賢治の授業中に「ちっともわからん、ちっともわからん」と連発して口うるさかったということですね。ちょっとやんちゃな雰囲気とともに、「町の子」らしい開けっぴろげな感じも漂います。

村松舜祐教授 1923年(大正12年)3月に農学校を卒業した大内金助は、賢治の斡旋によって、盛岡高等農林学校の「助手」に採用されます。そしてここで、当時納豆の研究によって「納豆博士」とまで称されていた、村松舜祐教授(右写真)のもとで、学生実習を補佐するかたわら、納豆菌の純粋培養などの実験にも携わることになるのです。
 まさに、「納豆屋の跡継ぎ」としては当時期待できる最高の環境に入ることができたわけで、このあたりには、卒業後の進路について本人の希望をかなえてやるために、賢治が人脈を駆使して骨を折った成果が、表れているのでしょう。

 賢治が盛岡高等農林学校に入学した1915年(大正4年)時点では、村松教授はアメリカ留学中だったので、直接に教授の指導を受けたのは3年生の1年間だけでしたが、賢治との関係は良かったようです。賢治の教え子の小原忠によれば、村松教授はふだんは「厳格でニコリともされない方」だったのに、研究室を訪れた賢治とは、「終始機嫌良く話され、お二人は気が合っておられたようであった」ということです。
 また賢治は、後に東北砕石工場の技師となってからも、炭酸石灰を搗粉として使用することについて村松教授に助言を求めるなど、その後も交流は長く続きました。

 さらに、大内金助が盛岡高等農林学校に就職したちょうどこの頃、賢治の元同級生で親友でもあった成瀬金太郎が、村松教授の下の助教授として在任していました。
 成瀬金太郎は、盛岡高等農林で村松教授の納豆研究を継承する役割を担い、退職後は「成瀬醗酵化学研究所」を創設しますが、現在も続くこの研究所が製造する納豆菌は「成瀬菌」として、「三大納豆菌」の一つに数えられています(あとの二つは、仙台の「宮城野菌」と山形の「高橋菌」)。
 村松舜祐教授と、成瀬金太郎助教授、そして大内金助助手の3人は、納豆研究室においてかわるがわる顕微鏡をのぞき込んでは、小さな桿菌を観察する日々を過ごしたことでしょう。

 村松教授は、すでに1912年(明治45年)に納豆菌の純粋分離培養に成功し、その後1929年(昭和4年)には、その「1号菌」(納豆粘性物質の生成と蛋白質分解活性が強い)と「5号菌」(澱粉分解活性が比較的強い)を混合接種することによって、品質の良い納豆を製造できることを発表しています。このようなすぐれた納豆菌が、一方は成瀬醗酵化学研究所に、もう一方は花巻の「大内商店」に継承されて、現代まで生きているというのは、そしてみんながそれぞれ賢治と個別の関わりを持っていたという事実は、賢治を巡る人脈の不思議さを感じさせてくれます。
 大内金助が、盛岡高等農林学校の研究室に在職したのは1年間だけだったということですが、彼が村松教授から現社長の俊祐氏に引き継いだのは、納豆菌だけではなかったかもしれません。村松舜祐という恩師の名前も、一字を変えながらその息子に受け渡したのではないでしょうか。

 さて、大内商店の「花巻納豆」は、地元のスーパーなどでも買うことはできるのでしょうが、どうせなら賢治生家に近くて、生前の賢治もサイダーを買いに来たという、大内商店の店頭で買うのが一番でしょう。
 冒頭写真の右の方にあるサッシの扉を開けて入ると、中は歴史を感じさせる作りになっていました。入って左手には、納豆の製造所があって、何となく神秘的な雰囲気も漂っています。
 奥に向かって声をかけると、女性の社員さんが出てきて下さって、大内商店製造のたくさんの納豆の品名と写真が並ぶパネルを出して、どれにしますか、と聞いてくれました。
 「大粒納豆」や「黒豆納豆」や「ひきわり納豆」など、たくさんの種類がありますが、ここはまず最もオーソドックスな「花巻納豆」を購入しました。1パック100gで、60円でした。

花巻納豆

 これを、翌朝のホテルの朝食の時にいただきました。

花巻納豆2

 パッケージには「中粒」と書いてありますが、蓋を開けると、けっこう大きめの粒がぎっしりと入っています。そして、醤油をたらしてからかき混ぜて食べると、一粒一粒がやわらかくて、とても優しい味でした。最近よくスーパーで買う納豆は、小粒のものが多くなっている感がありますが、これは「豆の味」というものがしっかりと堪能できる感じで、とても美味しかったです。

 これから花巻に行く時には、いつもこれを買ってホテルでいただこうかなどと、ひそかに考えているところです。