高洞山の上を翔ける

 盛岡市の北東校外、JR山田線の「上米内」駅前にある「高洞山」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。4年前に撮影してきたものですが、遅くなってしまいました。

「高洞山」歌碑

燃えそめし
アークライトは
黒雲の
高洞山を
むかひ立ちたり
            宮沢賢治

 この短歌は、「歌稿〔B〕」の「大正七年五月より」という章の、「公園。」という見出しの付けられた部分に収められています。
 下記が、「公園。」としてまとめられている短歌群です。

      公園。
        ※
652 青黝み 流るゝ雲の淵に立ちて
   ぶなの木
   薄明の六月に入る。
        ※
653 暮れざるに
   けはしき雲のしたに立ち
   いらだち燃ゆる
   アーク燈あり
        ※
   653a654 ニッケルの雲のましたにいらだちて
        しらしら燃ゆる
        アーク燈あり
        ※
654 黒みねを
   はげしき雲の往くときは
   こゝろ
   はやくもみねを越えつつ。
        ※
655 燃えそめし
   アークライトの下に来て
   黒雲翔ける夏山を見る
        ※
   655a656 燃えそめし
        アークライトは
        黒雲の
        高洞山を
        むかひ立ちたり
        ※
656 黒みねを
   わが飛び行けば銀雲の
   ひかりけはしくながれ寄るかな。

 短歌652に「六月」と出てきますから、これらの短歌が詠まれたのは、大正7年(1918年)6月ということでしょう。
 時に賢治は23歳、盛岡高等農林学校の研究生となり、稗貫郡地質調査で忙しく、実験室ではミスばかりしていると、父あての書簡71に綴っています。賢治の悩みは、職業も含めた自分の行く末が全く見えず、このままでは何を勉強しようとも、結局は父の質屋を継ぐしかないのではないか、という将来の問題でした。またこの6月30日には、岩手病院で診察を受けて「肋膜の疑い」と言われています。

 総じて、賢治にとっては悩み多い時期で、短歌653に出てくる「いらだち燃ゆる/アーク燈」というのは、そんな賢治自身を象徴しているかのようです。
 しかしその一方で、654にあるように「こゝろ/はやくもみねを越えつつ」とか、656のように「黒みねを/わが飛び行けば…」のように、地上で悩む小さな自分の体を離れて、心は軽々と空を飛んで行き、夕暮れの山々の上を翔けていくというのも、いかにもまた賢治らしいところです。
 大正3年には、宇宙空間にまで飛び出して「なつかしき/地球はいづこ…」(歌稿〔B〕159)とも歌った賢治ですから、大気圏内の空を飛ぶくらい、たやすいことだったでしょう。

 さて、これらの短歌が詠まれた場所は、見出しに「公園」とあって「アークライト」が出てくるところから、盛岡市内の「岩手公園」と思われます。そして、賢治が眺めている「黒みね」とか「黒雲翔ける夏山」とは、655a656に「高洞山」が出てくるところから、盛岡市北東郊外にある高洞山を中心とした峰々と思われます。
 岩手公園と高洞山との位置関係は、下の地図のようになっています。(カシミール3Dより)

高洞山地図

 マーカーを立ててあるところが岩手公園で、赤線を引いた高洞山は、北東の方角に見えるわけです。
 ちなみに下の写真は、盛岡駅裏のビル「マリオス」の20階にある「展望室」から見た、高洞山です。

マリオス展望室から見た高洞山

 中央の少し左、NTT東日本の赤と白の電波塔の向こうの、小さな三角に出っ張った山頂が、「高洞山」です。右端の方の、もう少し近くの平たい丘は、「岩山」です。
 賢治は、夕暮れの岩手公園からこのような「黒みね」を眺めつつ、風になったように峰々の上を飛翔する自分自身を、想像していたのです。

◇          ◇

 ところで、賢治が23歳の時に夢想した、「高洞山の上を飛ぶ」というイメージは、後に童話「風野又三郎」にも、生かされています。

   ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
   甘いざくろも吹き飛ばせ
   酸っぱいざくろも吹き飛ばせ
 ほらね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたやうな変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。
 電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どほし馳けてここまで来たんだ。
 ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にゐたんだ。

 風野又三郎の旅は、北極、南極、タスカロラ海床、ボルネオ、グリーンランドなど、地球規模であらゆる場所を駆け巡るものですが、わざわざここに「高洞山」などという岩手県内でも目立たない山が登場するのは、やはり賢治自身が、青年時代にこの山の上を飛ぶイメージを抱いていたからに違いありません。

 この他に、「高洞山」が登場する作品としては、やはり「歌稿〔B〕」の「大正六年五月」に、

496 夕ひ降る
   高洞山のやけ痕を
   誰かひそかに
   哂ふものあり

との短歌があり、また文語詩「岩手公園」の推敲過程で、その「下書稿(一)」などに、

起伏の丘はゆるやかに
青きりんごの色に暮れ
高洞山の焼け痕は
蓴菜にこそ似たりけり

として出てきます。
 おそらく、賢治にとっての「高洞山」とは、岩手公園など盛岡市街側から見たイメージが主だったのではないかと思いますが、記事の冒頭に書いたように、「高洞山」の歌碑が建てられたのは、北東郊外の上米内駅の前でした。
 上の地図をご覧いただいたらわかるように、この高洞山そのものは、上米内駅の「裏山」とも言える場所にあり、米内地区の方々にとっては、この山は地元のシンボル的な存在なのだそうです。たとえば、米内小学校の校歌には、「望みは高く 高洞の」という一節があり、米内中学校の校歌には、「春秋薫る 高洞山の」という一節があり、この二つの事実を見るだけでも、この山が米納地区の人々にどれほど親しまれているかがわかります。

 最後に、上米内側から見た高洞山の写真を載せておきます。上米内の浄水場から撮った写真です。

高洞山(上米内浄水場より)