あけましておめでとうございます。
今年は、賢治生誕120周年という節目の年で、「十干十二支」においても賢治と同じ丙申(ひのえさる)にあたりますが、はたしてどんな1年になりますでしょうか。
私自身は、この年末も年始もごろごろと過ごしていたのですが、休みの間に、『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー、系統樹』という本を読んでみました。
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本の帯には、「日本初紹介!エルンスト・ヘッケルの実像」とあります。思えば私も10年ほど前に、ヘッケルについて少し調べて、当ブログの「エルンスト・ヘッケル博士とその業績(2)」という記事などに書いたことがあるのですが、確かにこの当時も、日本語の文献でヘッケルについて詳しく書かれたものは、なかなか見つかりませんでした。
戦前までさかのぼれば、単行本として出されたものとしても、岩崎重三著『進化論者ヘッケル』(1921年刊)や、シュミット著『ヘッケル伝:ひとつの偉大な人生の記念碑』(1942年邦訳刊)など、ヘッケルの業績や生涯について詳述した書物がありますので、今回の本に「日本初紹介!」とまで銘打つのは、厳密にはやや言い過ぎになるのかもしれません。
しかしそれにしても、当時からまた格段に進歩した現代の科学的視点に立って、ヘッケルが残した厖大な著作やその理論体系を、わかりやすく一望できる書物が登場したということは、とても意義のあることと思います。
著者の佐藤恵子氏は、東大薬学部在学中に「医学や薬学の根底にあるドイツ思想の影響に関心を抱き」(「あとがき」より)、ふたたび学士入学してドイツ地域研究や科学史科学哲学を、さらに大学院で比較文学比較文化を学ばれたということです。そのような経歴も反映して、この本の特色は、生物学をはじめとしたヘッケル本来の自然科学的業績を紹介する「理系」的な部分と、それを当時の文化や思想など人文科学的背景に位置づけていく「文系」的な部分とが、うまく有機的にかみあっているところにあると言えるでしょう。
「まえがき」にある著者の次の言葉は、まさにそのような本書の魅力を言い表してくれていると思います。
ヘッケルを読むことはまた、十九世紀末ドイツという、私たちにとっての異文化空間で、自然科学と文化と社会がどう影響し合いながら歴史を推し進めてきたかを見出す一つのヒントを示すことでもあり、さらには、その流れが織り糸の一本となって、私たちの今を織り上げていることを知るヒントにもなるだろう。
著者によれば、ヘッケルは「単なる生物学者」ではありませんでした。「彼は、私たちの常識を覆すほど多方面で活躍してきた人物」であり、「十九世紀後半のドイツにおいてヘッケルは、良くも悪くも、計り知れない威力と影響力をもっていた」のです。
そしてその圧倒的な存在感は、遠く日本岩手の宮澤賢治にも到達し、賢治はヘッケルの思想から、「何か」を感じとっていたのは確実です。
それが「何か」ということに関しては、賢治研究者の間でもまだ議論が錯綜しているのが現状ですし、本書においても、
また、日本への影響も、三木成夫、夢野久作に関しては生物発生原則の影響の箇所で少し触れたが、宮沢賢治、森鴎外、加藤弘之をはじめとする知識人への影響については力が及んでいない。
と「あとがき」に書かれているように、賢治がヘッケルをどう受容したのかということについては、残念ながら触れられていません。
しかし、上のように本書の著者が賢治との関連についても問題意識を持って下さっているということは、賢治愛好家の一人としても嬉しいことですし、また今後の展開を楽しみにお待ちしたいと思っています。
※
ところでその、「賢治はヘッケルの思想に何を感じとっていたのか」という問題については、私自身これも以前に「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事において考えたことがありましたが、この時はヘッケルの「反復説」と、仏教の「輪廻転生説」との関連に、注目してみたのでした。
今回また、ここでご紹介した『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー、系統樹』を読んだことをきっかけに、あらためて「青森挽歌」におけるこの問題についてお正月の間にあれこれ考えつつ、ヘッケル著『生命之不可思議』を読んでみたり、いろいろな賢治研究者の説を読んでみたりしたのですが、そのうちに前回の拙記事とは少し違った解釈の可能性について、考えるようになりました。
いずれ、またそのことについて書いてみたいと思っています。
本年もよろしくお願い申し上げます。
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