1.青森の夜汽車の窓
「青森挽歌」の書き出しは、じつに印象的です。
青森挽歌
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
〔後略〕
本当に、夜行列車に乗って黒い窓から見知らぬ風景を目を凝らしながら眺めている時の気持ちは、水族館に行って水槽の中の不思議な生き物たちを見ることに、どこか通ずるものがあります。
「四角いガラス窓を通して、その向こうにある暗い空間の様子を見る」という位置関係が、まさに夜行列車の窓と水族館の水槽とを相似形にしているのでしょうが、共通しているのはおそらくその物理的な状況だけではなくて、何か日常世界を離れて「異界」に来たような、心理的なものも関わっているのかもしれません。この「異界」の感覚は、夜の列車が銀河鉄道へと昇華されるに至って、最大化されます。
高校生の頃の私は、将来自分が夜行列車でも何でも乗って、自由に旅ができるようになった時のことを想像しながら、この「青森挽歌」を読んでいたものでした。
ところで、「客車のまど」を「水族館の窓」になぞらえるというこの比喩を着想した賢治自身は、実際に「水族館」を見たことはあったのでしょうか。これほど絶妙の表現が出てくるからには、きっと実物を見ていたのだろうと個人的には思うのですが、作品を含めて賢治自身の書いたものや、関係者の証言の中には、彼が水族館を見たという証拠となる記録はないようです。
そもそも、賢治の時代に「水族館」というものは、どのくらい一般的なものだったのでしょうか。
2.日本における水族館の歴史
東海大学海洋科学博物館の設立に尽力してその館長も務め、現在は東海大学名誉教授である魚類学者の鈴木克美氏は、日本における水族館研究の第一人者と呼ぶべき方だと思いますが、その鈴木氏の論文「我が国の黎明期水族館史再検討(2001)」と、著書『水族館 ものと人間の文化史』(法政大学出版局, 2003)などをもとに、日本で作られた水族館を開設順に並べてみると、次の表のようになります。
名称 | 所在地 | 開設時期 | |
---|---|---|---|
1 |
上野動物園観魚室(うをのぞき) |
東京市上野 |
1882/9/20-? |
2 |
浅草水族館 |
東京市浅草 |
1885/10/17-2年未満で閉館 |
3 |
第三回内国勧業博覧会水族館 |
東京市上野 |
1890/4/1-7/31 |
4 |
東京大学理学部附属三崎臨海実験所付属水族館 |
神奈川県三崎町 |
1890夏-現在 |
5 |
第四回内国勧業博覧会水族室 |
京都市岡崎 |
1895/4/1-7/31 |
6 |
第二回水産博覧会水族館 |
神戸市和田岬 |
1897/9/1-1911 |
7 |
浅草公園水族館 |
東京市浅草 |
1899/10/1-1933頃 |
8 |
日本水族館 |
大阪市難波 |
1901/1/6-数年? |
9 |
江ノ島水族館 |
神奈川県江ノ島 |
1902/8/24-数年? |
10 |
第五回内国勧業博覧会堺水族館 |
大阪府堺市 |
1903/3/1-1961/9 |
11 |
横浜教育水族館 |
横浜市羽衣町 |
1906/7/13-? |
12 |
東京勧業博覧会教育水族館 |
東京市上野 |
1907/3/20-7/31 |
13 |
京都市紀念動物園水族室 |
京都市岡崎 |
1908-? |
14 |
北海道水産共進会水族館 |
北海道小樽市 |
1908 |
15 |
第十三回九州沖縄八県連合共進会水族館 |
福岡市箱崎 |
1910-1935? |
16 |
名古屋教育水族館 |
名古屋市東築地 |
1910/4/10-? |
17 |
富山県共進会魚津水族館 |
富山県魚津町 |
1913/9-1944/3 |
18 |
第十四回九州沖縄八県連合共進会水族館 |
大分県大分市 |
1921/3/15-5/10 |
19 |
東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館 |
青森市浅虫 |
1924/7-1984/4 |
20 |
松島教育水族館 |
宮城県松島村 |
1927/4/1-2015/5/10 |
21 |
別府市中外産業博覧会水族館 |
大分県別府市 |
1928/4/1-5/20 |
22 |
大礼記念国産振興東京博覧会水族館 |
東京市上野 |
1928/3/24-5/22 |
これらの中から、賢治が生まれた1896年から「青森挽歌」が書かれた1923年までの期間に、賢治訪れたことがわかっている場所に存在した水族館を選び出してみると、7、11、13が、ひとまず可能性としては考えられます。しかしこの中では、7の「浅草公園水族館」が、何と言っても最有力候補だろうと思われます。
賢治は、1916年(大正5年)3月に盛岡高等農林学校の修学旅行の帰りに、浅草に立ち寄って
浅草の
木馬に乗りて
哂ひつゝ
夜汽車を待てどこゝろまぎれず
という短歌を残していますし、この後にも、同年7月-8月には「独逸語夏期講習」を受けるために東京に1か月滞在、あと1917年1月には商用の叔父に同伴して上京、1918年12月から1919年3月まではトシの看病、1921年1月から夏までは家出をして、いずれも東京に滞在していますから、浅草に行けたであろう機会は、何回もあります。
また賢治は、特に「浅草オペラ」に対して格別の愛着を持っていたようで、劇「飢餓陣営」の構想や、詩「凾館港春夜光景」に出てくる当時の歌手の名前などを見ても、生前の賢治が何度も「浅草オペラ」を見たであろうことは、明らかです。となると、オペラ観劇のついでに、彼が浅草の水族館に立ち寄ったという可能性は、十分に考えられるわけです。
賢治が、「浅草公園水族館」以外の水族館を見ていた可能性となると、上に触れたように、1916年の修学旅行で京都に行った際に、13の「京都市紀念動物園水族室」を見たか、1917年1月の上京時には横浜にも寄っていますから、この際に11の「横浜教育水族館」を見たということも、完全に否定はできません。しかし、前者では「水族室」という名称が「青森挽歌」とは異なること、1917年の横浜ではスケジュール的に余裕がなかったのではないかと思われることから、やはり私としては、賢治が見たであろう水族館としては、「浅草公園水族館」の一本で考えたいところです。
ちなみに、上表の19の「東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館」は、1984年に閉館するまで60年にもわたって運営されてきた、当時としては先進的な施設の一つだったということですが、賢治が1923年夏にこの浅虫のあたりを通りながら、「客車のまどはみんな水族館の窓」とつぶやいたちょうど1年後に開館しているのが、面白いところです。
3.浅草公園水族館
やはり鈴木克美氏の論文「浅草公園水族館覚え書(2003)」によれば、1899年10月11日に開業した「浅草公園水族館」はたいへんな大衆的人気を博し、「日曜のごときは極めて雑踏をなし、かつ室内暗黒なれば、開館の当初は、まま婦女子の櫛笄などを抜き去る無頼漢ありしとかや。館員の語るところによれば、一日平均三千名内外の観覧者ありという」(坪川辰雄「土木門 水族館」風俗画報, 1900)という盛況だったとのことです。
水族館のあった場所は、下の地図の矢印のところで、Googleマップで調べると現在ここは「雷おこし」の常磐堂の経営する、「雷5656茶屋」というお店がある場所のようです。
また、当時の「グラフ雑誌」と言うべき『風俗画報』という雑誌には、次のような「浅草公園水族館」の外観の絵が載せられています。
「浅草公園水族館覚え書」より
さらに、水族館の内部の様子は、浮世絵のような見事な多色刷り版画で描かれています。
「我が国の黎明期水族館史再検討」より
ところで、上の画像の左下部分にある、水族館の中の様子を拡大すると、下のようになっています。
これを見ると、狭い幅でまっすぐ長い通路の横に、同じ大きさの長方形の「窓」がずらりと並んでおり、これはまさに「客車のまど」と言うにぴったりの景観です。トンネルまたはチューブのように、天井が丸みを帯びた内部の作りは、鉄道列車の中の様子を連想させるもので、やはり賢治が「青森挽歌」の比喩を思いついたきっかけは、この水族館だったのではないかと、ますます考えたくなります。
さて、このようにオープンの当初は賑わっていた「浅草公園水族館」ですが、大正時代に入ると、徐々に客の入りが減少していきました。盛り返しを狙った経営者は、1913年(大正2年)頃から水族館の2階に演芸場を設け、「娘手踊り」などのアトラクションで、客を取り戻そうとしました。
ところで上の表からもおわかりのように、当時の水族館というのは、博覧会などの際に一時的に設けられるものが多く、常設として開館したものでも、わずか数年で閉館になっているところがほとんどです。その理由は、当時の知識や技術では、魚などの海の生き物を長期間にわたって飼育しつづけるのは困難で、数年もたつうちには、開館当初に揃えた生き物たちはだんだん死に絶えていくからです。展示生物の減少ともに、人々にも飽きられていって客が減り、経営が苦しくなると新しい生物を補充する予算もなくなって、ますます貧弱な内容になる、という悪循環が起こります。
上の絵のように見事だった「浅草公園水族館」の水槽も、ある時期からは、「申しわけのように金魚とスッポンを泳がせている」というような状態になっていったという記述もあります(水守三郎「レヴユーからバーレスクへ」)。
1923年の関東大震災の際には、浅草も壊滅的な被害を受けたということですが、いったんは水族館も何とか再興したようです。そしてその後、1929年(昭和4年)に水族館2階の演芸場は、後に「喜劇王」とも呼ばれる榎本健一(エノケン)を座長とする「カジノ・フォーリ-」として新装オープンし、これが図らずも爆発的な人気を呼ぶことになります。エノケンは、機知に富んだ演出で、レヴューや軽演劇を上演し、「水族館の二階の演芸場は、もともと下の水族館の、いわば客寄せで、水族館の付録のようなものだったが…これは逆になり水族館のほうが付録になってしまった」と、自らも回想しています(榎本健一「“浅草と僕”―思い出すカジノ・フォーリ-, 1955」)。
このように、水族館そのものは「おまけ」のような地位に甘んずることになりますが、軽妙な演劇や若い女性による華やかなレヴューと、薄暗く不思議な雰囲気の漂う水族館が、一つの建物に共存するという奇妙なマッチングは、当時の文学者たちの創作意欲をかき立てたという一面もあったようです。川端康成は、浅草公園水族館も登場する一連の作品、『浅草紅団』(1929)、『水族館の踊子』(1930)、『浅草の姉妹』(1932)を発表して、これがまた浅草のこの界隈に人々の注目を集めることとなりました。堀辰雄も、ここを舞台に『水族館』(1929)という短篇を書いています。
『水族館の踊子』における川端の描写は、次のようなものです。
そのガラスは、水槽の底だったのです。水族館で一番大きい水槽だったのです。たひ、すずき、をこぜ、ほうぼう、のどくさり、かれひ、―いろんな魚が泳いでゐましたよ。…その水槽の上が舞台だったのです。真上かどうかは分からないが、とにかく、なんかしかけがあるのか、その水槽を通して穴倉から舞台が見えたのです。…踊子と魚が、同じ水の中にゐるやうにです。
4.賢治の他の作品
賢治の他の作品で「水族館」が登場するものを調べてみると、「口語詩稿」に分類されている「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の最後の部分に、次のような箇所があります。
〔前略〕
こどもらがこっそりかはるがはる来て
がらすの戸から口をあいたりのぞくのは
水族館のやうでもある
おとなもそろそろ来てゐるやうだ
日高神社の別当は
いまだに眉をはげしく刻む
これは、賢治が農学校を退職した後の羅須地人協会時代の作品と思われますが、何かの用事で彼が学校の職員室にやってきた時の情景のようです。職員室にいる賢治たちを、ガラス窓を通して生徒たちが廊下から面白そうに眺めているという場面で、これを「水族館」に見立てるならば、生徒たちが観客で、賢治ら来賓が「魚たち」に相当するのでしょう。廊下の横の窓が「水族館の窓」という状況は、これも上に載せた『風俗画報』の拡大図の、長細い水族館の通路の様子を彷彿とさせます。
あとこれ以外では、上記作品を文語詩化した「来賓」という作品の「下書稿(一)」の手入れ形に、「児童(こ)らもこもごものぞけるは/水族館のごとくなり」として、さらに「下書稿(二)」の初期形に、「児童(こ)らこもごもにのぞけるは/水族館のけはひなり」として登場していますが、その「定稿」では姿を消しています。
それからもう一つ、「水族館」ではありませんが、「口語詩稿」の「来訪」という作品が、私は気になります。それは、下記のようなものです。
来訪
水いろの穂などをもって
三人づれで出てきたな
さきに二階へ行きたまへ
ぼくはあかりを消してゆく
つけっぱなしにして置くと
下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる
……くわがたむしがビーンと来たり、
一オンスもあって
まるで鳥みたいな赤い蛾が
ぴかぴか鱗粉を落したりだ……
ちゃうど台地のとっぱななので
ここのあかりは鳥には燈台の役目もつとめ
はたけの方へは誘蛾燈にもはたらくらしい
三十分もうっかりすると
家がそっくり昆虫館に変ってしまふ
……もうやってきた ちいさな浮塵子
ぼくは緑の蝦なんですといふやうに
ピチピチ電燈をはねてゐる……
〔後略〕
これも羅須地人協会時代の作品のようで、賢治が暮らしていたあの建物を描いています。部屋の灯りをつけっぱなしにしておくと、羽虫がたくさん入ってきて、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と言っているのですが、じつはこの「昆虫館」という施設も、当時は浅草公園の水族館に隣接して建っていたのです。
Wikipediaの「木馬館」の説明によれば、1907年に昆虫学者の名和靖が、「浅草公園水族館」の隣に開設したのが「通俗教育昆虫館」、通称「昆虫館」でした。川端康成の『浅草紅団』にも、「花屋敷と昆蟲館――この二つの小屋が、浅草の家庭的な遊び場として、諸君に知れ渡つてゐるのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ」として出てきます。
水族館と同様に、この昆虫館もやがて経営が行き詰まり、1922年には昆虫の展示は2階部分のみとなって、1階には木馬が置かれて名前も「昆虫木馬館」に、次いで「木馬館」となります。ここは現在も名前が残って、「浅草木馬館大衆劇場」になっていますね。
さて、上の作品で賢治が「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と書いたのは、浅草公園の「昆虫館」を知った上でのことだったのでしょうか。
これは「昆虫」と「館」を合わせただけの簡単な語句ですから、賢治の即興的な造語だった可能性も、もちろんあります。しかし私には、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」という表現の背景には、「昆虫館」という既成の概念があったように、何となく感じられるのです。
もしそうであれば、当時は東京の浅草以外には「昆虫館」などという施設はなかったと思われますから、賢治が「浅草公園水族館」を訪れていた可能性は、さらにいくぶん高まるとことになります。
5.列車は海中から天上へ
以上、賢治が「浅草公園水族館」を実際に見ていた体験が、「青森挽歌」の「客車のまどはみんな水族館の窓になる」という一節に反映したのではないか、という私の個人的な想像を述べました。
ここから先は、さらに空想的なお話です。
上に引用した、「浅草公園水族館」の通路の拡大図を見ていただいたらおわかりのように、この水族館において観客は、まるで海中のトンネルから魚たちを眺める気持ちになるように作られています。下の図は、「浅草公園水族館」開館の翌年に出版された『少年教育水族館』という本の1ページですが、ここでも「まるで海の底へ遊びに行くやうです」と表現されています。
この、海中を思わせる「水族館の窓」が、「客車のまど」なのですから、この時の賢治のイメージの中では、列車は海中を走っているということになるでしょう。すなわち、「青森挽歌」が書かれた夜汽車に乗りながら、賢治が「客車のまど」を「水族館の窓」として感じたならば、彼は同時に、「いま自分は列車に乗って海の中を走っている」とも感じたはずです。
一方、賢治の童話「双子の星」においては、「天上」と「海中」は、対になった相似の場所として、描かれます。
チュンセとポウセの双子の星たちが、彗星の乱暴によって天上から海の底へ落とされてしまった時、二人は「ひとで」になってしまいます。ここでは、ちょうどどちらも「星形」の、天の「星」と海の「ひとで」が対応物になっているわけですが、賢治はこのようなアナロジーをさらに推し進め、まず「彗星」の自己紹介は、次のようです。
俺のあだ名は空の鯨と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなヒョロヒョロの星やめだかのやうな黒い隕石はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻る位ひどくカーブを切って廻るときだ。まるで身体が壊れさうになってミシミシ云ふんだ。光の骨までがカチカチ云ふぜ。
これに対して、二人が海で出会った「鯨」は、次のように言います。
俺のあだなは海の彗星と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなひょろひょろの魚やめだかの様なめくらの魚はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってぐるっと円を描いてまっすぐにかへる位ゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油がねとねとするぞ。
まさに賢治のユーモアがあふれている箇所ですが、ここでは天の「彗星」と海の「鯨」とが対応物だというわけですね。とにかくこの作品では、「天上」と「海中」の間に、相同性、双対性があるとされていて、チュンセとポウセが墜落することによって「天」と「海」が入れ替わっても、そして最後に天上に戻されることで再び両者が入れ替わっても、双方には相似の世界が広がっているのです。
それでは、「青森挽歌」において「海中を走る列車に乗っている」賢治に対して、このような「天上」と「海中」の入れ替え操作を行うと、どうなるでしょうか。
もちろん列車は、天上の空間を、星々の間をめぐりながら走る、ということになるわけです。トシのことを思いながら夜汽車に乗っていた賢治は、ひょっとしたらこういうイメージの変転によって、「銀河鉄道の夜」の着想に至ったのではないかと、私はふと思ってみたりする次第です。
コメント