前回の記事「産業組合のトラウマ?」では、「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文をご紹介し、その中には1935年(昭和10年)に刊行された本に、岩手県の産業組合青年組織が「『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行った」という記述があることに触れました。
すなわち、賢治が花巻農学校で実践し、本当は羅須地人協会でもやりたかっただろう「農村演劇」を、彼の没後まだ間もない時期に、岩手県内で実際に行った若者たちがいたというわけです。これは非常に興味を惹かれる話でしたので、今日は国会図書館関西館でちょっと調べてみました。
この記述の出典は、西尾愛治編『産青聯の活動事例』(成美堂書店,1935)という本で、国会図書館ではすでにデジタルデータ化されているのですが、「館内限定閲覧」になっているのでインターネットで見ることはできず、図書館まで足を運ぶ必要があったわけです。
で、下の写真が、『産青聯の活動事例』の中で「岩手県における演劇活動」について紹介している箇所です。
内容を書き起こすと、以下のとおり。
二、岩手縣産青聯田河津支部の演劇部設置
依・岩手の盟友第二七號最近岩手縣東磐井に於ける田河津支部の活動は最も目覺ましいものがあり、組合員の教育活動も次第に組合員の覺醒を促し其の姿は最近支部の事業に當つて積極的援助となつて現はれ、組合員は着々産業組合に對する認識を高め、かへつて組合員から部落座談會の提唱が擧げられる等、次第に理想の産業組合組織形態に進みつゝあるが、同支部ではこれに力を得、更に支部の陣容を整備刷新する事になり、兼て計畫中の女子部を設置消費經濟を中心として活發な婦人運動を展開する筈であるが又同時に演劇部を設け各部員をそれぞれ決定、農村文化運動の達成に向つて一大烽火を擧げる事となつたが、岩手縣産青聯の中堅として根強い青年運動を續けて行く東磐井各支部の活動に強豪田河津を中心として今や活發な實践の繪卷を展開して來た。
ということで、岩手県内で演劇活動を始めたという産業組合青年連盟は、東磐井郡の「田河津支部」だったのです。
この『産青聯の活動事例』という本には、他の産青連で「演劇」を行っているという報告は見当たりませんでしたので、この田河津村では、全国的に見てもかなり早期に、「農民劇」が発足したということでしょう。
「田河津村(たこうづむら)」は、岩手県南部にあった村で、現在は一関市東山町の一部になっています。
田河津村の合併の歴史をたどると、1955年(昭和30年)に長坂村と合併して「東山村」に、さらに1958年(昭和33年)にはその東山村と松川村が合併して「東山町」となり、長らくこの状態が続いていましたが、2005年(平成17年)に一関市に吸収合併されました。
上の地図で水色を付けた部分が、旧「東山町」に属した三つの村です。このあたりは、花巻からはかなり遠く離れていますが、しかし松川村は「東北砕石工場」があった場所、長坂村はその工場長の鈴木東蔵の出身地ということで、賢治との縁は、かなり深い地区です。
賢治は1931年(昭和6年)に、このあたりに足繁く通ったわけですが、その際に賢治と田河津村の青年との間に何らかの接触があって、それがもしかして後にこの地区に、全国でも先駆的な演劇活動を始めさせる要因になったとすれば、とても胸が躍ることです。
たとえば、田河津村出身で東北砕石工場の工員となっている青年がいて、たまたま休憩の時などに、賢治が農学校で上演した劇の話や、農民劇を通した農村文化振興の意義について、お茶を飲みながら話を聞いていたとしたら・・・、そして青年がその後、あの先生の言っていた農民劇を村でやってみたいと一念発起したら・・・ということなどを、私はつい想像してみたくなります。
賢治は、東北砕石工場に来るたびに、タオルや、「唇がくっつくような」上等の米や、小さな布袋に入ったお菓子などのお土産を工員たちのために持参し、工員と一緒にお茶を飲みつついろんな話をしたということです。
鈴木東蔵の長男の鈴木實氏は、賢治と工員たちの関係について、次のように回想しています。
賢治の帰った後の工場には、賢治を思慕する異様な空気が残っていて、その不思議な存在を私は肌で感じていた。(中略)
賢治が来訪しますと、数日はきまって賢治のまねなどをしながらその話が続きました。賢治と東蔵両者の関係も良好なスタートでしたが、賢治はさらにあのような工員たちにふれ、この人達のためにもと、努力の決意を固めたのではないでしょうか。貞治(引用者注:東蔵の叔父)がよく命をうけて花巻に行きますと、賢治は「工場が困るから、工場が困るから」といつも工場のことを心配していたと語っていました。これがまた工員たちに伝わり、賢治と工員たちの心は一体となっていきました。(鈴木實『宮澤賢治と東山』より)
ひょっとして、このような賢治と工員たちとの暖かい交流によって偶然にも播かれた種が、賢治の没後に芽を吹いていたのだったら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
まあ、こんな勝手な空想の真偽については、今となっては確かめようもありませんが、元来この東山町というところは、青年の文化的活動は昔から盛んな土地だったようです。
鈴木東蔵が長坂村役場の書記時代には、青年たちを集めて「演芸発表会」を行っていたということですし、その著書『理想郷の創造』には次のような一節があり、「音楽や演劇」を若者に推奨しています。
娯楽と教化を同時に与えるような音楽や演劇は楽しんでいるうちに、知識を広め、趣味を高め、品性を陶冶する効果は計り知れない。(中略)精神的に娯楽を得ている住民は、終日の労働で疲労している身体も、別天地に遊べれば、翌日また元気が回復して大いに働けるようになる。(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)
一方、その長男の鈴木實氏は戦後まもない時期に、青年たちとともに賢治の作品を読む学習会を長坂村で行い、この青年の集まりが発展する形で、1948年に賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ碑が、村に建てられることになりました。
これが、谷川徹三揮毫による、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の碑です。賢治の碑としては、その元祖たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑に次いで、全国で二番目にできたものでした。
鈴木實氏と青年たちが、賢治の作品の中で最も深い共感を寄せたのが「ポラーノの広場」であったというのも、産業組合的な青年組織を象徴するものとして、示唆的です。
結局、田河津村と賢治との間の、具体的なつながりの有無はわからないのですが、賢治の死後もこのあたりの土地には、その縁がずっと息づいていたことだけは確かです。
賢治碑除幕式記念撮影
(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)
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