大島丈志著『宮沢賢治の農業と文学』

 本年度の宮沢賢治賞奨励賞を受賞された大島丈志さんの著書、『宮沢賢治の農業と文学―過酷な大地イーハトーブの中で』という本を読みました。

宮沢賢治の農業と文学―苛酷な大地イーハトーブの中で 宮沢賢治の農業と文学―苛酷な大地イーハトーブの中で
大島 丈志 (著)
蒼丘書林 (2013/7/1)
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 目次は、下記のようになっています。

序章 宮沢賢治の生涯と農業 考察の方法

第一章 盛岡高等農林学校の幻影 羅須地人協会以前
  1 「チュウリップの幻術」という装置
  2 「紫紺染について」
  3 「農民芸術」が生まれる土壌
  4 十六人の百姓の行方

第二章 投企する農業技術者 「農民芸術概論綱要」・羅須地人協会時代
  1 詩「第三芸術」から「農民芸術概論綱要」へ
  2 詩「産業組合青年会」をめぐって
  3 農夫へのまなざし 文語詩「副業」を読む
  4 「〔或る農学生の日誌〕」における一農民の孤独

第三章 羅須地人協会時代以降 「グスコーブドリの伝記」を中心に
  1 「ポラーノの広場」論
  2 「グスコーブドリの伝記」論
  3 一九二〇~一九三〇年代における宮沢賢治の農業思想
   

補論 宮沢賢治作品と同時代の潮流
  1 「雪渡り」論
  2 「鳥箱先生とフゥねずみ」における不条理の構造
  3 「烏の北斗七星」を読み直す

 この本は、著者がこれまでに書かれた論文を集成したもので、「補論」を除き、何らかの形で農業に関連した主題を扱っています。
 宮澤賢治という人が、農学を修め、農学校の教師をして、さらに自らも農耕に携わって青年たちと「協会」を作るなどの活動を行ったことは、よく知られています。そしてその作品を読む者は誰しも、農業や農民に対する賢治の深い思い入れに、直に触れることができます。
 しかし、その実際の活動や農業思想の位置づけ・評価については、まだ十分な研究がなされているとは言えません。著者の言葉を借りれば、次のような現状があります。

 農業に関わった宮沢賢治、というイメージは溢れているものの、賢治・賢治作品と農業とはどのような関係にあったのか、また農業実践の内実はいかなるものであったのか、さらに同時代の中でどう位置づけられるのかは解明されておらず、問題は山積しているのである。

 この本に収められている数々の論考は、まさにこの山積した問題に対して、緻密に実証的に迫ろうとしたものです。なかでも圧巻なのは、「第二章 投企する農業技術者」と「第三章 羅須地人協会以降」の部分で、ここで著者は賢治の実践や思想に迫るために、たとえば当時の岩手県農会や産業組合に関する基礎的な文献を丹念に調査し、また農業統計データはグラフ化して考察するなどして、賢治の行動や思考をその背景から浮き彫りにしていきます。

 なかでも私にとって印象深かったのは、第二章の章題「投企する農業技術者」という言葉にも込められていることですが、賢治が行った「肥料設計」の特徴として、「化学肥料を多く使用し大増収を狙うという山師のような」(本書p.176)傾向があったという指摘です。当時、岩手県農会も一種のモデル事業として、少数の農家を対象に「農業経営の設計作成からその実施」を指導していたということなのですが、この県農会による肥料設計と比較すると、賢治のそれの方が化学肥料の比率が高く、「多肥多収」を目ざすものだったというのです。
 まあこのことは、すでに川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』にも書かれていたのを私が不勉強にも知らなかっただけなのですが、本書において著者はこれを指摘した上で、賢治がこのような方針で農業指導をしていた背景について、「先づ経済生活を潤沢にして後精神生活に覚醒を来させる」(賢治の言葉として『岩手県農会報』1928に掲載)という考えがあったからだろうと考察しておられます。

 現代における賢治のイメージは、「エコロジー」や「オーガニック」などの言葉と関連づけられやすいと思いますので、化学肥料をどしどし使っていたというのはちょっと意外な感じもしますが、技術者としての賢治の基盤は高等農林学校で身につけた近代科学であり、その中でも最も惹かれていたのが「化学」だったわけですから、この流れはある意味で自然なことです。
 あるいは、このように多少の無理をしてでも一挙に増収を狙うという「山師」的な部分は、どこか賢治の性向と親和性があるのかもしれません。本書でも指摘されているように、「巨利を獲るてふ副業」(文語詩「副業」)に精を出す青年や、「グスコーブドリの伝記」に出てくる山師の「赤髭の主人」に、賢治がどこかで共感を寄せていることとも、これはつながるものでしょう。

 また、これとも関連することですが、従来の多くの研究者は賢治が理想としていたのは「農村における自給自足経済」であると考えていたのに対して、著者は、「自給自足経済と花巻という地域を超えた商品経済とを複合したハイブリッドなもの」(p.197)であったと結論づけています。

 このように、本書において著者は、賢治と農業の関わりについてこれまでの研究者が述べてきたことや、漠然とイメージとして語られてきたことに疑問を投げかけ、丁寧な論証によって、その従来とは異なった側面に光を当てていきます。
 私自身、これほどの調査には足元にも及びませんが、少し前に「何をやっても間に合はない」という記事を書く際に、当時の農家副業の実情について若干調べてみたことがありましたので、いろいろと共感しつつ読むことができました。

 ところで、この本を読みつつ私があらためて大きな疑問として感じたのは、賢治は農業を進歩させたい、農村をよりよく変えたいと強く望み、いろいろ工夫しながら活動を行ったにもかかわらず、その過程においては、「系統農会」と「産業組合」という当時の農村における二大組織に積極的に関わったり、自分の理想実現のために協調したりしなかったのは、いったい何故なんだろうか、ということです。

 川原仁左エ門氏が『宮沢賢治とその周辺』に記録しているように、賢治は盛岡市の「岩手県農会」の事務所にはよく立ち寄り、全国各地の農会報をチェックしたり、農業関係の蔵書を閲覧したりして知識を仕入れるとともに、盛岡農林学校の同窓生で岩手県農会技師をしていた大森堅弥とは、論戦もしていたということです。
 しかし、農会として「岩手甘藍」を何とか岩手の特産物にしようと考え、稗貫地方も適地であることから大森技師が賢治に相談した際には、「こういう仕事は私にはむきません」とあっさり断ってしまったということです。また、地元の「稗貫郡農会」や「花巻川口町農会」に、賢治が何かの関わりを持ったという話も聞いたことはありません。
 大島丈志氏が書いているように、「農会との間に距離があった」のです。

 また産業組合に関しては、農学校教師時代に有名な「産業組合青年会」(「春と修羅 第二集」)という作品があり、この時に賢治が何らかの形で産業組合の青年組織と関わりを持ったことは確かと思われますが、それ以外には産業組合に関係する記録は目にしません。
 賢治は羅須地人協会において、農産物の物々交換を行ったり、食品加工・工芸品製作などもしようと考えていたようです。また「種苗協会」のようなものを構想していたという教え子の回想もあり、これらはいずれも一種の産業組合的活動です。さらに「ポラーノの広場」も、ある産業組合設立の苦労と成功を描いた作品と言えます。
 つまり賢治は、農村における産業組合活動に対して、かなり積極的な希望を託していたと思うのですが、現実には産業組合と関係する活動を行わなかったのは、いったいどうしてなのでしょうか。

 当時、花巻川口町や花巻町には、農村産業組合はありませんでした。しかし羅須地人協会時代の賢治は、農業に関する相談や指導のために、花巻近郊の太田村、湯口村、湯本村、好地村、八幡村、矢沢村などを巡っており(たとえば「〔澱った光の澱の底〕」)、これらの村には、それぞれの産業組合があったのです。講演や指導に行った際に、もし地元の産業組合の関係者と接触することができたなら、賢治の知識やアイディアを持ってすれば、その「顧問」的な役割を担うこともできたのではないでしょうか。
 個人的に「無料の肥料設計」をするだけでなく、既存の組合を通しての組織的活動に関わることができれば、もっと系統的な形で、農業知識の普及や新たな企画に取り組めたのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。

 繰り返すと、「賢治がその農業実践活動において、農会や産業組合という団体・組織から距離を置き、積極的に関わろうとしなかったのはなぜなのか?」というのが私の疑問です。
 これは、賢治が「〔或る農学生の日誌〕」において主人公に、「ぼくはどこへも相談に行くとこがない」と悲痛な叫びを上げさせているところの、深刻な「孤独」と通底するものではないかとも、私には思えるのです。

 この疑問の答えはまだ私にはわかりませんが、一つの要因としてふと思うのは、賢治は「産業組合青年会」という作品に記録した1924年10月5日の夜、産業組合青年会の場で体験した出来事が、一つのトラウマとして心に残り、このような団体に関わることを躊躇させたのではないか・・・ということです。
 しかしこれ以上の個人的詮索は、また別の機会に譲りましょう。

 大島丈志氏の素晴らしい本は、いろいろなことを考えさせてくれました。