福島の獣医千葉喜一郎氏

 1932年(昭和6年)4月19日付けで、病臥中の賢治から東北砕石工場長の鈴木東蔵にあてた書簡412に、次のような一節があります。

次に一昨日福島市畜産家獣医千葉喜一郎氏村松博士のご招介にて御来訪有之、工場産の搗粉と房州砂及三春産のものとにて家畜に飼養試験を農林省委託として大規模に行ひ、工場産のもの殆んど薬用炭酸石灰に劣らざる良成績を挙げ他地産のもの到底及ばざるを確認したるを以て七月中には農林省佐藤博士と共名にて同省報告に工場名を明記して之を発表すべしとのこと御報有之且つ色の黝き点も何等差支なき由申され候。就ては此の際他品との競争最至難なる福島栃木新潟方面の一手販売を引き受け度く貴下に面談致し度とのことなりしも御上京中の由申候処いづれ手紙にて交渉致べくとて盛岡を経て帰県せられ候。同氏の言には販路は充分に有之たゞ、価格の点福島市渡し十三貫四十三銭(房州砂の価格)まで工夫なきやとの事に有之御採算の上御返事願上候。粒径の点は或ひは従来のものより稍々大なるも宜しかるべく且つ牧草地用及水田用のものより微粒風撰採取しても差支無之と存じ候間御考慮願上候。(強調は引用者)

 また、翌1933年(昭和8年)2月15日付けでやはり鈴木東蔵へあてた書簡453aには、次のような一節があります。

拝啓 十四日発の御葉書拝見仕候。
冊子への当座の資料、四五別便にて送上候間、最后の項に福島市獣医の方の氏名御挿入の上、各項適宜御取捨被成下度、今回は本文へは全く手を附けず置き度存候。亦冊子とせず一枚刷ならば、仰せの通り全く従前通りのものも宜敷と存候。冊子印刷に一ヶ月以上間も有之候はゞ、本文全部時宜に適する様書き直し度存候。(強調は引用者)

 1931年(昭和6年)9月、重いカバンを持って東京までセールスに出かけて病に倒れ、その後は花巻で病床に就きながらも、翌年、翌々年と、死の直前まで賢治が東北砕石工場のことを気に懸けて、様々なプランを考え続けていたことを物語る書簡です。

 さて、この書簡412に、突然花巻の宮澤家を来訪し、東北砕石工場産の石灰搗粉について非常に好意的な評価を伝えてくれた人物として、「福島市畜産家獣医千葉喜一郎氏」が登場します。
 そして賢治は、翌年に工場の新たな宣伝パンフレットを作成する過程においても、専門家の立場から搗粉を評価してくれたこの「福島市獣医」の氏名も掲載するよう、鈴木東蔵に勧めています。

 なにせ、東北砕石工場で生産した石灰搗粉を、当時まで搗粉の大半を占めていた「房州砂」や、千葉氏にとっては地元である福島県三春町産の石灰搗粉と比較して、「他地産のもの到底及ばざるを確認し」と報告してくれたのですから、賢治としてはとても嬉しかったに違いありません。
 さらに千葉氏は、単にこの実験を行ったにとどまらず、その結果を農林省の報告に「工場名を明記して」発表してくれる上に、「福島栃木新潟方面の一手販売を引き受け度く…」と申し出てくれたというのです。東北砕石工場としてはまだほとんどセールス展開ができていなかった地域に、一気に強力な足場ができそうな状況になったわけですから、賢治にとっても鈴木東蔵にとっても、こんな有り難い話はなかったでしょう。

 それにしても、福島市で獣医院を営む千葉喜一郎氏は、福島県内にも三春町をはじめ石灰岩の産地はいろいろあったにもかかわらず、そのような地元の利害を離れて、わざわざ岩手県にある東北砕石工場の製品の一手販売を引き受けようと考えたわけです。いったい千葉氏は何のために、このような思い切った申し出をしてこられたのでしょうか。
 その理由として考えられることの一つとしては、とにかく畜産家によりよい製品、科学的効果のある製品を届けたい、そして人々の仕事を実りあるものにしたいという、獣医師としての千葉氏の思いがあったのかもしれません。そうであればこれは、病を押して東北砕石工場の技師になって奔走した賢治の思いにも、通ずるものがあります。
 もう一つ考えられることとしては、千葉氏がはるばる花巻まで賢治を訪ねてきた行動にも表れているのではないかと思うのですが、千葉氏はこの東北砕石工場の技師をしている宮澤賢治という男が、盛岡高等農林学校の先輩であることに、何らかの親近感をい抱いていたからかもしれません。
 東北砕石工場製造の石灰搗粉の販売交渉をしたいのであれば、陸中松川にある工場本社に責任者を訪ねる方が話が早いはずですし、またその方が福島から行くにも距離は近いのです。それなのに、わざわざ花巻まで「嘱託技師」を訪ねて来たのは、まず何よりも賢治という人に会ってみたかったのではないでしょうか。
 宮澤賢治という技師が、盛岡高等農林学校出身であるということを調べる過程では、石灰肥料に関する斬新な広告文を起草して、科学的見地から広報しようとする賢治の仕事ぶりについて知る機会もあったでしょうし、前述のように千葉氏にも農業に対して同様の思いがあったとすれば、そこに賢治の姿勢への共感も、湧いてきたのかもしれません。

千葉喜一郎 千葉喜一郎氏は、1902年(明治35年)に福島に生まれたということですから、賢治の6歳年下ということになります。福島中学から盛岡高等農林学校畜産科に進み、福島市内で家畜医院を開業した後も、旺盛な研究活動を続けました。
 千葉喜一郎氏の右の写真は、菅野俊之著『ふくしまと文豪たち』から引用させていただいたものですが、菅野氏は、宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第38号に掲載されている「福島市の獣医師千葉喜一郎について」という文章や、上記の『ふくしまと文豪たち』において、千葉氏の経歴について詳しく調査した結果を、まとめておられます。
 それによれば、千葉喜一郎氏は福島県獣医師会会長、日本獣医師会副会長も務め、畜産業の振興と公衆衛生の発展に寄与した業績により、1967年(昭和42年)に藍綬褒章を、1974年(昭和49年)に勲四等瑞宝章を受章したということで、その社会的貢献の大きさがうかがえます。

 千葉喜一郎氏の獣医学における研究業績を調べてみると、国会図書館に所蔵されている文献の中で、千葉氏が筆頭著者となっている論文としては、以下のものがありました。

  1. 馬の骨軟症の實驗的研究. 中央獣医会雑誌43(10); 843-868, 1930
  2. 馬の左右睾丸重量の統計的觀察. 中央獣医会雑誌44(4); 269-282, 1931
  3. 馬の骨軟症に關する研究(第二). 中央獣医会雑誌44(12); 947-969, 1931
  4. 昆布ノ「ヴィタミン」ト其能力ニ就テ. 日新醫學1(1); 1584-, 1936
  5. 簗川病に就いて. 日本馬事会雑誌1(2); 22-25, 1942
  6. 本邦に發する馬の所謂骨軟症骨質の組織學的研究. 臨床獣医学新報19(2); 40-44, 1943
  7. 馬の骨軟症の實驗的研究 第四. 盛岡高農同窓会学術彙報7; 1-10, 1943
  8. 馬匹無保定去勢手術に就て. 日本獣医師会学術彙報13; 1-18, 1943
  9. 砒素系化合物の探究と生物化学的研究. 日本獣医師会雑誌4(12); 418-419, 1951

 上記の 6.が、千葉氏の博士論文として北海道帝国大学に提出され、獣医学博士号を授与されたものですが、この論文も含めて、1.3.6.7.は、馬の「骨軟症」というカルシウム代謝障害をテーマとした研究であり、特にこの疾患が、若い頃から千葉氏の専門的研究対象であったことをうかがわせます。
 今やそのことを念頭に置けば、千葉氏が石灰搗粉に特別な関心を示して、わざわざ賢治のところまで訪ねてきた事情も理解できます。
 炭酸石灰=CaCO3 を効率的に家畜に摂取させてカルシウムを補充することができれば、「骨軟症」を治療あるいは予防することができるのです。

 たとえば、上記の 7.(下写真は国会図書館近代デジタルライブラリーより)において、千葉氏は中等症から重症の「骨軟症」に罹患した12頭の馬に対して、「石灰藁」(消石灰の懸濁液で稲藁を煮沸したもの)を120日間食べさせるという実験を1929年から1931年にかけて行ったということです。その結果、どの馬においても「骨軟症」の症状はほとんど消失し、顕著な回復を見せたというのです。

馬の骨軟症の実験的研究 第四

 馬の「骨軟症」の治療として、カルシウムを摂取させることが有効であることがわかれば、あとはどのような形でそれを与えればよいか、ということが実際的な問題となります。上の実験で使われた「石灰藁」という家畜用飼料は、当時新たに開発されたもので、その効果の点では大変優れていましたが、消石灰の価格や作成の手間に難点があり、これがもしもより安価な石灰岩抹でも有効だということになれば、畜産農家に広く普及させる上で、かなりのメリットがありえます。
 千葉喜一郎氏が、福島県三春町産や東北砕石工場の石灰搗粉を、家畜に与える比較試験を行ったということの目的は、おそらくここにあるのでしょう。
 そして、当時まだ30歳になるかならないかという少壮の研究者であった千葉氏が、この「飼養試験を農林省委託として大規模に行ひ」ということができたのは、この分野に関しては、若くとも第一人者として農林省からも認められていたからなのでしょう。

 ・・・と、ここまで長々と書いてきましたが、実は今回の記事を書こうとした私の最大の関心は、千葉氏が「七月中には農林省佐藤博士と共名にて同省報告に工場名を明記して之を発表すべし」と、賢治に約束したこの「農林省報告」を、何とかして見つけられないかということにありました。
 戦前の「帝国図書館」として、政府の刊行物の大半を所蔵している国会図書館は、こういう文献を持っている可能性が最も高い場所ですから、その蔵書をWebからあれこれ検索してみたのですが、なかなかそのような文献は見つかりません。
 そうこうするうちに、検索対象を国会図書館に限らず、全国の公共図書館として探していると、ついにそれらしき本にめぐり会いました。

 それは、「農林省獣疫調査所」が1932年(昭和7年)10月に刊行している、『骨軟症の予防に就て』という本で、岩手県立図書館が所蔵していました。
 1932年~1933年に農林省が刊行した文献627件を通覧した中で、今回のテーマに関わるようなものは他に見当たらず、また千葉氏が家畜に石灰搗粉を給与した目的が「骨軟症」対策であったことは上にも見たとおりですから、おそらくこの本で間違いはないのではないかと思っています。

 というわけで、いずれ盛岡を訪ねる機会があれば、岩手県立図書館に寄って、この『骨軟症の予防に就て』を閲覧してみたいと思います。
 千葉氏が言ったとおり、「東北砕石工場」の工場名は「明記」されているでしょうか。あるいは、1932年4月17日に千葉氏が賢治を訪ねた際に話し合った内容まで触れられていたらスゴいのですが、さすがに政府刊行物にそこまで期待するのは無理でしょうね。
 またこの本が、千葉氏の母校のある岩手県の図書館に全国で唯一所蔵されていたのは、千葉氏が寄贈したなど何かの所縁があるのではないかとも思うのですが、どんなものでしょうか。

 なお余談ながら、今も千葉喜一郎氏のご子孫は獣医をしておられて、福島市内で「千葉小動物クリニック」を開いておられるということです。