もう1週間後に能『中尊』の公演を控えているのですが、今さらながら泥縄式に能のお勉強などをしようと、『能はこんなに面白い!』(小学館)という本を読んでいました。
能はこんなに面白い! 内田 樹 観世 清和 小学館 2013-09-13 Amazonで詳しく見る |
著者の一人、内田樹さんは本職はレヴィナスの研究を専門とする哲学者ですが、ブログ「内田樹の研究室」ではいつも社会に対して鋭い識見を示しておられますし、合気道、居合道などの修行をする武道家でもあります。中所宜夫さんが能『中尊』を創作する源泉の一つとなった「原発の鎮魂」という構想は、内田樹さんの考えに由来していたということは、前回述べました。
この内田さんが、関西に赴任してきたことをきっかけに能を習うようになったという縁で、上の対談本は生まれています。
ところでこの本の中の、次の箇所に私はとても興味を惹かれました。内田さんが能を習い始めて、しばらく経った頃のことです。
社中の発表会のために舞囃子を稽古していた時、地謡と囃子方の玄人たちを入れた「申し合わせ」を能楽堂で行った。何の曲だったかもう覚えていない。『融(とおる)』だったか『養老(ようろう)』だったか。とにかくそのときに、私が目付柱に向かってすり足で進んでいると、左後ろに位置するシテ方たちから舞台上の空気が震えるような地謡が届いた。その地謡は明らかに空間を歪ませていた。舞台上の空間密度が均質ではなくなり、濃淡の違いが生まれた。私自身は何もない能舞台の空間を、教えられた道順通りに歩んでいるのだが、音楽の介入によって空間が歪み、舞台の空気密度に濃淡の差が生じ、粘度の差が生じ、「通れる空間」と「通れない空間」の違いが生じる。立つべきときに、立つべき場所に立つことを能舞台という場そのものが要請している。
(中略)
その頃、下掛宝生流のワキ方安田登さんとはじめてお会いした。気になっていたので、まずそのことを訊いた。「空間の密度が濃くなって、ゼリーの中を歩いているように感じられることってありませんか?」という私の話に安田さんはつよく反応して、ご流儀では「寒天の中で動く」という比喩を用いることがあると教えてくださった。空間には固有の粘度があり、それが舞のあるべきかたちを導くという私の直観はあながち妄想ではなかったようである。(p.116)
ここに登場する安田登さんは、来週法然院の能『中尊』において、ワキ方を務めていただくことになっているというのも不思議なご縁ですが、それはともかく私が興味を惹かれたのは、宮澤賢治という人もいくつかの作品において、空気に密度の差が生じるとか、ゼリー状になっているとかいうことを書いているからです。
たとえば下記は、「東岩手火山」(『春と修羅』)の終わり近くの一節です。
天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと撚 になつて飛ばされて来る
きつと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液 に
また水を加へたやうなのだらう
ここで賢治は、岩手山頂の空気の密度が撚り糸のように不揃いになって流れているのを感じ、これを「濃い蔗糖溶液に水を加えた」という視覚的イメージで捉えています。水溶液に、陽炎のようにうるうると透明の模様が動いている様子ですね。
次には、「車中」(「春と修羅 第二集」)の全文を載せてみます。
四一〇
車中
一九二五、二、一五、ばしゃばしゃした狸の毛を耳にはめ
黒いしゃっぽもきちんとかぶり
まなこにうつろの影をうかべ
……肥った妻と雪の鳥……
凛として
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
……風が水より稠密で
水と氷は互に遷る
稲沼原の二月ころ……
なめらかででこぼこの窓硝子は
しろく澱んだ雪ぞらと
ひょろ長い松とをうつす
「風が水より稠密で」という部分に、空気の密度が水よりも大きく(濃く)なっているという事態が、表されています。
次もこれと同じく、風が水よりも「濃い」ということを言っています。「〔水よりも濃いなだれの風や〕」(「春と修羅 第二集補遺」)の、冒頭部分です。
水よりも濃いなだれの風や
縦横な鳥のすだきのなかで
ここらはまるで妖精たちの棲家のやう
つめたい霧のジェリイもあれば
桃いろに飛ぶ雲もある
そして、「青森挽歌」(『春と修羅』)の冒頭部分。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
けれどもここはいつたいどこの停車場だ
枕木を焼いてこさえた柵が立ち
(八月の よるのしづまの寒天凝膠 )
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる
ここでは、夜行列車の窓を水族館に見立てたことをきっかけに、その列車が「寒天凝膠」のように粘性のある静かな夜の空間を、切り裂いて走って行くイメージが生まれています。
(八月の よるのしづまの
このように、賢治がいくつもの作品において、空気の質感の「稠密さ」や「粘性」を描写しているからには、彼もまた能楽師のように、そういう実感を持つことが現にあったのだろうと思います。
そして、「空気」の存在をふだんは忘れている我々一般人とは違って、自分たちを包んでいる「媒質」の質感を感覚的に意識していたからこそ、人が生活しているこの地表のあたりのことを、「気圏の底」と表現していたのではないかとも思うのです。
最後に宣伝ですが、3月2日(日)の法然院の能『中尊』は、まだ残席があります。
能に関心をお持ちの方、福島の現実に思いを寄せておられる方、ふだんは拝観できない法然院本堂を一度見てみたいという方、ぜひともお越し下さい。当サイト管理人あてメールで予約できます。
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