「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」終了

 もう1週間たちましたが、去る3月2日(日)に、「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」(能楽らいぶ『中尊』)が、無事終了いたしました。ご出演、ご協力いただいた方々に、ここに厚く御礼を申し上げます。
 日曜の夜にもかかわらず、多くの方々にお越しいただくことができました。ご参集いただいた皆様にも、心より御礼申し上げます。今回も、参加費から経費を除いた全額は、被災地における復興支援活動に寄付させていただきます。

 さて、法然院というお寺を巡ると、本当にたくさんの花が供えられているのを目にします。

 ご本尊の阿弥陀如来坐像の前には、人間の臨終の際に阿弥陀如来とともに浄土から迎えに来るという「二十五菩薩」を表す二十五輪の生花が、「散華」として毎日供えられています。

法然院・阿弥陀如来坐像と散華

 上の写真で、床の上に幾何学的に配置されている藪椿の花が、それです。この椿以外にも、たくさんの花が生けられています。

 廊下から手水鉢を見ると、ここにも生花が毎日浮かべられています。

法然院の手水鉢

 花がこんなにたくさん供えられているお寺で、しかもそのご本尊の阿弥陀様の前で、「花を奉る」という祈りを中心とした能が舞われるというのですから、こんなにうってつけの舞台が、他にあるでしょうか。
 今回、この場所で『中尊』が演じられるためのお手伝いができたことは、私たちにとっても願ってもない光栄でした。

 公演は、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で「なめとこ山の熊」などのかたりを聴かせて下さった竹崎利信さんによる、「花を奉る」の朗読で始まりました。
 ここでまず、石牟礼道子さんによる「花を奉る」の祈りが、皆の心の底にくっきりと楷書体で刻まれます。

竹崎利信・朗読「花を奉る」

 そして静かに続けて、能『中尊』が始まりました。

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆへにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず

能『中尊』

 シテとワキが徐々に「薄墨にとけ込んでゆくように」(by @flaneur51)退場すると、あらかじめ出演者の要望によって拍手はご遠慮いただくように皆様にお願いしてあったので、暗い本堂は、しばらく深い沈黙に包まれました。

 重く美しい言葉の連なる石牟礼さんの「花を奉る」の中でも、上に引用した「かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)/かりそめの姿なれども おろそかならず・・・」という箇所は、本当に痛切に心に沁み入ります。

 「まなうらにあるものの御形」とは、今は亡き、大切な人々の面影ではありませんか。ここで私は、3年前の地震や津波で亡くなった人々のお顔を、それぞれの身内の方々が思い起こしておられる様子が浮かんでしまって、胸が締めつけられました。
 このような面影は、たとえそれがどんなに愛しいものであっても、仏教の正しい教えに従えば、「仮象」にすぎません。しかしまた一方、どんなに教えが尊くても、やはりそれは一人一人の生きている人間にとっては、「おろそかならず」なのです。
 だから人間は、「空し」とわかっていても、その「御形」をまなうらに浮かべて、礼拝します。
 そしてまた、理知の教えによって「空し」とわかっていても、あえて「空しとは云わず」と、石牟礼さんは静かに、はっきりと言うのです。

 「死」という現象にまつわるこの深い葛藤――死に対する理性的な認識と、人間的な感情との間の相克――は、宮澤賢治が「オホーツク挽歌」の旅において、妹トシの死をめぐって抱えていた苦悩に、ちょうどそのまま対応するものでしょう。
 その相克に、賢治と石牟礼さんがそれぞれ対峙した様子は、またかなり異なって感じられます。
 賢治は、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》(「青森挽歌」)と厳しく念じ、最終的には、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という心境へと、浄化されていきました。
 石牟礼さんは上に記したとおり、「ゆへにわれら この空しきを礼拝す/然して空しとは云はず」と、相克は相克のままに肯定しておられるようです。
 宗教的な意味合いはともかく、私個人にとっては、石牟礼さんのスタンスの方が「人間的」な感情を残してくれている分、わかりやすく感情移入しやすいものではあります。

 あらかじめ自分なりに謡本を熟読しておき、昨年9月の演能の一部を動画でも見て、そしてついにこの日、能『中尊』を直に拝見したわけですが、私にはその作品全体は、美しい一篇の詩のように感じられました。
 ・・・「悲しみ」があって、そこに再生の象徴となる「中尊寺蓮」があって、その「花」を、石牟礼道子さんの祈りとともに、「奉る」・・・。

 作中時間と同じ「3年目の春」を迎えようとしている私たちの心に、この作品は震災や原発事故のことを痛切に呼び覚ましましたが、上記のように研ぎ澄まされたシンプルなその「形」は、そのような具体的な文脈を超えて、「古典」のような美しさを静かに放っているように感じられたのです。

 一方、当日はこの「能楽らいぶ」と並行して、鈴木広美(ガハク)さんと恭子さんによる、「花を奉る」をテーマとした作品の展示が、本堂裏の「食堂(じきどう)」で行われました。お二人は、この催しのためにはるばる埼玉から作品を持って駆けつけて下さったのです。
 現在私の手元にはこの展示の様子を写した写真がなく、目に見える形でご紹介できないのがとても残念なのですが、「文殊菩薩像」が祀られている対面には、花の器を持つ「シバの女王」の彫刻が置かれ、イーゼルには7枚の油絵が、机の上には9枚の銅版画が飾られ、大広間全体は、精霊たちが踊るような空間になりました。
 この美術展の画像が入手できましたら、またあらためてご紹介させていただきたいと思っています。
 なお、展示していただいた作品の一部は、ガハクさんご自身のブログ記事「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にて、ご紹介されています。

 今回も、本当にたくさんの方々のお力添えのおかげで、素晴らしい催しを行うことができました。あらためて、皆様に御礼申し上げます。
 当日いただいた参加費と募金、それからガハクさんたちからは絵の売り上げの20%をご寄付いただきましたので、それらを取りまとめて、また被災地支援の活動に寄付させていただきます。
 寄付先はまだ決まっていないのですが、今回の能では福島に祈りが捧げられ、また岩手の中尊寺蓮もテーマとなっていたことから、何か所縁のあるところにお送りできればと、思っております。


《これまでの歩み》

第1回 2011年4月17日 「アートステージ567」にて
  岩手弁による賢治作品朗読: すがわら・てつお/いいだ・むつみ(フランスシター)
     ⇒京都新聞社会福祉事業団に、15万2610円を寄付

第2回 2011年9月4日 法然院本堂にて
  現代能「光の素足」らいぶ公演: 中所宜夫
     ⇒宮沢賢治学会「イーハトーブ復興支援義援金」に、16万0815円を寄付

第3回 2012年3月4日 京都府庁旧本館正庁にて
  かたり「なめとこ山の熊」他: 竹崎利信/友枝良平(揚琴)
     ⇒大槌町教育委員会および陸前高田市教育委員会に、12万円を寄付

第4回 2012年12月2日 龍谷大学アバンティ響都ホールにて
  歌でつづる宮沢賢治の世界: 大神田頼子(S) 浦恩城利明(Br) 小林美智(Pf)
     ⇒陸前高田市「にじのライブラリー」に、11万0819円を寄付

第5回 2013年7月28日 京都府庁旧本館正庁にて
  ひとり語り「よだかの星」他: 林洋子/梅津三知代(アイリッシュハープ)
     ⇒「福八子どもキャンププロジェクト」に、7万2279円を寄付