能『中尊』について

 来たる3月2日に法然院で演じられる新作能「中尊」が、福島原発事故を潜在的なテーマとしたものであることについては、前回も触れました。

 この能の作者である中所宜夫さんは、3年前の震災と原発事故を受けて、何とかして能という営みを通して、「原発の鎮魂」を行えないかという思いを、ずっと抱いてこられたのだそうです。
 「原発の鎮魂」とは、何ともまた常識的な論理では理解しにくい言葉ですが、こういうことを言い出したのはレヴィナス研究者の内田樹氏で、その辺の経緯は、3年前に出版された『原発と祈り』という本になっています。(その一端は、内田氏のブログの「原発供養」という記事でも読むことができます。)

原発と祈り 価値観再生道場 (ダ・ヴィンチブックス) 原発と祈り (ダ・ヴィンチブックス)
内田樹×名越康文×橋口いくよ
メディアファクトリー 2011-12-16
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 この本は、内田氏ら3人の論者が、原発事故が起こってまだ3週間という時点で行った鼎談を収録しています。3年が経った現在から見ると、福島原発の行く末に対する当時の切迫感は半端なものではないですし、ちょっと言いすぎかなと思うところもなくはないのですが、しかしここで3人からにじみ出ている独特の高揚感、危機感、真摯さは、私たち日本中の皆が、2011年の3月から4月にかけては、総じて共有していたものです。
 3年後に読んでみると、私たちはある意味で少し冷静になったとも言えますし、原発の再稼働や放射能に対するあの頃の感性を、私たちが明らかに摩耗させて鈍感になっている、その現実をまた思い知らせてくれる文章でもあります。
 ここで内田氏らは、「原発供養」とか「原発の鎮魂」というコンセプトを呈示し、映画の『ゴジラ』ではゴジラの鎮魂のための歌を女子高生が歌う場面が出てくるとか、ウルトラマンというのはなぜか「仏像の顔」をしていて、怪獣の「荒ぶる魂」を「成仏」させているのだ、とかいうネタのような(?)話が展開されています。

 その内容については本そのものを参照していただくとして、いずれにせよ中所宜夫さんは、この「原発の鎮魂」というコンセプトを受け継いで、それが能という形に具現化できないかということを、模索して行かれたのです。
 その「具現化」のプロセスについては、中所さんご自身が、「『花を奉る』について」(能楽雑記帳)という文章に書いておられて、Web上で読むことができます。

 中所さんの「『花を奉る』について」にも記されているとおり、この『中尊』という能作品において、全体の「核」となっているのは、最後にシテによって舞われる石牟礼道子氏の詩、「花を奉る」です。
 この詩は、1984年に石牟礼氏が熊本県の無量山真宗寺における遠忌供養のために寄せた「花を奉るの辞」に由来しています。そして東日本大震災の翌月、作者自身がこれを改作して「花を奉る」とし、「大震災の翌月に」と末尾に記しました。

 下の『なみだふるはな』という本は、2011年6月に行われた石牟礼道子氏と写真家の藤原新也氏の対談を、収録したものです。この本の冒頭に、石牟礼氏は改作した「花を奉る」を掲げ、藤原氏は水俣と福島で撮影してきた花の写真を載せています。

なみだふるはな なみだふるはな
石牟礼 道子 藤原 新也
河出書房新社 2012-03-08
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 対談の中で石牟礼氏が語っているように、水俣と福島という二つの究極の場所において、結局は日本の「国の嘘」が露呈しました。
 この「嘘」の背景にあるのは、潜在的危険性を帯びた化学工場や原子力発電所を、都市から離れた辺境に建設して、その地に住む人々の生命や生活を奪った、この国の差別的な構造です。この意味で、水俣と福島は同型なのです。
 中所さんの能『中尊』においても、シテの女性は「新潟阿賀野に生まれ」、「親を水銀の毒で失い」という設定になっているところに、この同型性が象徴されています。

 一読いただけばわかるとおり、「花を奉る」という詩の言葉は、もの凄く重たく、悲観的で虚無的です。それはまさに、原発事故後3年が経とうとするのに先の灯りも見えない、今の福島の状況に釣り合っています。
 しかし同時にこの詩には、そのような底知れない暗黒をも照射するような、強い希望も秘められています。

 中所さんは石牟礼道子氏のことを、「現代において賢治の精神を受け継ぐ人」と表現しておられますが、その言葉のしなやかさや奥深さにおいて、この二人は通底する詩人だと思います。
 ちなみに、この「花を奉る」のテクストが、まるで誂えたように能の舞にぴったりと当てはまっていった様子は、中所さんの「『花を奉る』について」に感動的に記されていますので、ぜひともご参照下さい。

 一方、中所さんのご友人でもある詩人の和合亮一氏は、震災後まもない福島から、ツイッターを通して詩の連続投稿を開始されました。『詩の礫』と題されたその営みにおいては、「花を奉る」とはまた違った具象的な迫真性を持った言葉が、リアルタイムに紡ぎ出されました。

詩の礫 詩の礫
和合亮一
徳間書店 2011-06-16
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 私も震災後の一時期、暗い寝床で息をひそめるようにして、スマートフォンの画面でその投稿を見守っていたものです。それはたとえば、次のような詩句から成っていました。(『詩の礫』より抜粋)

放射能が降っています。静かな夜です。
                     2011年3月16日 4:30

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
                     2011年3月16日 4:31

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか。
                     2011年3月16日 4:34

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。
                     2011年3月16日 4:37

明けない夜は無い。
                     2011年3月17日 0:24

あなたはどこに居ますか。私は閉じ込められた部屋で一人で、言葉の前に座っている。あなたの閉じ込められた心と一緒に。
                     2011年3月18日14:11

南相馬市の夏が好きだった。真夏に交わした約束は、いつまでも終わらないと思っていた。原町の野馬の誇らしさを知っていますか?
                     2011年3月18日14:14

福島は私たちです。私たちは福島です。避難するみなさん、身を切る辛さで故郷を離れていくみなさん。必ず戻ってきて下さい。福島を失っちゃいけない。東北を失っちゃいけない。夜の深さに、闇の広さに、未明の冷たさに耐えていること。私は一生忘れません。明けない夜は無い。
                     2011年3月20日 0:20

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。
                     2011年3月20日22:01

 ここに和合氏の言葉をいくつもわざわざ引用させていただいた理由は、能『中尊』でワキとして登場する「福島浜通りから来た旅の詩人」のモデルは、実はこの和合亮一氏なのだと、中所さんからお聞きしたからです。作中の「旅の詩人」の孤独は、ひょっとしたらこのような陰影を帯びているのかもしれません…。
 さて、中所さんはこの和合亮一氏と、福島県相馬市および岩手県北上市において、能楽らいぶ+詩の朗読というコラボレーション公演を行い、ここで「花を奉る」の謡いと舞いを、和合氏の詩と組み合わせるという試みがなされました。この時点では、まだ全体は能の形をとっていませんでしたが、次に中所さんが遭遇した運命が、この構想を最終的に能作品へと昇華します。
 それは、盛岡市で開かれる「復興の花 中尊寺蓮を愛で感謝と震災を祈る会」に、中所さんが招かれて演能をするというご縁でした。

 1950年、平泉の中尊寺金色堂内に納められている藤原氏の遺体4体が学術調査され、その際に第四代泰衡の首桶から、80粒ほど蓮の種が発見されました。
 1998年に、大賀一郎博士らはこの種を発芽させ開花させることに成功し、800年ぶりに甦ったその花は、「中尊寺蓮」と命名されます。その後この蓮は、岩手県内の各地に株分けされていきますが、2012年には震災復興を願って、平安時代に「前九年の役」で安倍氏が滅んだ地に建つ「一ノ倉邸庭園」に株分けがなされ、以後ここで毎年「中尊寺蓮を愛でる会」が開催されることとなるのです。(「中尊寺蓮」開花の経緯に関しては、世界遺産平泉の「中尊寺ハス」のページもご参照下さい。)

 震災以来ずっと東北のことを思い、「花を奉る」というテーマを温め続けてこられた中所さんが、1000年の東北の哀史が凝縮された特別の地で、その苦難を象徴する花とも言える「中尊寺蓮」を前に能を舞うことになったのですから、これを運命の巡り合わせと言わずして何と言いましょう。図らずもここにおいて、作品を構成すべき様々なピースが、すべて揃いました。
 能『中尊』の誕生です。

 この辺のプロセスについて、中所さんから話をお聴きしていると、この作品は中所さんという一人の人が「創作」したというよりも、何かもともと存在していたものが、中所さんという「器」を借りて、自分の方から姿を現わしてきたような感覚を、私は禁じ得ないのです。

 思えば「能」という芸能は、観阿弥・世阿弥によって完成されて以来、様々な事情で亡くなった人々の魂を鎮めるという役割を、色濃く担ってきました。
 たとえば、世阿弥の『敦盛』においては、一ノ谷の合戦においてまだうら若い平敦盛の首を刎ねた熊谷直実が、心痛に堪えかねて出家して蓮生と名乗り、敦盛の菩提を弔うために、須磨を訪れます。そこで笛の音とともに蓮生の前に現れた草刈男の一人が、実は敦盛の化身だったのですが、後場でその敦盛の霊は、蓮生の前で平家の栄枯盛衰を語り舞を舞った後、いったんは自分の敵である蓮生を討とうとします。
 しかし結局は、「終には共に。生るべき同じ蓮の蓮生法師」と悟って、蓮生に自らの回向を頼んで、去って行くのです。

 この一連の物語によって、まずは無念の思いを抱いたまま死んだ敦盛の魂が、仇敵を許す境地に至ることによって、浄化されます。またそれとともに、年若い少年を殺してしまった罪責感を抱える蓮生の苦しみが、相手から許されることによって、浄化されます。
 これに加えて、当時この能の観客であった南北朝時代の武士たち――彼らもまた各々が戦いをくぐり抜け、他人を殺したり自分が殺されそうになったりした――にとっては、舞台の上で繰り広げられる鎮魂のドラマを「共に体験する」ことは、各々が戦場PTSDとして心に抱えるトラウマを、浄化してくれる役割も果たすことでしょう。
 すなわち、能が演じられる時、そこではシテにとって、ワキにとって、そして見所(観客)にとって、という三つのレベルにおいて、魂の浄化が行われるのです。

 このような重層構造は、『中尊』にも織り込まれています。
 シテの「女性」は、親を水銀の毒で亡くし、第二の故郷となった福島でも被災し、その後また息子に去られます。差別や疎外によって傷ついた女性は、詩人の前で東北の地霊と一体化し、祈りの徴に古代の蓮を奉られることによって、何らかの変容を遂げます。
 ワキの「旅の詩人」は、おそらくこの度の災厄の現状をつぶさに観察しながら、その過酷な有り様を、詩として言葉に刻む旅をしています。この時期に詩人が一人、「福島浜通り」から、「いいはとおぶ日高見の国」へと抜けるという道行きをしている目的としては、それ以外に考えられません。
 このような役割を担う者は、惨状を目撃し感情移入をすればするほど、自らの心をも大きなストレスに曝すことになります(=代理受傷)。そのような詩人にとって、東北の地霊の供養を務めることは、自らが被災地で共に震えつつ抱えこんだ苦しみを、ともに癒してくれることにもなるでしょう。

 このようにして、シテもワキも、「花を奉る」という行為によって、それぞれに浄化されるのです。
 さらに上にも触れたように、この仕儀は、女性に憑依した東北の「地霊」に対して捧げられるという形をとっています。そこでは、古代蝦夷のアテルイや奥州藤原氏に象徴される東北の豊饒さと、中央政府によるその収奪という構造が浮き彫りにされ、そしてこのたび東北を襲った震災や原発事故、そしてその後に再び露呈した中央政府との歪んだ関係も、自ずとそこに重なり合います。
 この歴史の同型性を貫通するのが、奥州藤原氏滅亡の時に藤原泰衡の首桶の中に入れられた蓮の花から、800年ぶりに現代に甦って花を咲かせた、「中尊寺蓮」なのです。

 詩人によって地霊の前に「中尊寺蓮」が捧げられることによって、傷ついた「東北」の回復には、一点の希望が灯されます。
 しかし、この希望が果たして日本という国全体の救いになりうるかどうかは、観客である私たちの行動の如何に懸っていることでしょう。
 水俣と福島に象徴されるこの国の構造を、今なお支えているのは、私たち自身だからです。

 ということで、私がこの能『中尊』について自分なりにあれこれ思いめぐらせたところを、徒然なるままに書かせていただきました。もちろん、『中尊』は多面的な深い作品ですから、もっと様々な別の解釈がありうるのは当然で、これはあくまで私個人の見方にすぎないことを、ご了承下さい。

 それでは最後に、私の勝手な要約による能『中尊』のあらすじと、石牟礼道子「花を奉る」のテキストを、下に掲載しておきます。

能『中尊』(あらすじ)

 福島浜通りからやって来た旅の詩人が、日高見の地で一人の女性に出会った。

 この女性は新潟阿賀野に生まれ、親を水銀の毒で亡くしたが、縁あって福島飯坂に嫁ぎ、子を成したという。しかし後に、親の病気を夫に告げていなかったことを責められ、その子と一緒に家を出て、文知摺観音のもとで二人暮らしていた。そこにまた《この度の災厄》があり、彼女は我が子を守りたい一心で幼い手を引き、日高見へと逃げた。

 それから三年目の春を迎え、いつしか大人びた子は、母に暇を乞うて言った。福島に戻って父とともに、生まれ故郷のために働きたい、と。母は、我が子の成長を喜びつつ、かつ涙をこらえつつ、寂しい笑顔で見送った。
 それ以来、日高見に一人残された女性は、立ち枯れの松のように、孤独の日々を送っているという。

 そう言うと女性は、中尊寺蓮を見るようにと、詩人を池の端に迎え入れた。美しい蓮に感嘆した詩人がその由来を尋ねると、女性はまるで何ものかに憑かれたかのように、東北の悲しみの歴史を、滔々と語り始めた。
 古来数多の血が流されたこの地に、奥州藤原初代清衡は、輝く浄土を築こうとした。都の圧政を離れ百年の安寧が謳歌されたが、四代泰衡に至り、また時の覇者により滅ぼされた。この中尊寺蓮の種は、泰衡の首桶の中で、浄土の夢とともに一度滅びたものである。しかし如何なる縁の賜物か、八百年の時を経て、この花は再び今の世に蘇り咲いた…。
 いつしか女性には、この地の霊が憑依していたのである。驚く詩人に対して、今やその霊は本性を明かし、自らに蓮の花を捧げるよう促した。詩人がその一本を手折って渡すと、女性は白い衣を纏った神々しい姿となって、花を持ち舞いながら、一篇の祈りの詩を詩人に謡い聞かせた。

春風きざすといへども われら人類の劫塵ごふぢん
いまや累なりて 三界いはむ方なく昏し
まなこを沈めてわづかに日々を忍ぶに なにに誘はるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさにひらかむとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くにれば
常世とこよなる仄明りを 花その懐に抱けり
常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして
世々の悲願をあらはせり
かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らむとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗はれて 咲きいづるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さむとするに
声にいだせぬ胸底の想ひあり
そをとりて花となし み灯りにせむとや願ふ
灯らむとして消ゆる言の葉といへども
いづれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといひ 無縁ともいふ
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かへりみれば まなうらにあるものたちの御形おんかたち
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆへにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず
現世はいよいよ 地獄とやいはん
虚無とやいはん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなほ
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す
                    (石牟礼道子「花を奉る」)

 このように謡って舞い終えると、女性はその花を恭しく奉った。

ガハク『800年の夢』
ガハク『800年の夢』