タクミョウという有力情報

 先日、鈴木卓苗氏の名前の読みについて、「タクナエかタクビョウか」という記事を書いたところ、それをご覧になった方が、「タクナエでもタクビョウでもなく、タクミョウという読みが正しい」という貴重な情報を、ツイッターにてお寄せ下さいました。
 これは、卓苗氏の兄の孫(つまり「又甥」)にあたる方で、その名前に卓苗氏から「卓」の字を貰っておられるというご親族や、卓苗氏を「真の恩師」と慕う元教え子の方からの情報だということですので、かなり信頼性が高いと思われます。

 しかしこれで、私のもとには、次の4種類の説があることになりました。

  • タクナエ
    卓苗氏の三男がそう呼んでいたということで、三男の娘であるお孫さんからの情報
  • タクナイ
    花巻の郷土史家・鎌田雅夫氏の執筆による「花巻ゆかりの人物(十) 鈴木卓苗」(『花巻史談』16号)における紹介
  • タクミョウ
    今回ご紹介した、卓苗氏の又甥、および元教え子の方からの情報
  • タクビョウ
    『定本 宮澤賢治語彙辞典』における振り仮名

 これを通覧してみると、まず「タクナイ」は、先日も紹介したような東北地方における「イ」と「エ」の曖昧化から来る「タクナエ」の訛音かと推測されるため、「本来の読み方」の可能性では、他の説に一歩譲るかと思われます。
 「タクビョウ」は、改訂された最新の辞典に示されている見解ですが、その根拠・出典が明示されておらず、信頼性の判断については保留せざるをえません。
 「タクナエ」と「タクミョウ」に関しては、いずれも親族の方の証言に基づいているため、これらはどちらも、「実際に卓苗氏の呼称として使われていた」ということに関しては、ほぼ間違いないと考えてよいのではないでしょうか。

 ですから、卓苗氏に対する「呼び方」としては、どちらも正しいと言ってよいものだと思います。
 しかし、「呼び方」としては二つとも正しくとも、これはおそらく最初に命名者が定めた「正しい読み」というものがまず一つあって、もう一方は後から出てきた「通称」あるいは「愛称」と言うべき読み方なのだろうと思われます。したがって次の課題は、「タクナエ」と「タクミョウ」のどちらが本来の「正しい読み」で、どちらが「通称・愛称」なのか、ということです。

 これに関しては、前回ちょっと私が引っかかったように、「タクナエ」というのはいわゆる「湯桶読み」に相当するため、二字とも音読みで統一されている「タクミョウ」に比べると、名前の正式の読み方としてはやや格が落ちる感は否めません。
 つまり、現時点で私としては、「正式の読みはタクミョウであり、その通称・愛称として、周囲の人からはタクナエ、タクナイとも呼ばれていた」と考えておくのが、最も真相に近いのではないかと思っています。

 たとえば、現首相の祖父にあたる元首相に、「岸信介」という人がいましたが、この方の名前は「きし・のぶすけ」というのが正しい読みだそうですが、当時はけっこう多くの人が「きし・しんすけ」と呼んでいたようです。この例においても、「のぶすけ」は二字とも訓読みですが、「しんすけ」だと「重箱読み」になってしまっています。

 とうわけで、このたび貴重な情報をお寄せ下さった @yuyubunnri 様には、謹んで御礼申し上げます。

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 あと、ついでと言っては何ですが、鈴木卓苗氏の生涯については、まだあまり多くの方がご存じではないと思いますので、『花巻史談』所収「花巻ゆかりの人物(十) 鈴木卓苗」(鎌田雅夫著)に従って、その主な伝記的事項をここにご紹介しておきます。

 1879年(明治12年)4月14日、岩手県稗貫郡湯口村(現・花巻市中根子字古舘75)の延命寺にて、住職・桜羽場光寛の次男として出生。
 16歳の時、紫波郡乙部村の如法寺(曹洞宗)の養子となる。(なお、桜羽場光寛には長男の成就、次男の卓苗、三男の秀三、四男の松生があり、当初は長男が寺を継ぐ予定であったが、長男成就は岩手師範3年の時に肺炎で急逝し、結局三男の秀三が継いだ。)
 卓苗は、如法寺の養子となって間もなく、岩手県尋常中学校(後の盛岡中学)に入学。同級生には後の海軍大将・米内光政や海軍中将・八角三郎がいた。卓苗は名須川町の専立寺に下宿した。
 中学時代の卓苗は、「一番になることは大して面倒でもないが、ビリで及第することは難しい」などとうそぶいていたというが、副級長も務めていた。
 中学卒業後、仙台の第二高等学校に合格し、学生時代は「道交会」という仏教の研鑽の会に入っていた。
 二高を卒業すると、東京帝国大学の哲学科に入学し、その学生時代も参禅三昧の生活をしていたという。在学中に、曹洞宗の内地留学もしたという。
 東大卒業後、まず仙台の私立曹洞宗第二中学林の教諭となり、次いで新潟県立新発田中学校の教諭になった。
 1909年(明治42年)、如法寺の鈴木花枝子(けしこ)と結婚。
 新発田中学校から、新潟県立村上中学校校長に転任し、さらに同県立佐渡中学校校長となる。続いて、同県立高田中学校校長となり、この在任中に自ら率先して全校生による「妙高登山」を始めた。この「全校登山」の行事は、現在の高田高校でも続けられている。
 その後、九州の佐賀県立小城中学校校長となり、1920年(大正9年)に母校の第二高等学校教授となり、翌年には東京帝国大学の「学生鑑」という役職に就いた。
 1922年(大正11年)8月、全国23番目の官立高等学校として誕生した高知高等学校に、教授として赴任。同時に赴任した江部淳夫校長は、9月頃より病気がちであったが、12月に死去し、卓苗は校長代理職である校長事務取扱に就任。
 1923年(大正12年)2月、二代目校長として内藤馬蔵が着任、同年10月に卓苗は栃木女子師範学校に転任。

(賢治の詩「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」(1925.4.18)に登場するのは、この間のこと)

 栃木女子師範学校では名校長の誉れが高かったが、盛岡の実業家・三田義正が私立中学校創設を計画し、その初代校長として招請されて、1926年(大正15年)に岩手中学校校長として着任。「学園主義」の教育を標榜した。毎日朝礼で訓話を行い、その内容は仏教に関するものが多かったが、毎回教師にも耳を傾けさせるものだった。生徒からも、人格者として非常に尊敬を集めたという。
 しかし1932年(昭和7年)、創立者の三田義正氏と意見が合わないことを理由に退職。
 同年5月、広島県立呉第一中学校校長に着任。ここでも名校長と慕われる。
 昭和15年(1940年)、定年退官。その後、広島県知事の依嘱で「恩照塾」の塾長となる。
 1943年(昭和18年)3月6日、脳溢血で倒れ、意識が回復しないままに逝去。享年65歳。

呉一中玄関前にて
呉一中玄関前にて(『花巻史談』第16号より)