タクナエかタクビョウか

明治39年第八回仏教講習会(大沢温泉)

 上の記念写真は、1906年(明治39年)8月の「第八回仏教講習会」の折りに、会場の大沢温泉で撮られたものです(『新校本全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇より)。
 満10歳になる直前の賢治は、ちょっといたずらっ子のような様子で最前列の左から2人目に座り、トシは2列目の右端、父親の政次郎氏は最後列の左から2人目に立っていて、最後列中央あたりの法衣の人物が、この年の講師である暁烏敏です。
 そして、最後列の左端、政次郎氏の隣に写っている精悍な感じの人が、今日の記事で取り上げる、鈴木卓苗氏です。

 先月の花巻では、「イーハトーブ・プロジェクトin京都」のことも少し話をさせていただいたのですが、その実行委員会の一員として、「賢治の作品にも登場する鈴木卓苗氏のお孫さんにも参加いただいている」ということを申し上げたところ、何人かの方がこの話題に興味を持って下さって、その後の懇親会などで質問を受けたのです。

 質問の一つは、「卓苗」という名前はどう読むのか、という問題でした。私は以前から、京都在住のそのお孫さんに「タクナエ」とお聞きしていたので、特に何とも思わずそう呼ばせていただいていたのですが、「これはタクビョウあるいはタクミョウと読むのではないですか?」と訊かれて、はたと迷いました。なるほど考えてみると、「タク」というのは音読み、「ナエ」というのは訓読みですから、「タクナエ」というのはいわゆる「重箱読み」になってしまうのです。
 そう思ってちょっと考えてみましたが、人名の読みに音と訓が混ざって、「重箱読み」や「湯桶読み」になっているという例は、実はあんまり思い浮かびません。
 まあ女性の名前では、「優子(ユウこ)」とか「礼子(レイこ)」とか、「音読み+訓読み」の例もたくさんありますが、この場合の「子」は、一種の敬称・愛称?のような由来を持つ「接尾辞」的なものですから、ちょっと例外的なパターンと言えるでしょう。それからまた頭をひねってみると、あ、「俊介(シュンすけ)」というのがある、「哲男(テツお)」もそうだ・・・、などと考えていたら、そうそう、賢治のお父さんの「政次郎(まさジロウ)」という名前にも、音と訓が混じっていましたね。
 ということで、このような人名における音訓混合は、まあ「滅多にない」とまでは言えないけれども、上記の「〇子」のパターンを除けば、やはりけっこう少ないようですね。皆さんもお暇がありましたら、ちょっと考えて「卓内先生」(『定本 宮澤賢治語彙辞典』)みて下さい。

 で、花巻でそういう質問を受け、さらに最近出た『定本 宮澤賢治語彙辞典』を引いてみると、「卓内先生」の項には、「鈴木卓苗(たくびょう)」と振り仮名付きで載っているんですね(右写真)。これは、その旧版の『新宮澤賢治語彙辞典』においては、「鈴木卓内」とだけ記されていたものが、今回の改訂でそのように修正されたばかりの部分ですから、何となく信頼性もありそうな感じです。
 そこで私は、京都に戻るとさっそく鈴木卓苗氏のお孫さんに、その正式な読み方は何なのか、あらためて尋ねてみました。

 するとそのお答えは、やはり「タクナエ」、または訛って「タクナイ」だ、ということだったのです。


『花巻史談』第16号表紙 その後、手もとにあった資料を確認してみますと、『花巻史談』という雑誌(「花巻史談会」および「花巻市中央公民館」発行)の第16号(右画像)に、「花巻ゆかりの人物(十)」として、郷土史家の鎌田雅夫さんという方が、「鈴木卓苗」について書いておられました。

 この文章の冒頭は、次のような場面から始まります(最下段の画像も参照)。

 いまから六十八年前の大正十二年、この年の暮れの十二月四日に高知市で昇天した一つの魂があった。それは官立高知高等学校長の江部淳夫の魂である。翌日の五日の朝、鈴木教頭は全校生徒を本館二階の図書室に集めて、江部校長の遺した「愛すべき二百の健児よ」という文章と、「生徒諸子へ」という最後のステートメントを朗読した。鈴木教頭の声が何度も途切れそれが生徒のすすり泣きを誘い、やがて慟哭となって教室をうずめた―。(青春風土記、旧制高校物語)より抜粋。
 このときの鈴木教頭は遠く離れた岩手県花巻の出身の人であった。
 鈴木教頭は名を卓苗(たくない)といった。

 ということで、やはり「卓苗」は「タクビョウ/タクミョウ」と読むのではなかったようなのですが、今度はここには「たくなえ」ではなく「たくない」と書かれているのが、新たに気になってきます。

 実は、上の『定本 宮澤賢治語彙辞典』の引用画像にもあったように、この鈴木卓苗氏が登場する賢治の作品、「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」においても、その名前は「卓内」、すなわち漢字は違いますが、「タクナイ」と読むべき形で登場するのです。(下記は一部抜粋)

またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
  洋服を着ても和服を着ても
  それが法衣(ころも)に見えるといふ
  鈴木卓内先生は
  この木を木だとおもったらうか

 賢治の作品では、実在の人物の名前を直接登場させるのをはばかって、少しだけ変えてあることも結構ありますから(例えば「氷質の冗談」における、白藤→白淵)、これも賢治の意図的な変更かと思っていたこともありました。しかしそれにしては、「タクナイ」と呼ばれている人を「卓内」と書いただけでは、ほとんど変えた意味がありません。
 となると、これは「タクナエ」と呼ばれたり「タクナイ」と呼ばれていたこの人の名前を、賢治は別に変えようとは意識せずに、発音に釣られて書いただけなのかもしれません。

 お孫さんは「タクナエ」と言い、詳細な伝記的調査を行った郷土史家は「タクナイ」と書いているというこの微妙な不一致も不思議ですが、思うにこれには東北地方の方言の特性も、影響しているのかもしれません。

 東北地方の言葉においては、「イ」と「エ」の発音の区別が曖昧であるという特徴があります。
 これは、賢治の書いているものにもそれなりに影響を及ぼしていたようで、後には「イーハトーブ」とか「イーハトーヴ」とか「イーハトーヴォ」と呼ばれるようになる賢治の造語は、『注文の多い料理店』の2種の広告葉書においては「イエハトブ童話」と表記されていました。
 また、これは入沢康夫さんが、『「ヒドリ」か「ヒデリ」か』(書肆山田)所収の「賢治の「誤字」のことなど」において紹介されている事柄ですが、賢治は何かを「(口に)くわえて」と書く時、「くわいて」と書くことが多かったようです。入沢さんは童話「楢ノ木大学士の野宿」の例を挙げておられますが、他にも「小岩井農場(清書後手入稿)」の「堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた」、「〔湧水を呑まうとして〕」の「きせるをくわいたり」、「鹿踊りのはじまり」の「いきなりそれをくわいて戻つてきました」、「どんぐりと山猫」の「巻煙草の箱を出して、じぶんが一本くわい」、「「山男の四月」の「山男はおもはず指をくわいて立ちました」など、かなりたくさんあります。
 「タクナエ」と「タクナイ」の区別が地元においては曖昧のようで、両方が混用されているように見えるのも、これと同型の現象のように思われます。

 ということで、以上が、とりあえず「鈴木卓苗」の読みについて、調べたり考えたりしてみたことでした。


 あとそれからもう一つ、花巻の賢治学会の時に鈴木卓苗氏について質問を受けたのは、地蔵堂のある延命寺というお寺で生まれた卓苗氏と、そのごく近所にある鼬弊神社に生まれた賢治の親友阿部孝との関係です。
 世代は少し違いますが、すぐ近くの住職や神主の子として生まれ育ち、ともに東京帝大を卒業した同窓生ですから、ある程度の交流はあったと考える方が自然です。
 それに、この二人をつなぐ不思議な共通点は実はもう一つあって、それは二人とも旧制高知高等学校の教授として在職した時期があり、その間に校長が急逝あるいは急に退職したために、「校長事務取扱」という校長代理職に就いているということです。鈴木卓苗氏が校長事務取扱になった時のことは、上に引用した人物伝にも出てきました。
 旧制高知高等学校(Wikipedia)を見ると、鈴木卓苗が校長事務取扱をしたのが1923年12月から1924年2月、阿部孝が校長事務取扱をしたのが1946年2月から6月であることがわかります。阿部の方は、その後校長になっていますね。
 思えば、東北出身の阿部孝が、他にも希望すれば全国の好きな土地の教授になれたでしょうに、なぜわざわざはるか遠い南国高知に赴任したのかということも不思議です。

 それで、このあたりにまつわる鈴木卓苗と阿部孝の関係、ひょっとしたら、阿部孝がはるばる高知高等学校に赴任したのは、鈴木卓苗からの推薦なり依頼があったからなのではないか、それも含めて二人の交友関係を示す資料や書簡などは残っていないか・・・?。そういう事柄について、研究者の方から質問されたのです。
 もちろん私は、その場ではそんなことはわかりませんでしたので、これも京都へ戻ってからお孫さんに尋ねてみました。
 結果は、卓苗氏の遺品は一部は残っているが、そのような交友関係を示すような書簡や資料というのは残念ながら心当たりはない、ということでした。ただ、近くに神社があったという話は、誰かから聞いたような憶えはある、また機会があれば、資料も探してみたいということでした。


 このお孫さんは、もちろん私よりも年配の方なのですが、東北から遠く離れてずっと愛知県や京都で暮らしてこられ、やっと最近になって、延命寺の桜羽場家や、鈴木卓苗氏が養子に行った先の盛岡市乙部の如法寺との交流が復活し、宮澤賢治との縁についても知るようになったのだということです。
 そういうご縁が新たにいろいろ生まれる中で、数年前に私も賢治を仲立ちにしてお近づきになる機会を得て、さらに一昨年の震災後には、乙部の如法寺を通して沿岸部に様々な物資を送ったり、「イーハトーブ・プロジェクトin京都」を一緒にやるようになったり、今もまだだんだんと全国的なご縁は、広がりつつある最中です。

 今年の賢治忌に花巻において、鈴木卓苗氏に関して何人かの方々から声をかけていただいたことで、またここに新たにご縁の輪が広がろうとしている、そんな予感もする今日この頃です。

「花巻ゆかりの人物(十) 鈴木卓苗」(鎌田雅夫)
『花巻史談』第16号より