賢治昭和2年上京説

 先日9月22日から23日にかけて、花巻で行われた宮沢賢治学会総会や研究発表会に行ってきました。
 総会の司会を務められた鈴木守さんは、地道で斬新な賢治研究や花巻周辺の草花の写真をつづった、「みちのくの山野草」という素晴らしいブログを書いておられる方ですが、懇親会の時に私は鈴木さんから、『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(下写真)というご著書を頂戴しました。
 鈴木守さんには、そのご厚情に心から感謝申し上げるとともに、当日はもっとしっかりと鈴木さんのお話をお聴きしたかったのに、私がばたばたしていたためにそれが十分にできなかったことを、かえすがえす残念に思っています。

羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―  羅須地人協会の真実
   ― 賢治昭和二年の上京 ―

   鈴木 守 著
   発行: 友藍書房
      (平成25年2月23日)

   定価 1000円

 

 

 これは、これまで鈴木さんが「みちのく山野草」において、詳しく展開してこられた内容の一部を、単行本としてまとめられたものです。
 その目次は、以下のようになっています。

はじめに
凡例
第一章 改竄された『宮沢賢治物語』
  1 澤里武治の証言
  2 『宮澤賢治物語』の改竄
第二章 仮説を立てる
  1 柳原昌悦の証言
  2 仮説の定立
第三章 仮説の検証(I)
  1 「新校本年譜」による検証
  2 証言等による検証
  3 直接証拠探し
第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議
  1 大正15年12月2日の「現通説」
  2 当時の賢治の心境上から
  3 澤里のもう一つの証言
  4 「宮澤賢治年譜」の書き換え
第五章 仮説の検証(II)
  1 「文語詩篇ノート」
  2 楽器演奏技能の真実
  3 尾崎喜八と賢治
  4 チェロの入手について
第六章 大正十五年上京の真実
  1 私見・大正15年12月2日の真実
  2 私見・大正十五年の上京
  3 私見・「二百円」の無心とチェロ
第七章 「本年中セロ一週一頁」
  1 賢治は日記を付けた
  2 チェロの学習
  3 『岩手日報』の報道
第八章 賢治昭和二年の上京
  1 下根子桜時代の詩創作数
  2 年譜から消えてゆく
  3 上京してチェロを学ぶしかない
  4 3ヶ月間滞京
第九章 「不都合な真実」
  1 『賢治随聞』出版の奇怪さ
  2 思考実験(改竄の背景等)
  3 私見・「不都合な真実」
  4 結論
おわりに
参考文献
索引

 これまで、『新校本全集』の「年譜篇」における記載をはじめ、従来の賢治研究の通説では、賢治が上京したのは一生の間に9回と考えられてきました。これに対して鈴木さんは、この9回以外にも、1927年(昭和2年)の11月から約3ヵ月間、賢治は上京していたのではないかと考えられたのです。
 そして、上の「目次」を通覧していただければわかるとおり、鈴木さんはこの仮説に関して、非常に綿密に広範囲に資料を集めて検討し、吟味して行かれます。その精緻な作業は、まさに圧巻というべきものです。
 また例えば鈴木さんは、紫波町在住の賢治研究家菊池忠二氏に詳しく話を聞いたり、賢治の教え子であった柳原昌悦の元同僚だったという方にも証言を得るなど、岩手県内のあちこちをフットワーク軽く動きつつ、調査を進めて行かれます。
 宮沢賢治学会総会の司会進行においても、鈴木さんの真摯で誠実なお人柄はよく伝わってきましたが、この一冊の本も、終始そのような姿勢に貫かれていると感じました。一つの仮説を立てて、その検証に全力を挙げて取り組んでいかれる様子は、まさに「真剣勝負」です。

 この本は、そういった鈴木さんの情熱が結晶した労作です。

◇          ◇

 鈴木さんにとって、この「賢治昭和2年上京」という仮説を立てるきっかけになったのは、関登久也著の学習研究社版『宮沢賢治物語』において、沢里武治が上京する賢治を一人で見送った際の証言として記されている、次のような記述に違和感を感じたことでした。

 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日の頃には、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。(鈴木守『羅須地人協会の真実』より引用;強調は引用者)

 ここで沢里武治は、自分の記憶では賢治は昭和2年に上京したと思うのだけれど、「宮沢賢治年譜」を見ると前年に上京した記載があるから、「確かこの方(前年)が本当でしょう」と言って、記憶を訂正しているわけです。しかしながら、ここで年譜の記載として出てくる「昭和二年には上京して花巻にはおりません」という部分は、いかにも奇妙です。昭和2年に「上京して」いたのなら、この年に上京したという自分の記憶を、沢里は訂正する必要はなかったはずです。
 このことがずっと気になっていた鈴木さんは、後に岩手県立図書館において、学習研究社版の『宮沢賢治物語』の元になった「岩手日報」連載時の記事を、マイクロフィルムで閲覧します。そして、上に相当する部分の原文が、次のようになっていることを確認されました。

 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには、
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。(鈴木守『羅須地人協会の真実』より引用;強調は引用者)

 つまり、問題の箇所は、もともとは「昭和二年には上京しておりません」となっていたのです。これならば、昭和2年に上京を見送ったという自分の記憶が間違いであったとして沢里が訂正したのも、すんなりと納得できます。

 このような、ほとんど逆の意味になってしまうようなテキストの食い違いにを目にして、鈴木さんはこれは何者かが『宮沢賢治物語』が単行本化されるにあたって、内容を「改竄」したのだと、考えられました。
 そしてまた、上記の沢里証言では、賢治は東京に「少なくとも三か月は滞在する」と沢里に語って出かけたのに、「『新校本全集』の「年譜篇」における1926年(大正15年)の賢治上京の記載には、この「三か月」という部分はすっぽりと抜け落ちていることにも、非常に不自然さを感じられました。
 さらに、沢里の証言では「そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした」とあるのに、賢治の教え子として沢里の同級生だった柳原昌悦は、「一般には沢里一人ということになっているが、あのときは俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです」と、証言しているというのです。鈴木さんはこの話を、賢治研究家の菊池忠二氏から直接聞かれたということです。

 あちこちに潜む矛盾を前にして、ついに鈴木さんは、下記の二つは両方とも歴史的事実であると、考えるに至られました。

    • 大正15年12月2日、沢里と柳原は上京する賢治を一緒に見送った。
    • 昭和2年11月頃の霙の降るある日、沢里は上京する賢治をひとり見送った。

 ここに、「賢治は昭和2年11月頃にも上京して、東京に3ヵ月弱滞在した」という仮説を定立されたわけです。

◇          ◇

 そして鈴木さんは、ありとあらゆる方面から、昭和2年11月~昭和3年2月頃の賢治の動静を調査し、この間に賢治が東京にいて花巻にはいなかった、という仮説の反証となるような事実はないかということを、検討されます。
 確かにこの間に賢治は、明らかにこの時期に属すると言える作品は何一つ描いておらず、また書簡も書いていないのです。また、鈴木さんの広汎な調査によっても、賢治の周辺の人でこの時期に賢治と会ったなどという証言は、上記の沢里のものを除いて、見つからないのです。

 私も、少しだけ手元でわかる範囲で調べてみましたが、かろうじて「『文語詩篇』ノート」にある、次のような記載が気になるくらいです。

    • 1927
      十一月  白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式
    • 1928
      一月  ◎林光左 弟子ヲ叱ル

 上の1927年(昭和2年)11月と思われる記載は、藤原嘉藤治の結婚式を白藤慈秀の家で挙げたという出来事のことと思われますが、鈴木さんも今回の著書で書いておられるように、この結婚式の時期は、1927年11月という説以外に、同年9月、あるいは1928年3月という説もあり、とても確かな反証とはなるものではありません。
 また、下の1928年1月と思われる記載は、文語詩「来々軒」の題材となった体験と推定されているもので、『定本宮澤賢治語彙辞典』によれば、この「来々軒」とは当時盛岡にあった支那料理店だということです。賢治が、この目撃体験を1928年1月に盛岡でしていたとしたら、「昭和2年11月から3ヵ月上京していた」という仮説の反証になりますが、これも確実なものとは言えません。

◇          ◇

 ということで、毎年冬になると、作品やその他の活動がめっきり減少するという賢治の特性も関係してか、鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです。
 ただ私としては、次に述べるようなことから、やはりこの仮説は成立しにくいのではないかと、考えているところです。

 実は、先に引用した関登久也による沢里武治の証言は、昭和23年に出版された関登久也著『続 宮澤賢治素描』という単行本に収録されていた、下記の箇所が初出です。これも鈴木さんが調査して、著書において述べておられるところです。

 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勤されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。(鈴木守『羅須地人協会の真実』より引用)

 こちらの「証言」には、「宮沢賢治年譜を見ると」という部分はありませんし、年譜の記載をもとに自分の記憶を訂正するということも行われていません。初めの方で引用した、昭和31年の新聞連載や翌年の単行本の記載と比較してあらためて確認されるのは、やはり沢里は、関登久也に対して上記の証言を最初にした後、いずれかの時期に賢治年譜を見て、賢治の上京は昭和2年ではなくその前年の大正15年のことだったと見解を改めた、という経過です。

 しかしここで、鈴木さんの仮説のように、沢里が1927年(大正15年)、1928年(昭和2年)と、2年続けて花巻駅で賢治を見送っていたとしたら、どうでしょうか。
 昭和2年に見送りに来た沢里は、「去年も同じようにこの花巻駅で先生を見送ったなあ」との感慨を持たなかったはずはありませんし、このように「2年続けて恩師を見送った」という記憶は、たとえ10年、20年経とうとも、消えてしまうということはないでしょう。
 見送りをしたのが大正15年だったか、昭和2年だったかというようなことに関しては、長い年月が経てば記憶があいまいになってしまうということは、誰でもありえます。しかし、「2回見送りをした」という記憶が、「1回しか見送りをしていない」という風に変わってしまうというような事態は、ちょっと想像しにくいものです。

 すると、そのような沢里が宮沢賢治年譜を見て、そこには大正15年に賢治が上京したという記載はあるものの、昭和2年のところにはなかったとしたら、沢里はどうしたでしょうか。
 沢里に「2回見送った」という記憶があれば、「先生は大正15年だけでなく、この年譜には記載されていないけれど昭和2年にも上京されましたよ、私は2年続けて見送りました」と、証言するのではないでしょうか。少なくとも、昭和2年に見送りをしたという自分の記憶を、間違いとして取り消すということはないでしょう。
 ところが実際には沢里は、自らの記憶を、昭和2年から大正15年に訂正し、「人の記憶ほど不確かなものはありません」という感慨を述べるのです。

 この沢里の行動が示しているのは、「沢里には、賢治を見送った記憶は1回しかなかった」ということではないでしょうか。
 そして、その1回とは大正15年か昭和2年かどちらか、ということになると、大正15年12月には、賢治の東京から父親あて書簡などの客観的資料が多数残っていますから、その存在を否定するのは不可能です。
 すると結局、沢里は昭和2年には、賢治の見送りをしていなかった、という理屈になってしまうのです。

 さて、鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
 しかし、そのような点を抜きにしても、やはりこの著作には、とても強く訴えかけてくるものがあることは、まぎれもない事実です。何よりも、賢治に関する既成のイメージや通説にとらわれず、虚心坦懐に資料に向き合っていかれる姿勢には、僭越ながら私も強い共感を覚える者です。