先日9月22日から23日にかけて、花巻で行われた宮沢賢治学会総会や研究発表会に行ってきました。
総会の司会を務められた鈴木守さんは、地道で斬新な賢治研究や花巻周辺の草花の写真をつづった、「みちのくの山野草」という素晴らしいブログを書いておられる方ですが、懇親会の時に私は鈴木さんから、『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(下写真)というご著書を頂戴しました。
鈴木守さんには、そのご厚情に心から感謝申し上げるとともに、当日はもっとしっかりと鈴木さんのお話をお聴きしたかったのに、私がばたばたしていたためにそれが十分にできなかったことを、かえすがえす残念に思っています。
羅須地人協会の真実
― 賢治昭和二年の上京 ―
鈴木 守 著
発行: 友藍書房
(平成25年2月23日)
定価 1000円
これは、これまで鈴木さんが「みちのく山野草」において、詳しく展開してこられた内容の一部を、単行本としてまとめられたものです。
その目次は、以下のようになっています。
はじめに
凡例
第一章 改竄された『宮沢賢治物語』
1 澤里武治の証言
2 『宮澤賢治物語』の改竄
第二章 仮説を立てる
1 柳原昌悦の証言
2 仮説の定立
第三章 仮説の検証(I)
1 「新校本年譜」による検証
2 証言等による検証
3 直接証拠探し
第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議
1 大正15年12月2日の「現通説」
2 当時の賢治の心境上から
3 澤里のもう一つの証言
4 「宮澤賢治年譜」の書き換え
第五章 仮説の検証(II)
1 「文語詩篇ノート」
2 楽器演奏技能の真実
3 尾崎喜八と賢治
4 チェロの入手について
第六章 大正十五年上京の真実
1 私見・大正15年12月2日の真実
2 私見・大正十五年の上京
3 私見・「二百円」の無心とチェロ
第七章 「本年中セロ一週一頁」
1 賢治は日記を付けた
2 チェロの学習
3 『岩手日報』の報道
第八章 賢治昭和二年の上京
1 下根子桜時代の詩創作数
2 年譜から消えてゆく
3 上京してチェロを学ぶしかない
4 3ヶ月間滞京
第九章 「不都合な真実」
1 『賢治随聞』出版の奇怪さ
2 思考実験(改竄の背景等)
3 私見・「不都合な真実」
4 結論
おわりに
参考文献
索引
これまで、『新校本全集』の「年譜篇」における記載をはじめ、従来の賢治研究の通説では、賢治が上京したのは一生の間に9回と考えられてきました。これに対して鈴木さんは、この9回以外にも、1927年(昭和2年)の11月から約3ヵ月間、賢治は上京していたのではないかと考えられたのです。
そして、上の「目次」を通覧していただければわかるとおり、鈴木さんはこの仮説に関して、非常に綿密に広範囲に資料を集めて検討し、吟味して行かれます。その精緻な作業は、まさに圧巻というべきものです。
また例えば鈴木さんは、紫波町在住の賢治研究家菊池忠二氏に詳しく話を聞いたり、賢治の教え子であった柳原昌悦の元同僚だったという方にも証言を得るなど、岩手県内のあちこちをフットワーク軽く動きつつ、調査を進めて行かれます。
宮沢賢治学会総会の司会進行においても、鈴木さんの真摯で誠実なお人柄はよく伝わってきましたが、この一冊の本も、終始そのような姿勢に貫かれていると感じました。一つの仮説を立てて、その検証に全力を挙げて取り組んでいかれる様子は、まさに「真剣勝負」です。
この本は、そういった鈴木さんの情熱が結晶した労作です。
◇ ◇
鈴木さんにとって、この「賢治昭和2年上京」という仮説を立てるきっかけになったのは、関登久也著の学習研究社版『宮沢賢治物語』において、沢里武治が上京する賢治を一人で見送った際の証言として記されている、次のような記述に違和感を感じたことでした。
どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日の頃には、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。(鈴木守『羅須地人協会の真実』より引用;強調は引用者)
ここで沢里武治は、自分の記憶では賢治は昭和2年に上京したと思うのだけれど、「宮沢賢治年譜」を見ると前年に上京した記載があるから、「確かこの方(前年)が本当でしょう」と言って、記憶を訂正しているわけです。しかしながら、ここで年譜の記載として出てくる「昭和二年には上京して花巻にはおりません」という部分は、いかにも奇妙です。昭和2年に「上京して」いたのなら、この年に上京したという自分の記憶を、沢里は訂正する必要はなかったはずです。
このことがずっと気になっていた鈴木さんは、後に岩手県立図書館において、学習研究社版の『宮沢賢治物語』の元になった「岩手日報」連載時の記事を、マイクロフィルムで閲覧します。そして、上に相当する部分の原文が、次のようになっていることを確認されました。
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには、
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。(鈴木守『羅須地人協会の真実』より引用;強調は引用者)
つまり、問題の箇所は、もともとは「昭和二年には上京しておりません」となっていたのです。これならば、昭和2年に上京を見送ったという自分の記憶が間違いであったとして沢里が訂正したのも、すんなりと納得できます。
このような、ほとんど逆の意味になってしまうようなテキストの食い違いにを目にして、鈴木さんはこれは何者かが『宮沢賢治物語』が単行本化されるにあたって、内容を「改竄」したのだと、考えられました。
そしてまた、上記の沢里証言では、賢治は東京に「少なくとも三か月は滞在する」と沢里に語って出かけたのに、「『新校本全集』の「年譜篇」における1926年(大正15年)の賢治上京の記載には、この「三か月」という部分はすっぽりと抜け落ちていることにも、非常に不自然さを感じられました。
さらに、沢里の証言では「そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした」とあるのに、賢治の教え子として沢里の同級生だった柳原昌悦は、「一般には沢里一人ということになっているが、あのときは俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです」と、証言しているというのです。鈴木さんはこの話を、賢治研究家の菊池忠二氏から直接聞かれたということです。
あちこちに潜む矛盾を前にして、ついに鈴木さんは、下記の二つは両方とも歴史的事実であると、考えるに至られました。
- 大正15年12月2日、沢里と柳原は上京する賢治を一緒に見送った。
- 昭和2年11月頃の霙の降るある日、沢里は上京する賢治をひとり見送った。
ここに、「賢治は昭和2年11月頃にも上京して、東京に3ヵ月弱滞在した」という仮説を定立されたわけです。
◇ ◇
そして鈴木さんは、ありとあらゆる方面から、昭和2年11月~昭和3年2月頃の賢治の動静を調査し、この間に賢治が東京にいて花巻にはいなかった、という仮説の反証となるような事実はないかということを、検討されます。
確かにこの間に賢治は、明らかにこの時期に属すると言える作品は何一つ描いておらず、また書簡も書いていないのです。また、鈴木さんの広汎な調査によっても、賢治の周辺の人でこの時期に賢治と会ったなどという証言は、上記の沢里のものを除いて、見つからないのです。
私も、少しだけ手元でわかる範囲で調べてみましたが、かろうじて「『文語詩篇』ノート」にある、次のような記載が気になるくらいです。
- 1927
十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式 - 1928
一月 ◎林光左 弟子ヲ叱ル
上の1927年(昭和2年)11月と思われる記載は、藤原嘉藤治の結婚式を白藤慈秀の家で挙げたという出来事のことと思われますが、鈴木さんも今回の著書で書いておられるように、この結婚式の時期は、1927年11月という説以外に、同年9月、あるいは1928年3月という説もあり、とても確かな反証とはなるものではありません。
また、下の1928年1月と思われる記載は、文語詩「来々軒」の題材となった体験と推定されているもので、『定本宮澤賢治語彙辞典』によれば、この「来々軒」とは当時盛岡にあった支那料理店だということです。賢治が、この目撃体験を1928年1月に盛岡でしていたとしたら、「昭和2年11月から3ヵ月上京していた」という仮説の反証になりますが、これも確実なものとは言えません。
◇ ◇
ということで、毎年冬になると、作品やその他の活動がめっきり減少するという賢治の特性も関係してか、鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです。
ただ私としては、次に述べるようなことから、やはりこの仮説は成立しにくいのではないかと、考えているところです。
実は、先に引用した関登久也による沢里武治の証言は、昭和23年に出版された関登久也著『続 宮澤賢治素描』という単行本に収録されていた、下記の箇所が初出です。これも鈴木さんが調査して、著書において述べておられるところです。
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勤されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。(鈴木守『羅須地人協会の真実』より引用)
こちらの「証言」には、「宮沢賢治年譜を見ると」という部分はありませんし、年譜の記載をもとに自分の記憶を訂正するということも行われていません。初めの方で引用した、昭和31年の新聞連載や翌年の単行本の記載と比較してあらためて確認されるのは、やはり沢里は、関登久也に対して上記の証言を最初にした後、いずれかの時期に賢治年譜を見て、賢治の上京は昭和2年ではなくその前年の大正15年のことだったと見解を改めた、という経過です。
しかしここで、鈴木さんの仮説のように、沢里が1927年(大正15年)、1928年(昭和2年)と、2年続けて花巻駅で賢治を見送っていたとしたら、どうでしょうか。
昭和2年に見送りに来た沢里は、「去年も同じようにこの花巻駅で先生を見送ったなあ」との感慨を持たなかったはずはありませんし、このように「2年続けて恩師を見送った」という記憶は、たとえ10年、20年経とうとも、消えてしまうということはないでしょう。
見送りをしたのが大正15年だったか、昭和2年だったかというようなことに関しては、長い年月が経てば記憶があいまいになってしまうということは、誰でもありえます。しかし、「2回見送りをした」という記憶が、「1回しか見送りをしていない」という風に変わってしまうというような事態は、ちょっと想像しにくいものです。
すると、そのような沢里が宮沢賢治年譜を見て、そこには大正15年に賢治が上京したという記載はあるものの、昭和2年のところにはなかったとしたら、沢里はどうしたでしょうか。
沢里に「2回見送った」という記憶があれば、「先生は大正15年だけでなく、この年譜には記載されていないけれど昭和2年にも上京されましたよ、私は2年続けて見送りました」と、証言するのではないでしょうか。少なくとも、昭和2年に見送りをしたという自分の記憶を、間違いとして取り消すということはないでしょう。
ところが実際には沢里は、自らの記憶を、昭和2年から大正15年に訂正し、「人の記憶ほど不確かなものはありません」という感慨を述べるのです。
この沢里の行動が示しているのは、「沢里には、賢治を見送った記憶は1回しかなかった」ということではないでしょうか。
そして、その1回とは大正15年か昭和2年かどちらか、ということになると、大正15年12月には、賢治の東京から父親あて書簡などの客観的資料が多数残っていますから、その存在を否定するのは不可能です。
すると結局、沢里は昭和2年には、賢治の見送りをしていなかった、という理屈になってしまうのです。
さて、鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
しかし、そのような点を抜きにしても、やはりこの著作には、とても強く訴えかけてくるものがあることは、まぎれもない事実です。何よりも、賢治に関する既成のイメージや通説にとらわれず、虚心坦懐に資料に向き合っていかれる姿勢には、僭越ながら私も強い共感を覚える者です。
鈴木 守
宮澤賢治の詩の世界 様
今晩は。その節は大変お世話になりました。
この度は、身に余るお褒めの言葉を頂きまして恐縮しております。
さて、今回の件につきましては暫く時間を措こうと思っておりました。なんとなく「ためにする議論」に陥りそうな危惧があったからです。
でも、折角ですから少しだけお話をさせていただきます。
先ずそもそも私は、大正15年12月2日の定説に疑問を抱いているので、あくまでも、それをどうすれば合理的に解消できるかというスタンスで臨んでいます。
さて、この定説の典拠はおそらく「澤里武治」の証言だと思いますが、その使い方に問題があるのではなかろうかと私は思ったのです。
「宮澤賢治の詩の世界」様におかれましては、この件に関しましてどのようにお考えになっておられますか?
できましたならば、まずは、その典拠が何であるかを教えていただけないでしょうか。
鈴木 守
hamagaki
鈴木 守 様
花巻では、大変お世話になりました。重ね重ね、感謝申し上げます。
またこのたびは、早速にコメントをいただきましてありがとうございます。
さて、「大正15年12月2日上京」という現在の定説の典拠ですが、私の理解するところでは、賢治による父政次郎あて書簡220が、その最も重要なものと思います。
この書簡は、まず最初に「お蔭で出京もいたし」とあり、上京して間もない最初の書簡であることを示唆していますが、さらに「小林様へも夕刻参り」「夕食を御馳走になり」とあって、夕食よりも後、すなわち夜に書かれたものと解するのが自然です。
そしてその消印が「神田 15・12・4 前8ー9」とあることから(『新校本全集』第15巻校異篇p.122)、この書簡が神田局に回収されたのは大正15年12月4日の朝、したがってここから逆算して、賢治が書いたのが12月3日夜、花巻を発ったのは12月2日、という風に推定されたものと思います。
鈴木さんもご著書で引用しておられるとおり、沢里武治は当時の「宮沢賢治年譜」を見て自分の記憶を修正したわけですから、沢里の証言以外にその「年譜」の根拠となっていた資料が当然あったはずで、それが上記の「書簡220」なのだと思います。
鈴木 守
宮澤賢治の詩の世界 様
お早うございます。
早速のご回答有り難うございます。
ところで、私の質問の仕方が不備だったようですね、済みませんでした。
私がお訪ねした「大正15年12月2日の定説」とは、「新校本年譜」にあるような
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
と私は認識しておりましたし、そこにはこのこと以外のことは記載されておりません。
この記載内容の典拠が何であるとお考えになっていらっしゃるのかを教えていただけないでしょうか、という意味でした。
どうぞよろしくお願いいたします。
hamagaki
なるほど、『新校本全集』年譜篇の「十二月二日」の項に記載されている「内容」の典拠は何か、というご質問だったのですね。
これは、今さら鈴木さんに対しては「釈迦に説法」で恐縮ですが、『新校本全集』年譜篇p.326の注*65に、「関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる」とありますので、(旧『校本全集』の)この箇所の記述部分は、関登久也『賢治随聞』が典拠になっていると、『新校本全集』編集委員は考えたということでしょうね。
(ただ私としては、ここは関登久也『宮沢賢治物語』が典拠であると見なした方が、後に触れる「改めることになっている」などという記載を挿入しなくてもよくなるので、妥当ではないかと思っています。)
なお、たまたま昨日お答えした内容にも書きましたとおり、上記の『新校本全集』の記載において、「十二月二日」という日付に関しては、沢里もどこにも述べていないことであり、その典拠は賢治の父あて書簡220にあるのでしょう。
ちなみに、『新校本全集』の注*65には、上の部分に続けて、「ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という記述があって、ここは鈴木さんが疑問を呈しておられるところですね。
しかし、この証言における賢治上京の時期を、「昭和二年十一月ころ」から「大正一五年」に「改め」たのは、新旧校本全集の編集委員が独自の判断で行ったことではなく、その編集のかなり以前に証言者である沢里武治本人が行ったことであり、さらに沢里は晩年になっても「大正一五年」と話していたということは、念のため確認しておきたいと思います。
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
ご回答有り難うございます。
さてそうしますと、『随聞』にせよ『宮沢賢治物語』にせよその典拠はいずれも澤里武治の証言(それぞれ「沢里武治氏聞書」、「セロ沢里武治氏から聞いた話」)ということになります。
さすれば、「新校本年譜」の大正15年12月2日の記述内容は澤里の証言を典拠にしているのですから、当事者はこの澤里の証言を尊重せねばなりません。証言のつまみ食いなどしようものなら、牽強付会だとの誹りを免れ得ないからです。
さてその尊重すべき澤里の証言には、それぞれ
前者:少なくとも三ヶ月は滞京する、…(略)…先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
後者:少なくとも三ヵ月は滞京する。…(略)…先生は予定の三ヶ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
ということもあります。
したがって、「賢治はその際三ヶ月弱滞京した」ということも尊重されねばなりません。
ところが奇妙なことに、この「三ヵ月弱の滞京」について「新校本年譜」は一切言及しておりません。形としては無視しております。
しかしこのことは無視できません。なぜならば、「新校本年譜」が澤里の先の証言を基にしている以上、賢治は3ヶ月弱の滞京をしていたということも当事者は受け入れなければなりません。ところがそうすると、この「三ヶ月」が「十二月二日」の現定説に自家撞着をもたらします。
それはなぜかというと、賢治は大正15年12月2日から3ヶ月弱の滞京をしていたとなるわけですから、少なくとも昭和2年の1月は花巻に不在となります。こうなると、昭和2年1月の現「宮澤賢治年譜」はとんでもない矛盾を抱え、ほぼ破綻してしまいます。
そこで私は、その矛盾を解決したいがために拙書『羅須地人協会の真実― 賢治昭和二年の上京 ―』をあえて世に問うたのです。
つきましては、「宮澤賢治の詩の世界」様におかれましてはこの「三ヶ月」の矛盾のことをどう思われ、それをどのようにして解消できるとお考えでしょうか、是非教えていただけないでしょうか。
そうすればお互い同じ土俵に上がることができて、実りある議論がスタートできると思っております。
鈴木 守
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
申し訳ございません。クリックの仕方がまずくて二重投稿になりましたので、一部削除お願いいたします。
鈴木 守
hamagaki
鈴木さんの同一の投稿が二重になっておりましたので、一方は削除させていただきました。
このシステムは、すぐには投稿結果が反映されない時があるようで、ご不便をおかけして申しわけありません。
さて、話の続きですが、賢治が上京前に「三ヵ月は滞京する」と言ったからといって、実際に三ヵ月滞京したかどうかはまた別問題なので、これはこれで検証しなければならない事柄だと思います。
もしも、「賢治は言葉にしたことは必ず実行する」などと考えるならば、それは鈴木さんも批判されるところの、一方的な聖人君子化になってしまいます。
現に、たとえば賢治は大正10年1月に上京した時には、父親に「御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。それ迄は帰郷致さないこと最初からの誓ひでございますから…」(書簡189)と言い、父が法華経に改宗するまでは帰郷しないと「誓って」いたのですが、その年の夏頃に、父は改宗していないままに、花巻に帰りました。
したがって後の上京においても、直前に「三ヵ月は滞京する」と言っていたとしても、実際にそうしたかどうかは、何とも言えないと思います。
また、沢里武治の、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という言葉の解釈ですが、この部分については、沢里がどこまで具体的な情報をもとに言ったことなのか、慎重に受けとめる必要があると思います。
沢里武治という人が、真摯で真面目な人柄の方だったと思われることは、その残された証言から、私も十分に感じるところです。
しかしそのことは、当然ながら「沢里の証言はすべて真実である」ということを意味するわけではありません。これは上に述べたように、賢治の言葉がすべてそうだとも言えないことと、同じです。
私は思うのですが、沢里武治自身は、昭和3年の前半に関しては、賢治の動静に関する具体的な情報は持っていなかったのではないでしょうか。
昭和3年の9月に、沢里は賢治から書簡243を受け取りますが、そこには、「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです」と書かれていました。
私の推測では、沢里の中では、この書簡にある「東京」と、自分が見送った「上京」が重なり合ってしまって、いつしか二つの上京を同一視してしまった結果、それが「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という記述になり、ひいては問題の「昭和2年上京」という、時期の勘違いの原因ともなってしまったのではないか、と思うのです。
もちろん細かく考えると、「昭和2年11月から3ヵ月」と、「6月」では勘定が合いませんが、人間が何かを勘違いする時には、こういうズレはありえることでしょう。
まあ、上の推測が当たっているかどうかはともかく、誰の「証言」を取り上げる場合でも、それが直接見聞きした事柄なのか、その人が推測したことなのかを、しっかりと判別して受けとめる必要はあると思います。「尊重する」ことと、「そのまま全て真実とする」ことは、別です。
ということで、私としては、「賢治自身は3ヵ月滞京したいと沢里に言ったけれども、実際には諸般の事情で1ヵ月弱で帰郷することになった」と考えるのが、鈴木さんのおっしゃる「矛盾」を解決するための、最も自然な解釈だと思うのです。
それからあともう一つ、鈴木さんは上記においても「証言のつまみ食い」を厳に戒めておられますが、沢里自身は「昭和2年11月」という自分の記憶を自ら訂正して「大正15年」とし、晩年もそう語っていたわけですから、ここで鈴木さんが彼自身による訂正の方は採用せず、「昭和2年11月」を論拠とされるならば、これも「証言のつまみ食い」になってしまうのではないかと私には思えるのですが、どんなものでしょうか。
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
二重投稿につきましては大変ご迷惑をお掛けしました。削除していただき有り難うございます。
さて今回の件、少し時間をおいて冷静に振り返ってみてからこのコメントを書いています。
といいますのは、私たちはお互い何を得ようとしてこの議論をしているのだろうかという疑問が生じてきたからです。このまま繰り返すとそれは「ためにする議論」となってしまう危惧を抱き始めているのです。
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さて、「新校本年譜」の大正15年12月2日の典拠は澤里武治の証言(『随聞』の「沢里武治氏聞書」及び『宮沢賢治物語』「セロ沢里武治氏から聞いた話」)であるということの共通認識は持つことができました。
となれば、一般的にはこれらの総体がその典拠ということになります。当然、その証言の中の一部のみを使い、他の一部は無視するという恣意的な使い方をして論理的に思考することは原則許されませんし、そもそも出来ないことであります(そして、それが「証言」というものの本来の扱い方でしょう)。仮に、もしそういうことが許される可能性があるとすれば、それは客観的な他の資料や証言と矛盾した場合だけでしょう。ただし、それが主観的なものであればそれは到底許されないことです。
なぜならば、客観的な資料や証言を基にしないような議論は「ためにする議論」でこそあれ、そこからは何ら得られることはないからです。
そこでお願いです。たとえば、「宮澤賢治の詩の世界」様が、
・『直前に「三ヵ月は滞京する」と言っていたとしても、実際にそうしたかどうかは、何とも言えないと思います』
と仰るならば、仮想ではなくて客観的な資料や証言をぶっつけてください。つまり、「そうしなかった」という客観的な証拠を提示してください。
・『ひいては問題の「昭和2年上京」という、時期の勘違いの原因ともなってしまったのではないか、と思うのです』
と仰るのであれば、「勘違い」をしていたというその客観的な証言や資料を私にぶっつけてください。
そうではなくて、このような『…思います』ということを基にしてあれこれ議論していたのでは、何でもありになってしまい時間はいくらあっても足りませんし、そのような議論からは賢治の伝記に関する真実は見つかりません。
そこでお願いです、もしこの議論を今後も続けようということであれば、客観的な資料に基づいて行いませんか。
鈴木 守
hamagaki
鈴木さん、お返事をありがとうございます。
長文の私の書き込みをその都度お読みいただき、またそれに対してまた詳しく真摯なお言葉を返していただけることを、ありがたく思っています。
さて、私と鈴木さんが、「お互い何を得ようとしてこの議論をしている」のか・・・。
それは私の理解では、私も鈴木さんもどちらも宮沢賢治という人やその作品を愛しており、そして彼を少しでも深く理解したいと思い、彼の伝記的事項の詳細(ここでは、彼が上京した回数や時期)について、少しでも多く確かなことを知りたいと、双方とも望んでいるからだと思います。
私と鈴木さんが、お互いにこの目的をしっかりと共有しながら、それぞれの意見を真面目に交換しているかぎり、それは「ためにする議論」に陥ることはないと、私としては思っております。
現にこれまでの議論も、私自身にとっては、鈴木さんのお考えをあらためて確認することができて、とても有意義なものと感じています。
ということで、以上が「この議論」について私が考えるところですが、以下これまでの話の続きに戻ります。
まずは、ここでいったん、私たちのおかれている状況を整理し直してみましょう。
私も鈴木さんも、沢里武治の証言を重要な論拠としていることには、変わりはありません。
ここで一度、沢里の証言内容がすべて真実であると見なして、賢治に関する他の確実な伝記的事項と突き合わせてみて、互いに全く矛盾が起こらなければ、やはりその証言をすべて真実と考えながら、話を次に進めることも、可能になります。
ところが残念ながら、今回の沢里武治の証言に関しては、すべて真実であると想定すると矛盾が起こってしまうために、少なくともどこか一部に関しては、留保を付けざるをえない状況にあります。
これは、沢里が信頼できる人物であるとかいうこととは別の問題であり、私も鈴木さんも認めざるをえない、厳しい現実です。
具体的には、鈴木さんは、沢里の証言のうちで「昭和2年を取り消して大正15年と修正した」という部分を不採用として、「2年続けて上京した」と考えられました。それは、上京したのが昭和2年11月でないと、沢里の言葉の「3ヵ月」という期間が確保できないからです。
私は、「3ヵ月は滞京する」という部分に留保を付けて、賢治が上京前にそう言ったのは事実かもしれないが実際にはもっと短かったと考え、「上京は大正15年だけで昭和2年にはしなかった」と考えました。
鈴木さんのおっしゃるように、「客観的な資料や証言」だけで自ずと事実が浮き彫りになってくれる状況ならば、誰しもそうしたいし、それが指し示す内容に反対する人もいないでしょうが、現実がそれを許してくれていないのです。
そのために、私の主張も鈴木さんの主張も、上記のように「沢里の証言のすべてが真実である」という論理にはなっていません。
鈴木さんのお説においても、上記のように「沢里の証言訂正を取り上げない」という鈴木さんご自身による主観的な判断が入っているわけで、「客観的な資料」だけに基づいているわけではありません。それは何も私だけではないのです。
さて、それでは「客観的な資料や証言」だけを根拠に論理が構築できないとなると、あとは、不完全な部分を推測や仮定などで補って、いかにして他の伝記的事項との矛盾がなく、全体として無理なく説得力がある仮説を考えるか、ということが課題となってきます。
しかし、この場合にはもちろんながら、客観的な証拠だけでなく私どもの主観的な推測や判断が入ってくるわけですから、それは自然科学的真理のように「確実」と言えるものではなく、せいぜい「その可能性は高そうだが、絶対的とは言えない」というような、蓋然的な議論になります。
これは物足りない感じが伴うことではありますが、今回問題になっている上京時期のことにかぎらず、賢治の年譜に記述されている事柄のほとんどは、ごく一部を除いて「100%確実」と言えるものは少ないわけで、大半は「それなりに確実性が高いと考えられる推論」の上に築き上げられています。
まあこれは、賢治年譜だけにかぎらず、歴史で習う年表の多くの部分についても言えることでしょうが・・・。
というわけで、結局は、鈴木さんのおっしゃるように「沢里が昭和2年を取り消したのは実は二重の誤りであり、賢治は2年続けて上京した」のか、現在の通説のように「賢治は3ヵ月という自分の言葉に反して1ヵ月弱しか滞京せず、その上京は大正15年だけだった」のか、どちらの説が説得力があるか、という話になってきます。
お互いにそれを明らかにしようとして、これまでここで議論をしてきたわけですね。
ここで、議論の過程で、どちらか一方が他方の意見の方が確かにもっともだと思って相手の意見に同意すれば、そこで2人の議論は一段落しますが、場合によってはお互いが譲らず、平行線のままで議論が続くということもありえます。
これは、鈴木さんのご専門である数学の証明にように、論理的に結論が出る事柄ではありませんので、「平行線になる」という事態そのものを避けることはできませんし、もちろん無理に終わらせればよいというのでもないでしょう。
平行線のように議論が続いていると、人によってはそれを「ためにする議論」をしているように感じてしまうこともあるかもしれませんが、きちんとかみ合った議論であれば、そんなことはないはずです。いろんな人がいろんな意見を出し合って議論をすることで、問題はさらに詳しく明らかになり、それを見たさらに多くの人々が、問題について考え始めます。
歴史学などというものにおいても、おそらくこういう「平行線」の部分は各所にあって、いろんな「異説」がたくさん存在しますが、彼らも別に「ためにする議論」をしているわけではなくて、どうしても客観的な証拠では明らかにできない部分を、仮定や推論などによって必死に補い、より妥当性のある仮説を立てようとしているわけです。
確定的な証拠の出ていない事柄についても、研究者同士で議論を戦わせるうちに、十分に説得力のある説が出てきて、大半の学者がそれに賛同すれば、それは一種の「定説」として学問的にも一定の位置を占めるようになるでしょう。大きく意見が割れている場合には、未確定のままで扱われるでしょう。
ですから今回の場合も(私と鈴木さんの間では、「平行線」から脱却するのは難しそうですが)、ここをご覧になっている他の方々から見て、どちらが述べていることに説得力があるかということも、とても大事なのだと思います。
ですから鈴木さんにおかれましては、せっかくお忙しい中で時間を割いて、わざわざ私のサイトにコメントをいただいているのですから、ここにおいても引き続き説得力のある主張を展開していただければ、まだご著書を読んでおられない方々にとっても有益なものになるだろうと、僭越ながら考える次第です。
ということで、その鈴木さんのお説を、私自身としてもさらにしっかり理解させていただきたいために、ここで一つ私の方から質問をさせていただいてもよろしいでしょうか。
ここにわざわざお書き込みいただいているだけでも、私としては深く感謝すべきところ、こちらからお願いするのははなはだ恐縮ですが、私もすでに何度か鈴木さんのご質問にお答えしましたので、もしよろしければ、次のことについてお教えいただければ幸いです。
沢里武治は、自らの証言を後に訂正して、「賢治の上京を見送ったのは昭和2年ではなく大正15年のことだった」としたわけですが、それにもかかわらず鈴木さんは、あたかもその訂正などなかったかのように扱って、「大正15年と昭和2年の両方とも上京を見送った」と主張しておられます。沢里が証言を訂正したという事実は、非常に重要なことだと思いますが、それをまるで無視するかのように扱っておられる理由は、いったい何なのでしょうか? またそのような扱いをする妥当性について、いかがお考えでしょうか?
ここは、この問題を考える場合にはどうしても避けて通れない重要な箇所だと考えますので、厚かましいこととは思いながらも、ここにご教示を乞う次第です。
今回も長文となってしまいましたが、お時間をとりまして申しわけありません。
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
仰るとおり、
『沢里武治は、自らの証言を後に訂正して、「賢治の上京を見送ったのは昭和2年ではなく大正15年のことだった』
と述べており、これは横田庄一郎の『チェロと宮沢賢治』に載っています。ところがこれは平成10年発行のものです。
一方、「旧校本年譜」の大正15年12月2日に関する記述は
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもうひとりでいいのだ」と言ったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
となっていて、これらのこと以外は記載されておりません。
したがって、この澤里の訂正と基にしてこの「旧校本年譜」の記載内容から、「三ヶ月」のことを除外していいという論理は成り立ちません。なぜならば、「旧校本年譜」が発行されたのは昭和52年だからです。
それとも、この「訂正」が昭和52年以前に既に公になっていたのでしょうか。もしご存知であればその出典が何かを教えてください。
なおお願いですが、今後あまり長いコメントはやめませんか。争点がぼけてしまいますので。
鈴木 守
hamagaki
鈴木さん、ありがとうございます。
長くないようにという件、了解いたしました。
昭和31年2月22日に『岩手日報』に掲載された、関登久也著「宮沢賢治物語(49)」には、
とあります。
ここにおいて証言者の沢里武治は、(昭和二年よりも)「この方」(=「その前年の十二月十二日のころ」の方)が、「確か本当でしょう」と述べて、自らの証言を修正しています。
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
何度も有り難うございます。
ところで、先ず私の質問にお答え願えないでしょうか。つまり、
『この「訂正」が昭和52年以前に既に公になっていたのでしょうか。もしご存知であればその出典が何かを教えてください』
ませんでしょうか。
鈴木 守
hamagaki
あれ?書き方が言葉足らずでしたらすみません。
先の私の投稿は、そこに述べたような沢里による修正(昭和2年→大正15年)が、昭和31年の『岩手日報』紙面に載ったわけですから、昭和52年以前に公になっていたのだ、ということが言いたかったのです。
鈴木さんもご存じのように、これは翌年にも単行本化されています。
それからついでですので、『校本全集』年譜が沢里の証言の一部だけを載せて一部は載せていないことが許せないという、昨日の鈴木さんのご意見について、私見を述べさせていただきます。
『新校本全集』年譜篇p.326の注*6に書いてあるように、この記載は関登久也の本からの「要約」でしょうが、鈴木さんとしては、年譜の記載においては一切「要約」を行ってはいけない、というお考えなのでしょうか?
もしも、「典拠とした資料は、一言一句洩らさずに、全文を年譜の本文に記載しなければならない」という規則に基づいて年譜の編纂をするとなると、その分厚さは今の数倍~数十倍?、値段も想像がつかないくらいになると思いますが、私にはそれは適切なやり方と思えません。
私としては、編集委員がその責任において、資料の中の重要な部分を取捨選択して年譜に掲載するというという現在のやり方は、妥当なものだと思います。
もちろん、その取捨選択のやり方が不適切だと読者が思った場合には、いろいろな形で意見を出していくべきだと思いますが、私は鈴木さんのように、「その内容以前に、一部を載せて一部は載せないことそれ自体が許されない」とは考えないのですが、どんなものでしょうか。
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
昭和31年の『岩手日報』では
『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において…(略)…語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
となっております。
したがって、澤里は何ら自分の証言を訂正はしておりません。
なぜならば、もし訂正する気があるのならば「どう考えても」という修飾はしないでしょうし、まして、「その十一月のびしょびしょ…」とは言わないでしょう。もし澤里が訂正したというのであればここは「その12月のびしょびしょ…」となっていなければならないからです。
なお念のために言えば、「確かこの方が本当でしょう。…(略)…その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが」の部分は、『昭和二年には先生は上京しておりません』となっている「宮沢賢治年譜」を揶揄しているにすぎません。
鈴木 守
hamagaki
鈴木さん、ありがとうございます。
おおっと、そう来ましたか!という感じですが、読み方によってはこの文章をそういう風に解釈することも可能なんですね。
「どう考えても財布をカバンに入れてきたはずなのに、ないんですよ・・・家に忘れてきたようです」という場合など、自分が「どう考えても」そうであっても、何か「客観的な証拠」を突きつけられると、自分の間違いを認めざるをえない、ということは現実にありえますよね。
「どう考えても」という言葉には、そういう状況における用法もあることは、何はともあれまずお見知りおき下さい。
さて、もしも鈴木さんが上のお答えのように、この時点で沢里は発言を訂正しておらず、自分が見送った上京は昭和2年のことだと考えているのなら、関登久也が『宮沢賢治物語』で引用している沢里の証言のもっと後の方で、賢治の父親あての手紙(現在の呼称で「書簡222」の一部)の引用に続けて出てくる、次の箇所はどう解釈されるのでしょうか。
文章は初めから一続きで、「この上京」とは、ここで問題にしている沢里が一人で見送ったという上京のこと以外にありえません。
ここにおいて沢里が、「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付」と言っているのですから、彼はこの時点ですでに「年譜」だけでなく、賢治の父親あて書簡など「客観的な証拠」を目にした結果、昭和2年という自分の記憶は間違いで、この上京が大正15年のことだったと考えていると解釈する以外に、いったいどういう考え方があるでしょうか?
いくら何でも、これを「揶揄」と解釈するのは無理ですよね?
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」 様
お早うございます。
はい、日本語の文章としてはそのようにしか解釈できません。もし
「その12月のびしょびしょ…」
となっていれば別でしょうが、この位置に
「その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした」
とある以上、
澤里には訂正する考えはなかった
としか言えないでしょう。
それとも、その「十一月」は澤里の書き間違いだとでも仰るのでしょうか。
鈴木 守
hamagaki
はい、これが沢里武治による言い間違い(12月と言うつもりなのに11月と言ってしまった)ではなかった、と断定することは誰にもできませんし、私にもそれを100%否定する根拠はありません。
沢里であれ誰であれ、絶対に言い間違いをしない人はないからです。
しかしここでは、そういう蓋然性の議論ではなくて、鈴木さんがいつもおっしゃっているように、客観的な証拠に基づいて、論理的に考えてみましょう。
実は厳密に考えれば、現代の私たちにとっても、「賢治が大正15年12月2日に花巻から上京した」ということは、100%断定できることではないのです。
「賢治が大正15年12月12日に東京にいた」ことは、同日付の父親あて書簡222が残っていますから、ほぼ「疑いのない事実」と言ってよいでしょう。
しかし、「12月2日に上京した」という推定は、上の10月4日22:16の私のコメントで述べたように、父親あて書簡220に「神田 15・12・4 前8ー9」という消印があることから、これが神田局に回収されたのが12月4日朝←賢治が書いたのが12月3日夜←花巻を発ったのは12月2日、という風に、推理を積み重ねて導き出された事柄にすぎません。
もしも賢治が、他の上京の時のようにどこかで途中下車していたり、東京に着いた日には疲れて手紙を書けなかったり、書いていても投函が遅れたり、郵便の集配が遅れたり・・・とかしていたら、賢治が花巻を発った日は、実は11月30日だったり29日だったりしたのかもしれないのです。
私も、出発は12月2日だった可能性が最も高いとは思いますが、11月末だった可能性もまだ否定はできないと思っています。
そしてこの論理は、沢里から見ても同じくあてはまります。
沢里は、書簡222は証言中に引用していますから、この時点で見ていたのは確実です。だからこれを見て、賢治上京は昭和2年でなくて大正15年のことだったと、認識したのでしょう。
しかし、書簡222は「12月12日に東京にいた」ことを明らかにしているだけで、上京がいつだったかということに関しては、何の情報も含んでいません。それは12月だったかもしれないし、11月だったかもしれないのです。
また沢里が、この時点で書簡220を見ていたかどうかは、どちらとも言えません。
もし見ていなかったとすれば、上京の日付についてはやはりわかりません。
もし見ていたとすれば、その消印の日付に気づけば、上に述べたような推理によって、「12月2日の可能性が高い」と考えることはできたかもしれませんが、やはり彼も、11月末だった可能性を否定することはできません。
つまりどちらにしても、この時点で沢里は、客観的証拠に基づいた推論が示すかぎりでは、自分の見送った賢治の上京が、11月だったか12月だったか、どちらか断定することはできなかったのです。
上京を見送った「年」に関しては、書簡222という動かぬ証拠があるので、沢里は自分の記憶を昭和2年→大正15年と訂正せざるをえませんでした。
しかしその「月」に関しては、沢里の記憶では「どう考えても11月」であり、客観的証拠が示しているのもせいぜい「11月末から12月」という程度のことなのですから、沢里が自分の記憶を訂正する必然性はありません。
結局、沢里は、「月」に関しては、自分の記憶に不必要なを訂正を施さずに、素直に述べたということだったのではないでしょうか。
これが、「なぜ沢里は、証言において11月と言ったのか」という問題に対する、私の答えです。
そしてこう考えると、沢里が「11月」と言ったからといって、それ何も彼が「昭和2年」と考えていたと結論するための根拠には、ならないことになります。
ということで、今回もかなり長くなってしまいまして申しわけありませんが、前回の質問をもう一度あらためて・・・。
鈴木さんとしては、沢里の「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付になっておるものです」という証言を確認された上でも、やはり沢里はこの時まだ上京は昭和2年だと考え続けていた、とお考えなのでしょうか?
鈴木 守
「宮澤賢治の詩の世界」様
お早うございます。
さて、私は極めて憂慮しております。
「宮澤賢治の詩の世界」様は今回、
『はい、これが沢里武治による言い間違い(12月と言うつもりなのに11月と言ってしまった)ではなかった、と断定することは誰にもできませんし、私にもそれを100%否定する根拠はありません。…(略)…』
と仰っておりますが、このようなことを宮澤賢治研究家がブログ上で言ったのでは、「それを言っちゃあおしまいよ」と周りから言われることにはなりませんか、と。
なぜならば今回の「宮澤賢治の詩の世界」様のコメントは、端的に言えば、
『澤里は12月と言うつもりなのに11月と言ってしまった』
と、証言者の澤里はここでも嘘を語ったと、賢治の最愛の愛弟子の一人が間違いを言ったと強く主張されたことになるからです。
こんなことを申し述べることは大変失礼なことかとは思いますが、冷静になって下さい。ムキになりすぎておりますよ。つきましては、早めに今回のコメントは削除し、澤里武治様や関係者に謝った方が良いのではありませんか。併せて私のこのコメントも削除していただいても結構です。
もし、削除されるお気持ちがないのであれば、その理由等を次回のコメントで述べさせていただきます。
鈴木 守
ガハク
ここまでのお二方の論争興味深く拝見して参りました。ご両者の熱い賢治愛には感銘を受けるばかりです。生半可な知識しかない通りすがりの者ではありますが僕も一賢治ファンとして年譜を見ながら賢治さんの行動を逐一辿る事で彼の生きた時間を共に過ごしたいという思いにかられる事はあります。僭越ながらひと言申し述べさせてください。
研究は科学ですから真理を1つとして論議する事は当然でしょうが二つの意見が対立して決着がつかず平行線を辿る様な場合、それはそのまま二つとして公開されたままにして置くという方法もまた科学的態度とは言えませんでしょうか。
当記事で鈴木さんのご本の紹介がありそして問題点の提示がそのまま執筆者ご本にとの議論そのものになってる訳ですからこのブログを訪れる方達の前にコメント毎1つの記事としてあるというのは最良のあり方だと思います。
思い違い記憶違い言い間違い聞き間違いなど誰にでもある事です。いやあの賢治さんだってきっといくらでも思い違いぐらいはしたと思いますよ。でも北ニケンクァヤソショウガアレバイッテツマラナイカラヤメロト言うと思いますよ。
hamagaki
鈴木さん、こんにちは。
このたびは、私の書き込み内容に対してご憂慮をおかけしまして、痛み入ります。また、ご親切にその対処方法の助言までいただきまして、感謝申し上げます。
私の書き方がひねくれていたために、鈴木さんにこのような誤解を招いてしまったのかと思いますが、以下にご説明するように、私の方は大丈夫ですので、どうかご安心下さい。
鈴木さんは、私が上の書き込みにおいて、『澤里は12月と言うつもりなのに11月と言ってしまった』、「賢治の最愛の愛弟子の一人が間違いを言ったと強く主張」したと理解されたようですが、私はそのような意味のことは述べておりませんので、これはやはり、一種の誤解だと思います。
私は、その前の書き込み最後で鈴木さんが「澤里の書き間違いだとでも仰るのでしょうか」と尋ねられたことを受けて、「間違いでないと断定することはできないが、そんな答えの出ない議論に入り込んでもしょうがないので、次のように考えれば、沢里が11月と言った理由を理解できるのではないでしょうか…」という趣旨のもとに、それ以降の文章を書いたのです。
つまり私は、「沢里が間違いを言った」とは、全く主張していません。
そうではなくて、「(沢里を含めて)どんな人でも、絶対に間違わないということはない」という、当たり前の一般論を述べただけです。
そして、この一般論は、沢里氏を誹謗中傷したことには当たらないので、これを理由に沢里氏や関係者に謝罪したり、書き込みを削除したりする必要はないと、考えております。
鈴木さんにおかれましても、もう一度冷静に読み返していただければ、ここで私がご説明しているところは、きっと理解いただけるはずと、信じております。
ただ私としては、このような誤解をきっかけに、せっかくのこの場での鈴木さんとの意見交換が、お互いに不本意な幕切れを迎えてしまわないかということの方を、今は危惧しています。
ということで、さて、よろしければ、またビジテリアン大祭の論壇に戻りましょう。
沢里武治氏は、関登久也『宮沢賢治物語』に収録された証言をした段階で、賢治の上京をまだ昭和2年と考えていたのか、訂正して大正15年と考えていたのか、鈴木さんのお考えはいかがでしょうか・・・。
鈴木 守
さて、今問題となっているのは「新校本年譜」の大正15年の12月2日記載内容ですが、仰るようにこの典拠は関登久也の著作の中の澤里武治の証言であると私も思っていて、この点では意見は一致しております
そして、あなたはその中でも『宮沢賢治物語』が妥当だと言っております。そこでその澤里武治の証言を見てみると、
『どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。…(略)…単身上京されたのです。…(略)…
そういうことだけに幾日も費されたということで、…(略)…先生は三カ月は滞京なされませんでしたが、お疲れのためか病気もなされたようで、少し早めに帰郷されました。』
となっております。
ところが、この中での重要項目である
・「昭和二年十一月ころ」
・「先生は三カ月は滞京なされませんでしたが…(略)…少し早めに帰郷されました」
を今まであなたは澤里の記憶違いであり正しくない言ってこられましたが、さらには、前々回のコメントにおいて
・「その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした」
も怪しいものだと表白したわけです。
ということは、この澤里の証言をあなたはかなり疑っているわけですから、あなたはこの証言はもうぼろぼろで、殆ど信頼度がないということを主張したことになります。
すると大正15年の12月2日の現通説
『セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。』
の中身もおのずから信頼性が欠けているということを結果的に主張していることになります。しかし、一方であなたはこの内容は正しいと仰るわけです。
なおついでに申し上げておきますが、私は賢治が大正15年の12月2日に上京していないなどとは今まで一度も申し上げておりません。拙書にもそんなことは書いておりません。
長くなりますので、今回はこの辺で。 鈴木 守
hamagaki
鈴木さん、お返事をありがとうございます。
前回の私の書き込みに対して、今回は特にご異存を差しはさまれませんでしたので、内容をご了承いただいたものと受けとめておきます。
さて、沢里証言の評価の問題ですね。
鈴木さんは、私が沢里の証言においてこれまでに留保を付けた箇所を3点挙げた上で、
と、結論づけられました。
しかし、こういうところがまさに典型的に、鈴木さんの論旨において「論理の飛躍」を感じさせる部分なのです。
私は、沢里の証言が「もうぼろぼろ」などとは夢にも思っていませんし、「殆ど信頼度がない」などとも、決して「主張していません」。
これまでも何度か書いたように、私が言っているのは「沢里の証言が全て真実とは限らない」ということにすぎません。
そもそも、私が沢里証言を「疑っている」として鈴木さんが3点挙げられたうちの第1点「昭和二年十一月ころ」は、私より以前に本人が訂正している箇所ではありませんか。
このように、沢里といえども記憶違いをすることがあるのですから、私どもが少しでも真実に近づきたいと思うならば、様々な資料に対して「是々非々」の態度で臨むしかないのではないでしょうか。
鈴木さんの論理は、何かが正しい・信頼できるとなったらもう全て信頼すべき、逆に何か疑わしいとなったらもうぼろぼろ・殆ど信頼度がないという風に、「全か無か」の思考の傾向があるのではないかと、かねてから感じて、危惧しております。(あ、あくまで「傾向」ですよ、これも「全て」と言っているのではありませんので、念のため。)
あとここからは、沢里証言を是々非々で検討するために、「エピソード記憶」の特性、などについて書こうかとも思ったのですが、長くなるのでやめておきます。
かわりに、鈴木さんのご専門であるところの数学的な表現によって、先の書き込みにおける鈴木さんの論理の問題につき、書いてみます。この方が短いし、ご理解いただきやすいかと思いましたので。
まず、沢里証言に含まれる全ての命題の集合を、S とします。
その中で、真理値が「偽」であると私が考える命題の集合を A、新校本年譜が引用している命題の集合を B とします。もちろん、A も B も、S の部分集合です。そしてここでは、いずれも空集合ではありません。
さて、この場合に、B に含まれる任意の命題を、私が「真」であると言明することは、矛盾でしょうか?
いえいえ、そんなことはありません。
A ∩ B = ∅
という条件さえ満たしておればよいという、唯それだけのことです。
それはまったく簡単な理屈なのに、なぜ鈴木さんのような専門家が、これを矛盾と感じられたのかが不思議で、私なりに考えてみました。
そこで思ったのは、その原因は鈴木さんの内部で、「全か無か」の発想が潜在的に働いていたからではないか、ということです。
つまり「全か無か」の思考法では、「一部が偽 ⇒ 全てが偽」となるので、
A = S
となってしまうのです。そうなると、どうしても「 A ∩ B = ∅ 」が成り立たなくなるので、矛盾が生じるわけです。
ちなみに、「 A ∩ B = ∅ 」は、日常語に置き換えれば「是々非々の態度」とも言えるわけで、上の記述は、「全か無かの思考と是々非々の態度は相容れない」ということの、数学的表現と言えるかとも思います。
気がつくと今回は何か、僭越なことばかり書いてしまったようで恐縮です。論議をかみ合ったものにしたいという思いがあっただけで、他意はありません。お許し下さい。
最後に、私は前の書き込みにおいて、賢治が大正15年の12月2日に上京したかしていないかについて、鈴木さんがどう考えておられるかということは、何も問題にしているわけではありませんので、念のため。
それでは、前回「この辺で」と中断された、鈴木さんの書き込みの続きを、期待しております。
鈴木 守
hamagaki 様
お早うございます。
「前回の私(hamagakiさん)の書き込みに対して、今回は特にご異存」がないわけではございません。長くなるから取り敢えず打ち切っただけです。
まずは、hamagakiさんが件の澤里武治の証言を否定すればするほど自家撞着に陥るのではありせんかということを言っておきたかったのです。
また、本日の私のブログ『みちのくの山野草の』に“澤里の「どう考えても」について”
(http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f93cede1158725629b477a5f76b7dc36)を投稿するので、それをhamagakiさんに見てもらってから、続きを述べようと思っていただけです。先程投稿しましたからどうぞ御覧になって下さい。澤里武治の「どう考えても」とは、そのような伏線があったのです。
そこで続けます。
さて、『hamagaki : 2013年10月 8日 18:47』のコメントの中身についてですが、
その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
の『「十一月」は澤里の書き間違いだとでも仰るのでしょうか』と私が問うたことに対して、hamagakiさんはこの「十一月」は正しいと思っているとは結局一言も言っておらず、間違いであると言える、これこれの可能性があるということをいろいろと述べているだけです。可能性なら何でもありですから、この場合何ら意味を持ちません。したがって、hamagaki さんは「十一月」は間違っていると言っていることと同じになります。
そこで、改めてお訊ねします。
hamagakiさんはこの「十一月」は間違っていると今でも思っておられるのですか。それとも、現時点では正しいとお考えですか。
この件の澤里武治の証言が今回の(唯一の)典拠だと仰っているわけですから、イエスかノーかで答えてください。証言として扱う以上、間違っているとするのか、正しいとするのかのいずれしかありません。そうしないと、それを用いた論考は次の段階に進めませんし、曖昧にしたままで論を進めたものはやがてもろく崩れ去りますので。
なお、私は今まで「宮澤賢治の詩の世界」 様としてきましたが、これも変で、「あなた」としても変なので、今回は「hamagaki」様としてみましたが正直これにも違和感があります。一方、私はずっと本名でコメントしてきました。そこでお願いのですが、これだけの議論が続いておりますから、今後はお互い本名でコメントし合いませんか。
鈴木 守
浜垣 誠司
鈴木さん、こんばんは。
今日は日中ばたばたしていましたもので、お返事が遅くなってすみませんでした。投稿者の名前については、ご要望に合わせて、本名にさせていただきます。
さて、お待たせしていきなりで恐縮ですが、鈴木さんの書き込み中ほどの、
というところなどは、前便で私が指摘させていただいた「全か無か」の思考法の、またまた典型例ですね。
確かに私はそこで、「正しい」という言葉は使わなかったかもしれませんが、それがすなわち「間違っていると言っていることと同じ」になるという論の運びには、けっこう凄いものがありますよ。さすがの鈴木さんでも、今あらためてご自分で読み返されたら、これはちょっと論理が飛躍しているかなあと、お思いになりませんか?
で、それに続いて、「イエスかノーかで答えよ」(また全か無か!)で来られるんですから・・・。
まあ、私の書き方もわかりにくかったのかもしれませんから、ここではシンプルに、わかりやすく、お答えします。
「その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした」における「十一月」は、沢里の言い間違いではないと、私は考えています。
そう考える理由は、10月8日18:47の私の書き込みに書いてあります。
それから、鈴木さんのブログの「3557 澤里の「どう考えても」について」という記事、拝読させいただきました。
最後の「あるご助言」という部分を除けば、すでに鈴木さんがブログやご著書で述べられていることと、重複する内容ですね。
そして鈴木さんは記事の最後を、「この方はこの「伏線」をお調べになっていらっしゃらなかったのでしょう」と結んでおられますが、私はこの場で鈴木さんと議論を始める前にご著書を読んでいますから、この「どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが」という表現よりも時間的に先立って、『續 宮澤賢治素描』における「確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます」という表現が存在したことは、承知しております。
しかし率直に申し上げて、鈴木さんがこのブログ記事に書かれた内容では、問題は解決しないでしょう?
そういう「日本語の解釈」を弄ぶだけでは、この時点で沢里が、上京見送りの時期をまだ昭和2年と考えていたか、それとも訂正して大正15年と考えていたか・・・、先日から私も何度も鈴木さんに質問した、この問題の答えを、きちんと導き出すことはできません。
この問題に答えを出すためには、昭和31年2月22日『岩手日報』掲載「宮沢賢治物語(50)」にも、昭和32年刊行『宮沢賢治物語』p.218にも書かれていた次の一文、
という重要な箇所をどうとらえるか、そこが最大のポイントになります。
ひょっとしたら鈴木さんは、10月7日22:40の書き込みにおいて「澤里は何ら自分の証言を訂正はしておりません」と断定された時点では、上の一文はあまり意識しておられなかったのかもしれません。
しかし、こうやって何度もご確認いただいた上で、この文をどう解釈するのか、そして今なお、沢里は証言を訂正していないとあくまで主張されるのか、どうかそのお答えをお聞きしたいと思います。
私の方は、鈴木さんからご質問いただいた事柄は、すべて直後の書き込みでお答えしているのですが、私は上記の質問をこれまでに3回したにもかかわらず、まだ鈴木さんにお答えいただいてません。
今回は、ぜひともお願い申し上げます。
鈴木 守
浜垣 誠司 様
今晩は。いつもお世話になっております。
本名の件、そして今回のご回答どうもありがとうございます。
さて、これで私も半分は安心しました。
『「その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした」における「十一月」は、沢里の言い間違いではないと、私は考えています』
と仰っていただいたからです。
ただし、この「十一月」についての浜垣様の認識をお伺いします。昭和31年の『岩手日報』に載った「宮澤賢治物語(49)」では、
『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において…(略)…語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。』
となっている、この最後の「十一月」のことを、まさか浜垣さんは、昭和2年のそれの可能性もあるとは思っておりませんよね。
少なくともこのご返事をいただいた上で、3度にも及ばせてしまいました(申し訳ございません、経なければならない段階がこちらにはございますので)ご質問に応えたいと思います。いずれ、時間が到ればこのご質問に対しては必ずお答えいたしますので、そのためにもどうぞ宜しくお願いいたします。
鈴木 守
今回の件に関する典拠は
『宮澤賢治物語』(岩手日報社の単行本、昭和32年、著者以外の者による改竄あり)
よりは
「宮澤賢治物語(49)」(昭和31年『岩手日報』連載)
の方が、そしてそれよりも
『續 宮澤賢治素描』(昭和23年)
の方が、典拠としては信頼度が高いと思います。
人間の記憶というものは時間が経てば立つほどその曖昧さが増しますし、果ては、やっていなかったことがやっていたとなることさえあるのが人間の性がありますので、一般的には同一内容の証言の場合、初出の方が優先的に扱われているのではないでしょうか。
鈴木 守
浜垣 誠司 様
済みません、前回の一部を訂正させて下さい。
誤=この最後の「十一月」のことを、まさか浜垣さんは、昭和2年のそれの可能性もあるとは思っておりませんよね。
正=この最後の「十一月」のことを、まさか浜垣さんは、大正15年のそれの可能性もあるとは思っておりませんよね。
以上宜しくお願いします。
鈴木 守
浜垣 誠司
鈴木さん、こんばんは。お返事ありがとうございます。
私は、『續 宮澤賢治素描』に出てくる「十一月」は「昭和2年11月」であり、『宮澤賢治物語(49)』に出てくる「十一月」は、「大正15年11月」と考えています。
この点についての私の考えは、議論の最初からずっと変わりはなく、これまで何度もご説明しておりますので、きっと鈴木さんも耳にタコができていることでしょう。
また今さら、ここで繰り返す必要もないとは思いますが、ただ今回わざわざ尋ねられたということは、ひょっとしてまだ十分にご理解いただいてないのでは?と一抹の不安がよぎりましたので、ここにあらためて整理しておきます。
この段階でも、上京を見送った「月」に関しては、賢治の父あて書簡群からは「11月または12月」ということしか言えないので、沢里としては自分の当初の記憶を訂正する必要はなく、「その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日」と言った。したがって、これは「大正15年11月」のことである。
以上です。
それでは、三顧の礼でお願い申し上げた私の「質問」に対する鈴木さんのお答えを、待たせていただきます。
鈴木 守
浜垣 誠司 様
お早うございます。
安定した秋らしい日々が続かない花巻ですが、御地は如何ですか。
まずはお断りとお願いがございます。
今回のこの議論の発端は、公的媒体上に発表されました浜垣様の
『鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。』
というご批判に応えるというものであるということをお断りさせていただきます。
つきましては、今回の私からの反論におきましては私の進め方に沿っていただけないでしょうか。懸案のご質問につきましては、この反論が一段落したところで必要とあれば、私の考え方を必ず述べますので。
さて、ご回答どうもありがとうございます。
ただし私が質問しましたのは、昭和31年の『岩手日報』に載った「宮澤賢治物語(49)」の、
『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが…』
となっている中で使われている最後に出て来た「十一月」のことを、まさか浜垣さんは、大正15年のそれの可能性もあるとは思っておりませんよね、という質問でした。
はたしてここまでの文章内容から、この「十一月」が浜垣様の仰るような『『宮澤賢治物語(49)』に出てくる「十一月」は、「大正15年11月」と考えています。』というような解釈が出来ますでしょうか。私にはどう転んでも出来ません
浜垣 誠司
鈴木さん、こんばんは。
京都でも、なかなか「安定した秋らしい日」は訪れません。当地では、10月9日に最高気温が31.5℃になったのに続き、10日には30.7℃、11日には30.1℃と、いわゆる「真夏日」が続いています。とても10月とは思えません。
花巻の気候は、また異なった不安定さでしょうが、どうかお体に気をつけてお過ごし下さい。
私からの懸案の質問については、今回は鈴木さんに「必ず述べます」とおっしゃっていただきましたので、ご都合が整うのをお待ちいたします。
さて、上に引用していただいた『宮澤賢治物語(49)』の一部に関して、鈴木さんとしては「大正15年」という解釈は、「どう転んでも出来ません」ということですね。
しかし、これまでのいろんな予備知識をいったん棚に上げて、虚心坦懐にこの文章を読むと、ここで沢里は「年譜」の大正十五年十二月十二日の部分を引用した直後に、「確かにこの方が本当でしょう」と言っているわけです。
これをまず「文字通り」ごく素直に読めば、彼が「この方」と言っているのは「大正十五年十二月十二日」の方なのですから、ここで沢里は、上京時期を大正15年と考え直したと解釈することも、理屈の上では可能なはずです。「本当」という言葉は、普通はそれが「正しい」、ということを意味します。
これに対して鈴木さんは、ここに出てくる「確かにこの方が本当でしょう」という言葉は、沢里が年譜を「揶揄」して言っているのであり、沢里の真意は逆である、すなわち実際には昭和2年と考えているという解釈を、以前に提示されました(10月7日22:40コメント)。
確かに、この部分だけを取れば、鈴木さんの言われるように逆の意味に解釈することも、あながち不可能ではないかと、私も理解できます。
つまり、上に引用していただいた部分の解釈としては、文字通り素直に読んで「大正15年」と考えるのと、鈴木さんのように逆の意味として「昭和2年」と考えるのと、二通りの考え方がありうる、ということが言えると私は思うのですが、どんなものでしょうか。
沢里がそれより以前に『續 宮澤賢治素描』にどう書いていたとか、年譜を見て揶揄したくもなったのではないかとか、現在の私たちが持っている知識はいったん括弧に入れて、たとえばこれを国語の問題として考えるならば、論理的には二通りの解釈が可能であることは、やはり認めざるをえないのではないでしょうか。
最初に「どう転んでも出来ません」とまで言われてしまうと、議論を進めていくにもとっかかりが何もなくなってしまいますので、ひょっとしたら以上の点までは鈴木さんにも同意していただけるのではないと思い、議論の出発点として、まずはお尋ねさせていただく次第です。
鈴木 守
浜垣 誠司 様
お早うございます。
この度は私の願い事をご了解いただいて有り難うございます。
さて、今回は少し長くなりますので、2回にわけて投稿いたします。
〔「どう転んでも出来ません」について〕
まず、私がなぜ「どう転んでも出来ません」と申し述べたのか、その説明をします。今回の「宮澤賢治物語(49)」の私の解釈については自信があったのですが、独りよがりではいけないと思い、友人の現役高校国語教師にそのコピーを渡して『この「十一月」は何年のそれだと思うか』と尋ねたところ、一読して彼は
『昭和2年の「十一月」でしょう。その前の部分は挿入文ですね。他にはないでしょう』
とその文書の構造を見抜いて、私と同じようにその「十一月」とは「昭和2年の「十一月」」であると言ってくれていたので、更に確信を深めていたからです。
〔わかりにくい文章〕
一方、この「(49)」は一瞥しただけでは極めてわかりにくい文章です。そこで、なぜ文筆家の関登久也がこんなわかりにくい文章を書くのだろうか(そう疑問に思ったことが、今回の拙書を書く切っ掛けでした)、とかつての私は不審に思いました。そこからは、関は澤里武治の証言をその通りに書き記していたからであるという判断ができます。
すると、その武治の証言からは彼の苦渋と無念さがひしひしと伝わってきます。なぜなら、例えば、彼がその時に基にしなければならなかった「賢治年譜」は、それまで公になっていたそれとは異なるものだったからです(昭和31年頃以前の「賢治年譜」には、月は「九月」ですが、少なくとも昭和2年には上京していると皆書かれています)。
だからこそ、武治は『宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません』
と訝ったのでしょう。
やっと最近になって私は、その背景がよくわかったので、この「(49)」の文章内容は武治の思いも含めてよ~くわかるようになりましたし、そしてさぞかしかように彼は言いたかったであろうと同情もしております。
(続く)
鈴木 守
浜垣 誠司 様
(承前)
さりながら、私やその国語教師がそうしか読めないと言っても、浜垣さんは『「大正15年11月」と考ています』という現実が一方であります。
〔浜垣さんのお考えを生かすと〕
それでは浜垣さんのお考えに沿ってみましょう。
そうするとこの「(49)」のこの部分は、少なくとも解釈が二つに分かれることとなります。よって、この部分は証言としては使えなくなります。さすれば、浜垣さんの考え方に基づきますとこの証言の中の次の【 】内の部分は皆使えなくなります。
『【どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、】宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…【その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。】『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。【少なくとも三ヵ月は滞京する。】とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。《その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが》…』
つまり、この証言の中の重要項目の使えないところが更に増し、「証言」としての信頼度がまた落ちてしまいます。ということは、現通説がこの証言を典拠にすることは更に困難になります。なぜならば、現通説の『『セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。…(略)…冷たい腰かけによりそっていた。』の中身はみな先の証言部分にあるからです。
しかも、もともとこの「現定説」の典拠は他にはございませんから、いわば「一本足」で立とうとしていたのですが、その足は「一本分さえもなくなってゆく」のです。
(なお、《その時みぞれの夜…(略)…汽車をまっておりましたが》の部分さえ、信頼度が弱まるということも言えます。なぜならここにも指示代名詞「その」があるからです)。
〔結論〕
よって、もし浜垣さんが、『「大正15年11月」と考ています』と仰るならばなおのこと、この「(49)」は典拠としての適格性をまた弱めてしまい、ますます使えないものとなってしまいます。
この構図は「大正15年12月2日」の「現定説」も同様であり、澤里武治の証言を典拠としようとすればするほどその矛盾が生じてきてその当該の部分を間違いであるとか無視せざるを得なくなり、その結果が逆にその典拠の適格性をどんどん奪ってしまうという自家撞着をおこしております。
なおついでに申し述べておきますと、この「(49)」は、『續 宮澤賢治素描』の内容を「訂正した」ものだともしお考えになるのであれば、それと同程度に「訂正を迫られた」という可能性の方も同時に検討せねばならなくなります。
よって、この際に典拠とすべき武治の証言としては、一般にそうであるように、初出の『續 宮澤賢治素描』に基づくべきだということにならざるを得ません。
以上ですが、如何でしょうか。
浜垣 誠司
鈴木さん、おはようございます。
今朝は京都もいいお天気で、かなり涼しくなりましたが、花巻の気温を見ると、こちらよりも10℃近く低いようですね。
さて、「証言の一部に誤りが含まれていれば、他の部分も信用できない」という主張が、論理的には成り立たないことは、10月10日01:37の私の書き込みで集合論を使ってご説明しましたが、ご理解いただいていますでしょうか?
すでに私が反論し終えている事柄を、「自信がある」とか「国語の先生もそう言った」とか、そういう客観的論拠にならないことを添えて何回言われても、残念ながら説得力が増すわけではありません。鈴木さんが上に書かれたことは、表現は多少違えど10月9日19:09にすでに書いておられることと主旨は同じなので、同じことを繰り返し書かれるのは、鈴木さんにとっても時間の無駄だろうと、危惧しております。
もしも、10月10日01:37に私が述べたことにご異存がおありでしたら、それはそれとしてお書き下さい。
さて、今回は私の方からは一点だけお尋ねします。
鈴木さんは、上の書き込みの最後の方、下から6行目あたりに、「訂正を迫られた」という言葉を書いておられますが、これはいったい何のことでしょうか?
ご教示をお願いします。
鈴木 守
浜垣 誠司 様
何と本日は久々に花巻も快晴で、私までが心爽やかになっております。
さて、折返しのコメントありがとうございました。
〔「訂正を迫られた」について〕
この件につきましては拙書『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』をよく読んでいただければおわかりになると思います。
〔画期的な説ですのでどうぞご発表を〕
そして、次です。もし浜垣さんがこれでも『「大正15年11月」と考ています』と仰るのであれば、これは今までの定説を覆すことになる画期的な説ですから、どうか浜垣さんにおかれましては、これに基づいた、例えば次のような仮説
宮澤賢治は大正15年11月、澤里武治一人に見送られながらチェロを持って上京した。
を定立し、早速その検証作業をなされては如何ですか。
〔対等な立場に〕
私は「大正15年12月2日」の定説に疑問をいだき、その解消に挑んだのが今回の拙書の中身です。そして、浜垣さんからご批判をいただいたのがこの議論のスタートでした。
そして現在、同じくこの件について浜垣さんも大きな疑問をお持ちな訳ですから、いわば私の「代案」として、同じように論考をご発表いただきたいと私がお願いすることは筋違いのことではないと思います。そうしていただければそこで初めて、対等な立場に立つことができ、公平な論争が保証されると思いますので。
〔再開ができる日を待っております〕
私は、その論文を拝見してから、この議論を再開させていただきとう存じます。
それでは浜垣さんの論文の発表を楽しみにお待ちしております
末筆ながら、今後のますますのご健康と、ご活躍をご祈念申し上げます。
鈴木 守
浜垣 誠司
あらら。
二人ともが自説を本にして出版していなければ、「公平な論争が保証され」ないというお考えなのですか?
鈴木さんが、ご自身のお考えを検証するために大変な調査をして、それを本にまとめられたことは、心より尊敬申し上げています。しかし、本を出しているかどうかと、ここできちんと議論をすることとは、まったく別の問題ではありませんか。
そのように、一方的に議論を打ち切ってしまおうとされることの方が、よっぽど「公平な論争」を阻んでしまうと思います。
鈴木さん。
10月12日08:14に、「懸案のご質問につきましては、この反論が一段落したところで必要とあれば、私の考え方を必ず述べますので。」と言っていただいた、あの「必ず」のお約束は、いったいどこへ行ってしまったのですか?
鈴木さんがつい昨日ブログに書かれたように、まだ「私達の議論は佳境」ではありませんか。
どうか、少なくとも懸案の質問に対してくらいは、お答えをお願い申し上げます。
浜垣 誠司
鈴木守さんが、とつぜん山猫博士のようにこの広場から姿を消してから、もう丸一日以上がたちました。
これからどうなるのかはわかりませんが、もしも鈴木さんがここに戻ってこられたら、またすぐに議論の続きが再開できるように、私が中断前から予定していた質問3つを、あらかじめここに書いておきます。
また、現時点で議論そのものは尻切れトンボになっていますが、読者の皆さまにとっても、これを見ていただければ、これからの話がどういう方向に進んだのかということが、大体おわかりいただけるでしょう。ご参考になれば幸いです。
鈴木さんは、昭和31年の『岩手日報』連載「宮澤賢治物語」の時点で、沢里武治は賢治の上京見送りは昭和2年のことと考えていたとおっしゃっていますが、「宮澤賢治物語」の中で沢里は、「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付になつておるものです」と言っています。
この言葉は、鈴木さんのお考えと明白な矛盾をきたしていますが、何らかの説明をして下さい。
(説明)
これは、議論の中で私が三度お尋ねしても、結局は答えていただけなかった、「懸案の質問」でした。いったんは、「必ず」答えると言って下さったのですが・・・。
おそらく鈴木さんにとっては、最も痛いところを突いていたのでしょう。
最後の方の10月13日08:28の書き込みにおいて、沢里が証言の「訂正を迫られた」という可能性にまで言及を始められたということは、鈴木さんとしてはあくまで昭和2年として強弁を続けることにも限界を感じ、何らかの「譲歩」の布石を打っておられたのかもしれません。
上の問の答え如何に関わらず、鈴木さんは、沢里が晩年においては「昭和2年」という自分の記憶を訂正して、公の場でも「大正15年」と言うようになっていたことは、認めておられます(10月7日01:09書き込みにて横田庄一郎著『チェロと宮沢賢治』を引用しつつ)。
それならば、やはり最終的には沢里は、賢治上京は大正15年だったと証言しているわけであり、鈴木さんが「昭和2年」を主張するということは、同時に、「晩年に大正15年と訂正した沢里の判断は間違いだった」と主張していることになります。
鈴木さんがこのように、沢里の証言訂正が間違いであると判断された根拠は何なのか、説明して下さい。
(説明)
議論の過程で、私が「沢里であれ誰であれ、絶対に言い間違いをしない人はない」と書いた際に、鈴木さんはそれを槍玉に挙げて、「賢治の最愛の愛弟子の一人が間違いを言ったと強く主張されたことになる」と責め、私に書き込みの削除と関係者への謝罪を求められました。
そのような態度で沢里の証言に臨んでおられる鈴木さんであるのに、一方で沢里自身による証言訂正を、まるでなかったことのように無視し続けるのは、これこそ沢里の遺志への冒涜ではないかと、私には思えます。
上の問の答え如何に関わらず、沢里が最終的に自分の記憶を訂正して、昭和2年ではなく大正15年のことだったと結論づけたということは、沢里には賢治上京を見送った記憶は1回しかなかったことを意味しています。
それなのに鈴木さんが、沢里は大正15年と昭和2年と2年続けて見送ったと主張されることは、沢里は実際は2回の記憶を1回と勘違いしていると主張することを意味します。
これは、単なる「時期のずれ」のような記憶錯誤とは異なって、かなり重大な記憶の障害に相当しますが、沢里がこのように重大な記憶の障害をきたしていたと、鈴木さんが考える根拠は何なのでしょうか。
(説明)
この点こそが、「大正15年と昭和2年の2年続けて賢治が上京した」ということを、「沢里の証言を根拠に」主張しようとした場合に生ずる、最大の難点です。
人間の記憶において、時期の勘違いというのは誰にでも起こりますし、皆さんも多かれ少なかれ経験しておられるでしょう。しかし、沢里にとっての恩師見送りのような重大事を、自分が1回しかしていないか2年続けて行ったかで間違えてしまうというような事態は、一般に健康な人に起こるような記憶錯誤ではありません。このようなレベルの記憶障害を、強引に前提としなければ維持できないような仮説には、やはり無理があると言わざるをえません。
上の【問1】【問2】をどう答えるかに関わらず、私としてはこの一点だけでも、鈴木さんの仮説の困難さを明らかにするには必要十分と考えましたので、上のブログ記事本文にはまずこれを書いておきました。
それでは鈴木さん、もしもまた気が向かれたら、上記お願いします。