謹賀新年

 あけましておめでとうございます。
 今年の大晦日・元日は、全国各地で荒れ模様の気候で、かなりの積雪があったところも多いようですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 昨年は、個人的に忙しかったりしまして、なかなか当サイトの更新ができず、申しわけありませんでした。一昨年くらいまでは、週2回はブログ記事をアップするよう心がけていたのですが、昨年は週に1回も危うい有様で・・・。
 ここで本来ならば、「今年こそは、頑張ります」と決意表明をしなければならないところなのでしょうが、無理なことを言ってもきっと続きませんので、今年も何とかあきらめず、地道に更新して参りたいと思っています。また時々、更新が滞っていることもあるかもしれませんが、私としては今年もつねに、賢治について次は何を書こうかと考えつづけているでしょう。
 どうか本年も当サイトを見捨てずに(笑)、よろしくお願い申し上げます。

 ところで私は先日、香川県の郷里へ帰省するついでに、愛媛県四国中央市の「土居町」というところに行ってみました。
 ここは、宮澤賢治の盛岡高等農林学校時代の同級生・小菅健吉が、アメリカ留学から帰国して、1927年(昭和2年)7月から教諭を務めていた「愛媛県立宇摩実業学校」があったところなのです。

 賢治ファンの方ならご存じのように、小菅健吉は、盛岡高等農林学校時代に賢治らとともに1917年(大正6年)に同人誌『アザリア』を刊行した中心メンバーの一人で、有名な下の写真(『新校本全集』第十六巻(下)より)では、前列の向かって左の彼です。

「アザリア」四人衆

 いやむしろ小菅健吉は、中心メンバーの「一人」というよりも、その創刊時においては他の同人たちをリードする存在だったと言えるでしょう。その「第一号」の巻頭言も、彼が書いたものでした。

     初夏の思ひ出に                    流るゝ子

 消え残る雪の未だまだらに彼方此方に散在する中より微風は春意を齎し、北流は荒漠たる白銀が原を、南流は桜花の春を告ぐる頃より中津河畔公園の紅梅一二輪、高き芳香に万輪を呼び――統べて爛漫の桜花、尊き黄金色をなせる山吹、質素な卯の花、雨にゆかしき海裳の淡紅遠方で眺むべき桃色の花、さては名知らぬ草に至るまで咲き出でゝ、こゝにあはたゞしき杜陵の春は来りぬ、
天下を挙げて花となす北国の春、誠にあはたゞしきものなれども、そがためにまた、華やかなり、爛漫なり、むしろ澄み渡る月光を受けし桜花など、あくどきまでに濃艶なりとや云はん、
はなやかなりし花も淡泊な梨花の、しぼむ頃より、すべてにつけて行く春のあはれな情調を人の心に残す晩春に移りぬ、
青葉の影、日に増して、さても濃艶なりし影も八重桜の一二輪、散り行く葩に云ひ知れぬ淋しさを含みては新緑影濃やかなる間に無限のあはれを止むるなり、
感受的詩人が限りなき涙を流すは、げにや此の晩春より初夏への移り目、はりつめたる琴線の見えざる刺戟にも尚ほ美妙なる音を発する時にあらずや、
吾がアザリヤ会はかゝる詩人(敢て吾曹一派を詩人と名づけん)多忙の初夏、乱れ易く傷みやすき心を育み、現在に対するふ平を軽からしめ、自由てう心を積極的に向上せしむべく年来各自の心に、はりつめたる琴線相触れて、こゝに一歩を踏み出しぬ。
之より吾等の放浪する処、足跡を印すべきの旅路、前途の行程たるや誠に遠大なるものなり、遠くして而も近きにある、その到達点や各自の、その心眼に或る何物をかを認めつゝあるにあらず哉。(後略)

 この美文調の文章を読むだけでも、いかに小菅健吉が多感な文学青年であったかが、うかがい知れるでしょう。彼はさらにこの創刊号に、藤村ばりの抒情詩や、17首の短歌も掲載しており、創作力は旺盛です。
 賢治も、琴線の相触れる仲間を得て、初めて自らの創作を心おきなく発表できる媒体を共有し、ついにここに、後の人生にも続く「一歩を踏み出し」ました。

 1918年(大正7年)3月に二人が卒業すると、賢治は研究生として引き続き土性調査に携わったのに対して、小菅健吉は同年9月に横浜から出航してアメリカに留学します。シカゴ、ミシガン、オハイオの各大学で学び、とりわけ土壌細菌学を研究したということです。下の写真は、留学中に保阪嘉内のもとに書簡とともに送られてきたものでした(保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会編集『アザリア』第六号より)。

留学中の小菅健吉

 小菅健吉がアメリカから保阪嘉内にあてた書簡では、「宮沢ハ如何した 河本ハ? ハガキニヨリ種々ノコトヲ憶フ」「緑石ヨリモ宮沢ガ心配ニナル」と、賢治のことをしきりに気遣っていたようです。

 そして1926年(大正15年)10月に小菅は帰国して、11月に盛岡の母校に留学成果の報告に来たついでに、花巻の賢治のもとを訪ねました。賢治はこの年の春に花巻農学校を退職して羅須地人協会を始めていましたから、あの下根子桜の独居自炊生活の家に来たわけです。そしてあそこに一泊していったんですね。
 この時の賢治について後に小菅は、

容姿、風采など実に無頓着、そのあたりの百姓男とかわりない様子をして居た。秋の終りだと云ふのに麦わら帽子をかぶつて居た。花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた。

と書いています(川原仁左エ門編『宮沢賢治とその周辺』所収「大正十五年の秋」)。
 上の写真のように洋行帰りでおしゃれな小菅からすると、当時あえて自ら百姓になろうとしていた賢治の風采には、かなりびっくりしたのかもしれません。「あの学年一番の秀才だった宮沢が、こんな姿で・・・」と。

 そして小菅健吉は、翌1927年7月から、愛媛県立宇摩実業学校の教諭として勤務を始めるのです。小菅の郷里は栃木県でしたから、愛媛県というのは日本の中ではあまり馴染みのない風土だったことでしょう。
 そしてその教師時代のものと思われる小菅夫婦の姿は、下のようなものでした(保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会編集『アザリア』第六号より)。

小菅健吉夫妻

 やはりダンディーな姿ですね・・・。

 さて、この小菅健吉が勤めていた「愛媛県立宇摩実業学校」は、現在は「愛媛県立土居高等学校」となっています。下のマーカーの場所にあります。

 愛媛県の、東の端の方に位置する町です。私は12月30日、山陽新幹線を岡山駅で降りて、松山行きの特急「しおかぜ」に乗り換え、瀬戸大橋を渡って予讃線に入り、観音寺駅でさらに普通電車に乗り換え、「伊予土居」という駅で降りました。

伊予土居駅

 上の写真で言えば駅の裏手、北の方に1kmほど歩くと、「愛媛県立土居高等学校」があります。この高校が、その昔の「愛媛県立宇摩実業学校」の後身なのです。学校公式サイトの「沿革」によれば、創立から現在まで同校がたどった経過は、次のようなものです。

  • 1901年(明治34年)、愛媛県宇摩郡三島町に宇摩郡立農業学校として創立、修業年限3ヵ年、生徒定員120名
  • 1906年(明治39年)、校名を宇摩郡立農林学校と改称
  • 1922年(大正11年)、位置を宇摩郡小富士村に移転
  • 1923年(大正12年)、県に移管して愛媛県立宇摩実業学校と改称、生徒定員150名、修業年限3ヵ年
  • 1929年(昭和4年)、女子部併設、定員並びに修業年限は男子部に同じ
  • 1944年(昭和19年)、愛媛県立宇摩農業学校と改称
  • 1948年(昭和23年)、学制改革に伴い、愛媛県立宇摩農業高等学校と改称
  • 1949年(昭和24年)、高等学校再編成により愛媛県立小富士高等学校として開校
  • 1954年(昭和29年)、町村合併により所在地名を宇摩郡土居町大字中村899番地に変更
  • 1955年(昭和30年)、町村合併により愛媛県立土居高等学校と改称
  • 1976年(昭和51年)、土地合筆により所在地を宇摩郡土居町大字中村892番地に変更
  • 2004年(平成16年)、市町村合併に伴い、住所表示を四国中央市土居町中村892番地に変更

 住所表記こそ変われど、大正時代に小菅健吉が勤めていたのと同じ場所に建っているわけです。

 で、下写真が現在の校舎です。まずは、学校の正門。

愛媛県立土居高等学校正門

 下はグラウンドと校舎。

愛媛県立土居高等学校グラウンド

 12月30日ともなると、校内はひっそりと静まりかえっています。ひととおり高校の敷地の周りを少し歩くと、中には入らずに現地を後にしました。
 地元の方々はみんな年越し準備に忙しいのか、駅から往復する途中で道行く人に出会うことはありませんでした。駅の近くのスーパーに寄ると、食料品などを買い求める人で賑わっていて、私たちもそこでお弁当を買って、駅の待合室で食べました。

 ところで小菅健吉が在職した当時は、「宇摩郡小富士村」と呼ばれたこの地区は、今は「四国中央市」という大層な名前になっています。
 上の学校沿革でも触れたように、2004年に「平成の大合併」によって、川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町、宇摩郡新宮村が合併して、「四国中央市」という新自治体が誕生しました。「宇摩実業学校」の名前にもなっていた「宇摩」という地名は、古く709年(和銅2年)の「河内国古市郡西林寺事」に「伊予国宇麻郡常里」として初出し、平安時代に編纂された「和名類聚抄」にも「宇摩郡」として出てくる由緒ある名称なのだそうですが、上記の大合併に伴って「宇摩郡」という郡がなくなったことにより、行政区画の名前としては消滅してしまったわけです。
 地元の人の「宇摩」という地名に対する愛着は深かったようで、合併後の新市名に関する住民投票では、「宇摩市」が1位、「うま市」が2位、という結果でした。しかしユニークな名前に地域の発展を賭ける政治的な思惑もあったのか、2003年に行政主導で、新市名は「四国中央市」と決定されます。これは、住民投票では5位に沈んでいた候補でした。
 この決定を受けて、反対住民からは新市名の再考を求める運動が起こり、12,460名の署名が集められるなどしましたが、結局はそのまま翌年に「四国中央市」として発足することになります。
 現在も、この奇抜なネーミングに対してはいろいろな意見があるようですが、一方で「しこちゅう」という愛称?は、年月とともに一定の定着を見せているようです。
 Wikipedia には、

地元の若者の間では、市名を略し、自分が四国の中心であるという自己中心的思考に対する自虐を込めて「しこちゅう」と呼ぶ者も多い。

と書いてありますが、もしこれが本当なら、ちょっと複雑な感じですね。自虐を込めて呼ぶとは・・・。

 しかし、「宇摩」という名前は今もこの地にちらほら名残はあって、

JAうま

上の「JAうま」とか、

うま給油所

また上の「うま給油所」という名前に残っているのを、見ることができます。

 ということで、年末の小さな寄り道のご報告でした。