うしろよりにらむものあり

 賢治は、盛岡中学2年の時に半年だけ英語を習った青柳亮という先生のことを、なぜか後年になってもよく憶えていて、「小岩井農場(下書稿)」の余白には、「岩手山に関する追懐/青柳教諭」などという書き込みがなされていますし、晩年に文語詩「〔瘠せて青めるなが頬は〕」の題材ともしています。
 なぜ賢治が、表面的には縁の薄かった青柳先生のことを印象深く追懐していたのかということは、今もって不思議な「なぞ」で、ひょっとして二人は後に再会する機会があったのではないか、という仮説も魅力を帯びてくる所以です。
 師弟の再会の有無はともかく、結局「小岩井農場(下書稿)」の書き込みも「〔瘠せて青めるなが頬は〕」の内容も、中学2年の時にこの先生と一緒に岩手山に登った体験に基づいているわけですから、少なくとも賢治がこの岩手山行きの記憶を後々まで鮮明に憶えていたという事実は、疑いようがありません。

 この明治43年9月の岩手山登山と言えば、賢治は5首の短歌を残しています。

75 風さむき岩手のやまにわれらいま校歌をうたふ先生もうたふ

76 いたゞきの焼石を這ふ雲ありてわれらいま立つ西火口原

77 石投げば雨ふるといふうみの面はあまりに青くかなしかりけり

78 泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんみづうみの青の見るにたへねば

79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

 最後の、「うしろよりにらむものあり・・・」の歌は、その特異な感覚のために、賢治の初期の短歌の中でも取り上げられることの多いものです。佐藤通雅氏は、『賢治短歌へ』(洋々社)において、次のように述べておられます。

 最後の79「うしろよりにらむものあり―」には、注目しておきたい。火口湖の青がうしろから自分をにらんでいる気がする、それほどの畏怖をおぼえる―とうたっている。そう意識しているのは、いうまでもなく賢治自身だから、その意味ではやはり一人称文学の枠内にある。しかし、77や78と対比させつつみれば、作者の意識の域からはみだしてしまうなにかを感じざるをえない。「かなし」などという感傷をしりぞけんばかりに、畏怖感がおしよせはじめているからだ。べつにいえば、意識のいとまもないほどに、湖の青が能動的に動きはじめている。作者がいて、対象があるという一人称文学の約束事が、ここにきて転倒しようとしている。
 この転倒が、文学的策略・修辞・技法となるのは、前衛短歌以降である。賢治の場合は、まったくの無意識の産物だ。その無意識がどのようにして生じたのか、もういちど75から79へとよみかえしてみると、はじめの段階では作者がいて、岩手山や雲・西火口原・湖などの対象を目の前にしている。しかし77の「あまりに青くかなしかりけり」、78の「みずうみの青の見るにたえねば」を頂点として、主役は湖自身へと移ってしまう。つまり賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消えてしまう(p.83)。

 佐藤通雅氏はこの著作において、短歌という文学形式が「一人称形式を基本とする」という前提から出発し、しかし賢治の独特の資質・感性は徐々にその一人称形式の枠におさまらずはみだしていったことから、ついに20代半ばで「短歌の終焉」に至った軌跡を、克明にあとづけています。
 そのような目で見ると、思春期の賢治が手にした短歌という形式を、後に自ら脱ぎ捨ててしまうことになる要因は、この14歳にしてすでに内部に胚胎されていたということになります。

 さて、岩手山に登った賢治が、なぜそれほどまでに火口湖の青に対して強い畏怖感をいだいたのかという経緯は、文語詩「〔瘠せて青めるなが頬は〕」の推敲過程を見ると、明らかになります。
 すなわち、この作品の「下書稿(一)手入れ」には、次のような一節があります。

ともよ昨日かの秘め沼に
石撃ちしなれはつみびと
わびませる師にさきだちて
そのわらひいとなめげなり

 「とも」とは一緒に岩手山に登った生徒、「秘め沼」とは火口湖のことですが、「石撃ちし」というのは、その生徒が火口湖に石を投げ込んだということだったようです。そしてその行動が意味するところは、上の短歌の77にあるように、この湖は「石投げば雨ふるといふうみ」だという言い伝えがあったところに、いたずら盛りの生徒が面白がって石を投げたというわけです。
 文語詩の次の行にある「わびませる師」とは、生徒のこのような神をも恐れぬ行動を受けて、青柳先生が湖の神?に対し、詫びの言葉を述べたということだろうと思われます。

 しかし結局やはり言い伝えのとおり、翌日の一行は雨にたたられたので、文語詩の背景には一貫して、「九月の雨」が降っているのです。

◇          ◇

 一方、天沢退二郎氏は、「宮澤賢治の<宗教>の核心」(法蔵館『宮澤賢治の深層』所収)という論考の冒頭で、氏が賢治の宗教性の核心と考えるものについて、次のように述べています。

 物心つくかつかぬかの時から経文を暗誦して、中学初級で『歎異抄』を座右の書とし、その後法華経に入れ込み、キリスト教にも関心と接近を試みた詩人にとって、しかし<宗教>なるものの核心は何かと考えてみると、ひとつ、もっと基本的な原点に、<土地の精霊>という観念が起因していると思われることについて書く。
 <土地の精霊>という語は、とりあえずラテン語の<Genius Loci>の訳語であるが、私が宮澤賢治に引きつけてこれを用いるのは、
 一、詩人は土地の精霊である。
 二、土地にはそれを守る地霊、守護神というものがある。
という二つの含意による。ただし、この二つの含意は決して同じものではなく、むしろ別々の項目に属するというべきであり、賢治自身の意識の対象そのものでもないことを留意しなければならない。言いかえれば、
 一、賢治は自分が<土地の精霊>だと思っていたわけではない。
 二、賢治は自分が、土地の<守護神>などと思っていたわけではない。
ということ。それでいて、賢治作品あるいは賢治テクストは、
 一、いたるところ<土地の精霊>が遍在しており、
 二、いたるところで、賢治の仕事もテクストも、<土地の精霊>との交感、深い霊的交通(コミュニケーション)に由来しているのであって、それこそが、≪宮澤賢治≫における<宗教>の核心の所在を示唆している。

 これはたしかに、賢治のほとんどの作品の基底に潜んでいる本質を、適確に言い当ててくれているように感じます。さまざまな宗教の教義や思想にも造詣の深かった賢治の作品を理解するには、個別の宗教の知識が要求される面もありますが、それらの奥にあってすべての土台をなしているのは、いわば宗教が分化する以前の、自然への畏怖の感情、「霊性」や「聖性」への感覚、あるいはアニミズム的な心性なのだと思います。
 そして、賢治がこの14歳の秋の岩手山登山において、「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」と詠んだこの短歌こそが、天沢氏の言うような<土地の精霊>が、彼の作品の中にはっきりと姿を現わした、最初の例なのではないかと私は思うのです。

 周知のように、賢治は幼い頃から濃密な宗教的雰囲気の中で育ってきましたし、その深い信仰心を物語るエピソードも数多くあります。また、中学に入って作りはじめた短歌には、この「うしろよりにらむものあり」以前にも、独特の超現実的感覚を表しているものも、いくつかあります。しかし彼が、超自然的な存在とそれが発する力について、このように具体的に述べている例は、これ以前には見られません。
 俗世を離れた岩手山山頂近くの神秘的な湖において、生徒の一人が禁忌を破る行為を犯した時、幼少期から信心深かった賢治は、強い畏れの感覚を抱いたに違いありません。するとその時、引率の若い先生は適確にも、湖の精霊に対して神妙に詫びの言葉を述べてくれたのです。無神経な同級生の行動と対照的に、それは賢治の心性にぴたりと添うものだったのでしょう。
 後年の賢治が、青柳亮氏の瘠せた頬の様子を回想して「聖く」と形容した背景には、先生のこのような敬虔さのイメージがあったはずです。

 つまり、後の賢治が、『春と修羅』や『注文の多い料理店』によって、<土地の精霊>との奔放とも言えるほど豊饒な交感を綴るようになっていったその淵源において、青柳亮という若い教師が、少年の萌芽的な体験に立ち会い、介添えのような役割を果たしてくれていたとも言えるのです。そのような事情が、彼をして青柳先生のことを、後々まで忘れがたい大人の一人にしたのではないでしょうか。
 大人になってからの賢治にとっても、これは自らの「アドレッセンス中葉」における貴重な出来事だったのだろうと思います。

◇          ◇

 先に引用した佐藤通雅氏が指摘するように、これは賢治の文学表現的な、そしてその土台となる認識論的な特性に関わるポイントであり、後に引用した天沢退二郎氏が指摘するように、賢治の宗教的な特性に関わるポイントでもあります。
 この二つが重なり合っているというまさにそのことが、宮澤賢治という人の精神を理解するための大事な鍵になるのではないかというのが、このところ私の関心の在り処なのですが、それを論じるにはまだまだこれから勉強をする必要がありそうです。

明治43年9月25日岩手山登山記念写真
明治43年9月25日岩手山登山記念写真
(『新校本全集』第16巻下より)