旧制の帝国大学には、「本科」と「選科」という区別があって、「本科」に入れるのは(旧制)高等学校の卒業者だけで、それ以外のコースを進んできた者は、たとえどんなに学力があっても、「選科」に入るしかなかったのだそうです。
後年有名になる人でも、例えば新渡戸稲造は東京外国語学校および札幌農学校の出身だったために、東京大学選科に入学(のち退学)し、西田幾多郎は第四高等中学校をを中退していたため、帝国大学文科大学哲学科選科に入学し修了しています。本科生と選科生の間には、待遇にかなりの格差があったらしく、選科生は図書館でも室内に入れず、廊下で読書をする屈辱を味わったと、西田幾多郎は書き残しています。
しかし、何人かの選科生の経歴を見ていると、彼らは恵まれたいわゆる「エリート」ではなかったかもしれませんが、たとえまわり道をしてでも何とかして学問を修めようとする、熱い向学心に燃えた人が多かったのではないかという印象も受けるのです。
賢治の周囲にも、帝国大学の「選科」に進んだ人がありました。
一人は、盛岡高等農林学校の同級生で寮も同室、とりわけ1年生の頃は互いに最大の親友だった、高橋秀松です。賢治と秀松はあちこちの山野をともに歩き、多くの書簡もかわしましたし、二人だけに通じる暗号文字を決めていたことも知られています。
この高橋秀松は、盛岡高等農林学校を卒業後、茨城県立農業教育養成所兼農学校の教諭を務めましたが、1920年(大正9年)に京都帝国大学経済学部選科に入学し、1923年(大正12年)に卒業しています。
つまり、賢治が1921年(大正10年)4月に父親と京都に来た時には、高橋秀松も京都で生活していたわけですが、そのような偶然はお互いに知らなかったことでしょう。しかし、ひょっとしたらどこか京都の街角でニアミスをしていた可能性も、なくはないのですね。
その後の高橋秀松は、しばらく会社員をしてから故郷の農協役員を務めた後、宮城県名取町と初代名取市長にもなっています。
下の写真は、国会図書館近代デジタルライブラリーより、『京都帝国大学一覧 大正9-10』より、高橋秀松の名前の出ているところです(「大正九年入学」の下段右から6人目)。
それからもう一人は、先日の宮沢賢治学会総会における講演で島田隆輔さんが紹介しておられた、青柳亮氏です。この人は、賢治が盛岡中学校時代に半年だけ英語の教師をした後、兵役についたり他の学校の先生をしていましたが、1916年(大正5年)に京都帝国大学法科大学政治経済学科の選科に入学しています。
賢治にとっては、半年習っただけの先生だったのですが、なぜか後年までとても印象深く憶えていたようで、中学生時代に短歌に詠んでいるのはもとより、「小岩井農場(下書稿)」には、「岩手山に関する追懐/青柳教諭」との書き込みがあります。さらに、晩年の文語詩「〔瘠せて青めるなが頬は〕」は、この青柳先生と一緒に岩手山に登った時の思い出に基づいています。
下の写真(『京都帝国大学一覧 大正5-6』)では、青柳亮の名前は「第一學年」の上から3段目、右から3人目にあります。
ところで、これもまた高橋秀松の場合のように面白い偶然なのですが、青柳亮氏が京都にいた時期の近辺に、賢治はやはり京都に来ているのです。1916年(大正5年)3月に、賢治たち一行は盛岡高等農林学校の修学旅行で、京都に2~3日滞在しました。もしもこの時に、賢治と青柳亮氏が5年半ぶりに面会をしておれば、賢治が後年になってもこの先生の記憶をしっかりと心に刻んでいたのも当然のことで、島田隆輔さんは先日の講演の中で、その可能性についても触れておられました。
青柳亮氏は、それに先立つ1912年(大正元年)から京都府立第二中学校の教諭として京都に着任していたということですから、もしもその任期が京都帝国大学選科入学まで続いていたとすれば、賢治が京都に来た1916年(大正5年)3月にも青柳氏は京都に在住していたことになり、師弟の再会もかなり現実味を帯びてきます。そこで島田さんは、青柳氏の京都府立二中勤務がいつまでだったかということを調べようと、旧制二中の後身である現在の京都府立鳥羽高校に問い合わせの手紙を出してみたものの、何も返事はもらえなかったとのことでした。
私も京都在住の身ですので、府立資料館などで何か調べられないかと思い、まず島田さんも引用しておられた小沢俊郎氏の論考「秋風に聖く」を、あらためて読んでみました。するとそこには、青柳亮氏は京都府立二中の勤務は1年だけで、1913年(大正2年)8月からは台湾の台北中学校に転任したということが、すでに書いてあったのです。それは、小沢氏が調べた京都府立二中職員名簿と、青柳亮氏の妻が送ってくれた青柳亮自筆履歴書に記されているということでした。
そうなると、青柳亮氏が京都帝国大学選科に入学する1916年(大正5年)9月の半年前である、3月に京都にいたかどうかということについては、現時点では何とも言えないことになってしまうわけですね。
残念ながら、賢治と青柳亮先生の面会の可能性は、まだ秋雨のけぶりの彼方にあるようです。
瘠せて青めるなが頬は
九月の雨に聖くして
一すじ遠きこのみちを
草穂のけぶりはてもなし
かぐら川
ごぶさたしています。いつもながらの緻密な考察に、拝読しながらいろんなことが頭をかすめました。
一つは小沢俊郎氏の論考です。小沢さんの対象に向かう熱い心と対象に向けるサッハリッヒな眼のことを思い出しました。とりわけ青柳先生をめぐる論考はとても印象深いもので、読んだ時の感激がよみがえってきました。もう一つは、「選科」についてです。「選科」というと引き合いに出されるのがいつも幾太郎さんで、マイナスイメージが貼りつけられてられていますが、hamagakiさんがおっしゃっているように、多くの学徒に門戸をひらいた「選科」という制度のこともっと調べてみたいと思っていたところです。陸羽一三二号の育ての親で岩手県立農事試験場にいた賢治と同学齢で稲塚権次郎は農科大学の「実科」でしたが、この「選科」と「実科」の違いも気になるところです。
思いつくままの落書きで恐縮です。
hamagaki
かぐら川さま、お久しぶりです。またお話が聴けて幸甚です。
昔の教育制度は今から見たら複雑で、調べてみてもなかなか簡単にはピンと来ませんが、「本科」と「選科」の区別というのは、やはり戦前の教育のエリート主義的な側面を象徴しているのでしょうね。
賢治の周囲にも、阿部孝や金田一他人のように、エリート街道をまっすぐに進んでいった人とともに、こういう苦学して自分の道を切り拓いていった人々もあったようです。
賢治は後者のようなタイプに共感を抱いていたようで、若い頃の青柳先生の姿勢などに惹かれていたところもあったのかもしれません。
そして、この青柳先生の跡を尋ねようとする小沢俊郎さんの論考は、ご指摘のようにスリリングで、調査が進むうちに驚くべきどんでん返しも明らかになるという、素晴らしいものですね。
今後とも、よろしくお願いします。
かぐら川
有り難うございます。そして、すみません。
「幾太郎」は、「幾多郎」の誤変換です。
うなむ
賢治学会総会では島田さんのお話を聞いてその場で少しコメントをさせていただきました。小沢俊郎さんがすでにお調べになっていたのですね。もう30年以上前に若くして亡くなられた小沢さんがもっと長命ならば(まだ関係者もそれなりに在世だった時期だけに)、そのあたりの状況を探っていただけたかもしれないと思うと、何とも惜しいと感じます。
島田隆輔
はじめまして、島田です。過ちのご指摘感謝です。小沢先生の論考、何度も読み返していたはずですが、思い込みが強かったのです。ここにきて読み過ごしていました。ちょうど今、無罫用紙起稿の未定稿を読んでいるところで、たいへんな間違いをおかすところでした。京都での遭遇はなかった、ということになると、私には、詩人の青柳亮への執着について「なぞ」が深まるばかりです。それにしても、ほんとうにありがとうございました。
hamagaki
うなむ様、島田隆輔様、書き込みをありがとうございます。
小沢俊郎氏の論考は昔読んでいたはずだったのですが、今回あらためて読んでみて、その誠実で真摯な筆致に感動しました。
賢治が、青柳亮という半年習っただけの若い先生のことを、なぜ後年まで深く記憶にとどめていたのかということは、ご指摘のように不思議な「なぞ」ですね。寂しげな文語詩ともあいまって、この先生をとりまくそのあたりの独特の雰囲気が、小沢氏をも詳細な調査に駆り立てたのかもしれません。
私として印象的なのは、この岩手山登山の折に、「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり。」という有名な短歌が作られていることです。
今日はこれについて考えていたら、新たなブログ記事になってしまいました。
ところで、賢治が短歌で「われらいま校歌をうたふ先生もうたふ」と詠んだ盛岡中学校の「校歌」とは、現在も盛岡第一高校の校歌として歌われている、あの「軍艦マーチ」のメロディーの歌なんですね。私はある方のご教示によって知りました。
少年賢治や仲間と、若い青柳先生が、「秀麗高き巌手山」の頂きでこのバンカラな歌を高歌放吟している様を想像すると、なんか微笑ましくなります。
http://www.youtube.com/watch?v=f87z4PBRk_o