どこ迄でも一諸に落ちやうとした

 短篇「イギリス海岸」に、次のような一文があります。

 実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 以前に私は、「死ぬことの向ふ側まで」という記事において、これは表面的には賢治が教え子たちのために思っていたことでもあるのだろうが、実は心の底で、死に近い妹に対して考えつづけていた気持ちが、思わずあふれて出たものではないかと書きました。
 それはやはりそうではないかと今も思うのですが、もう一つ、賢治の最初期の童話である「双子の星」にも、次のような箇所があったことに気がつきました。チュンセ童子とポウセ童子という双子の星が、彗星(ほうきぼし)に騙されて、天上から海の底へと落ちてしまう場面です。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 双子の星の名前である「チュンセ」と「ポウセ」は、後の「手紙 四」においては、明らかに賢治とトシの投影と思しき、兄「チユンセ」と妹「ポーセ」として登場します。したがって賢治が「双子の星」において、「この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いていることは、やはり彼が妹に対して抱いていたであろう思い=「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」ということと、何かの関係があるのではないかと考えざるをえません。

 となると、賢治が「双子の星」のこの箇所を書いたのがいつだったのか、と言うことが問題になります。
 従来から、「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」「貝の火」という三つの童話は、彼の最初期のものと考えられてきました。清六氏による「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』所収)には、次のような回想があります。

 大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り・・・(中略)
 この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりとおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄の姿が見えるようである。

 この記述に従えば、「双子の星」が初めて書かれたのは1918年(大正7年)夏までさかのぼることになりますが、この時期には、トシはまだ日本女子大の学生で、病に倒れてはいません。健康な妹に対して、「どこ迄でも一諸に落ちやう」というのは、ちょっと理解しがたいことです。
 しかし、賢治の他の作品と同じく、「双子の星」もある日急に生まれたわけではないはずです。天沢退二郎氏は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』の解説において、上の清六氏の記述に関連して、次のように述べておられます。

 ここで引かれている清六氏の記憶は信頼できるように思われるが、ただし、このとき清六氏らが読みきかせられたのは、今日私たちが読んでいるテクストと全く同じものだったのではなくて、その先駆段階、下書稿段階であり、細部などいろいろ異同があったものと推定される。賢治の詩や童話の顕著な特質である著しい推敲や改稿の跡は、それらの作品が第一次稿から二次稿三次稿へ、あるいは下書稿(一)から(二)へ、(三)へ・・・・・・の絶えざる変化・転生の過程として在ったことを示している。したがって、「蜘蛛となめくぢと狸」にしてもその現存稿第一形態の成立は右の清六氏の記憶より数年後、一九二一、二年頃かと考えられる。

 ということで、1921~1922年頃となると、トシが死の床に就いていた時期と重なってくるのです。
 より具体的には、中地文氏による『宮沢賢治の全童話を読む』(學燈社)における「双子の星」の解説によれば、次のようになります。

 では、現存稿の成立時期はいつ頃なのか。これについては原稿用紙の種類から大正十年頃かと考えられよう。しかし、草下英明(『宮沢賢治と星』学芸書林)の指摘するように、蠍座の心臓部に位置する一等星アンタレスを「蠍の眼」「赤眼」と捉える発想が吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』の影響を受けて生まれたのであれば、大正十一年九月の同書刊行以後ということになる。

 この吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』という本には、上記の「蠍の眼」という発想だけでなく、「アルビレオのトパーズとサファイア」「昴の鎖」など他にも賢治作品に見られる表現の登場していることが草下英明氏によって指摘されており、また恩田逸夫氏も「水仙月の四日」に出てくるカシオペアと水仙の組み合わせの共通性について述べていて、確かに賢治が読んでいた可能性は非常に高いと感じられるものです。
 となると、この本が刊行されたのが1922年(大正11年)9月、短篇「イギリス海岸」が書かれたと推定されるのは1922年8月、トシの死は1922年11月ということで、時期がだいたいそろってきます。

 すなわち私としては、賢治が童話「双子の星」に、「双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いたのは1922年9月以降で、やはりトシの死が目の前に現実として迫ってきていた頃なのではないかと、推測するのです。