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第3回 花園農村の碑 碑前祭

 去る10月17日、山梨県韮崎市で行われた「第3回 花園農村の碑 碑前祭」に参加してきました。
 賢治の生涯最高の友人であった保阪嘉内の出身地、山梨県北巨摩郡駒井村―現在の韮崎市藤井町を、私は3年前の11月にも一度訪ねたことがありました。この時は、前月に除幕されて間もない「花園農村の碑」を見学するとともに、嘉内の関連地を訪ねるツアーにも参加し、周囲をめぐる美しい山々とともに甲州の秋を堪能したのでした(「保阪嘉内の故郷を訪ねて(1)」「保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)」参照)。
 今回は、それ以来3年ぶりの再訪で、碑前祭も「第3回」になっています。

 16日(土)の夜遅くに甲府に到着して1泊し、翌日の午前は「山梨県立文学館」で開かれていた「井伏鱒二と飯田龍太 往復書簡 その四十年」展を見学しました。親子ほども年の離れた二人の文学者の、師弟愛というのとも異なった独特の信頼と尊敬のあふれる交友の、一コマ一コマが印象的でした。
 お昼ごはんは、甲州名物の「ほうとう」。小麦粉でできた超極太の「きしめん」的なものを、野菜たっぷりの味噌味のだしで煮込んだものです。ボリュームもあって深い味。

ほうとう

 それから、嘉内の生家にも近い「東京エレクトロン韮崎文化ホール」に向かいました。このホールの前庭に、「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」が建てられていて、そこで「碑前祭」が行われるのです。
 私たちが到着すると、もう会場の準備は整い、すでに加倉井さんや中野さんもはるばる来ておられました。「アザリア記念会」事務局長の向山さんが、甲府中学生の保阪嘉内を模した学生服を着て、迎えて下さいました。新村さんも、暖かいお言葉をかけて下さいました。

 まるで3年前にタイムスリップしたかのような懐かしさでしたが、当時植樹された小岩井農場の「銀どろの木」の成長が、現実に経過した歳月を物語ってくれていました。
 下の写真が、3年前の銀どろ。

銀どろの木2007

 そして下の写真が、今回の銀どろ。

銀どろの木2010

 指くらいの太さだった幹がこんなに立派になり、葉もたくさん茂らせていました。賢治の父の政次郎氏が息子の死後に回想して、「賢治は早死することを悟っていたためか、こうした早く大きくなる木を植えるのが好きだったもなさ」と、森荘已池氏に語ったという言葉を思い出します。

 銀河鉄道をかたどり、嘉内の言葉と賢治の言葉を連結した「花園農村の碑」は、変わらず黒光りして健在でした。

碑前祭会場

 碑前祭では、向山さんの司会のもと、「アザリア記念会」の清水会長や、韮崎市の副市長さんらの挨拶の後、「韮崎市民合唱団」による歌が披露されました。曲目は、嘉内の「アザレア」「藤井青年団団歌」、そして賢治の「星めぐりの歌」。

韮崎市民合唱団

◇          ◇

 碑前祭が30分ほどで終わると、会場を屋内に移して、盛岡大学の望月善次さんの記念講演です。
 先生のお話は、いつも自由闊達とした雰囲気に溢れ、賢治の人となりや作品に、新鮮な光を当てて下さる感じです。自らも短歌創作をされ、石川啄木の研究でも高名な先生は、限られた時間の中で、賢治と嘉内の短歌を具体的に挙げながら、特に嘉内の短歌の魅力について紹介して下さいました。
 今回、特に私の印象に残った望月さんのお言葉。

  • 「アザリア」時代の賢治は、とりたてて特別な存在ではなかった。4人を中心とした仲間が切磋琢磨しあい、賢治にとっても貴重な経験となった。
  • 賢治が生涯において「文学的自立」を図ろうとした重要なポイント、それは家出上京中に関徳弥に、「私は書いたものを売らうと折角してゐます」と書き送った時点である。
  • 賢治は、生涯において何度も挫折を経験するそのたびに成長していった。
  • (会場から、「現代においてなぜ賢治がこんなに人気があるのか」との質問に答えて) いろいろな見方はあろうが、一つは「多面的だから」。

 講演が終わると午後4時、帰りの電車に遅れそうになり、後ろ髪を引かれながら会場を後にしました。
 そうそう、最後に階段を降りる手前で、いつもお世話になっている signaless さんにお声をかけていただき、念願の対面をすることができました。

 韮崎は3年ぶりで、まだたった2回目の訪問にもかかわらず、まるで何度も来ている場所のように心もなごみ、温かい雰囲気にひたることができました。

 「アザリア記念会」の皆様、裏方の皆様、今回もお世話になりましてありがとうございました。

「保阪嘉内の歌曲とDTM(1)」