アグニ神との再会

 1916年(大正5年)4月13日、盛岡高等農林学校の「自啓寮」に、新入生の保阪嘉内が入寮しました。室長は、2年の宮澤賢治。自己紹介で嘉内が「トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知り、それに浸ろうと思った」と述べたのに対し、賢治は「トルストイに打込んで進学したのは珍しい」と評したといいます。
 この後、短歌創作に熱心だった二人が親しくなっていったのは自然なことだったでしょう。4月22日には、賢治と嘉内は石川啄木に思いをはせるために、二人で盛岡中学のバルコニーに立っています。

 そして5月20日には、寮全体の懇親会が行われました。この時、各部屋ごとに何か余興をやることになっていて、賢治たちの「第九室」は、なんと新入生の嘉内が書いた脚本をもとに、劇を上演したのです。主演、演出も嘉内がつとめたのですが、入寮から1ヵ月と少しでこの活躍とは、嘉内の積極的な性格を存分に示しています。
 劇の題名は、「人間のもだえ」。そのあらすじは、「全能の神アグニ」「全智の神ダークネス」「恵の神スター」のもとに3人の人間が現れ、それぞれの悩みや弱さを訴え、互いを羨んでばかりいるのに対し、神たちは「お前たちは土の化物だ」「人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ」と教え、農業こそが「永遠の国」への道であることを教える、というものです。
 単純ですが明快な主張で、まさに農林学校の学生の演し物にふさわしいと言えるでしょう。登場人物の一人は人間の「女」で、もちろん男子学生が女装して演じましたから、その辺には観客の笑いをとる仕掛けもちゃんとしてあったというわけです。
 ちなみに、脚本冒頭の嘉内と賢治の扮装を記した部分を、ここに引用しておきます。

□全能の神(アグニ) 頭赤毛旋回す。赤色ギリシア服。赤色シャツ。口に墨にて大きく隈取る。笞と松明とを持つ、赤顔。              (保阪)
□全智の神(ダークネス) 地頭、顔真黒、体全部黒、目のまわり銀隈。服黒色。望遠鏡と厚き洋書とを持つ                     (宮沢氏)

 首席入学して、前年に続きこの年も特待生だった秀才・賢治が「全智の神」をやるのはぴったりという感じですが、入学早々自分に「全能の神」の役を割り当てた嘉内も、相当な肝っ玉ですね。

 ここで、嘉内が名付けた神様の名前がちょっと不思議なのですが、「全智の神ダークネス」「恵の神スター」は、ごく簡単な英語の名前であるのに対して、自分が演じる「全能の神」だけは、「アグニ」という聞き慣れない名前にしてあります。
火の神「アグニ」(18世紀細密画より) 調べてみると「アグニ」とは、インドの古代神話『リグ・ヴェーダ』にも現れ、その後ヒンズー教に取り入れられた「火の神」だということです(Wikipedia参照:右写真も同頁より引用)。嘉内がなぜここに全能の神としてインドの「アグニ」を持ってきたのかはよくわかりませんが、その扮装が上記のように真っ赤であることを見ると、やはり「火の神」としてイメージしていたのでしょう。熱血漢だった嘉内のキャラクターには、火の神はぴったりですが。
 それに、劇の最後で「アグニ」は手にしている松明で人間たちが「永遠の国」へと向かう行く手を照らしてやるのですが、これは翌年の7月に賢治と嘉内が一緒に夜の岩手山に登った際、消えそうな松明の火を二人で吹きつつ、将来を誓い合ったというエピソードにもつながる感じで面白いです。

 それにしても、賢治が顔を真っ黒に塗って、目のまわりに銀の隈取りをしているところも、ぜひ見てみたかったものですね。

 下の有名な写真は、自啓寮「第九室」の面々が、「人間のもだえ」を上演して1週間後の5月27日に、盛岡高等農林学校の植物園で写したものです。劇も好評を博して互いの絆も深まり、一つここは同室の仲間で、記念写真でも撮っておこうということになったのでしょうか。
 手前で大胆に腹ばいになっているのが保阪嘉内(全能の神アグニ)、後列中央が宮澤賢治(全智の神ダークネス)、右端が岩田元兄(恵の神スター)、右から二人目が伊藤彰造(土人)、左端が萩原弥六(英雄)、左から二人目が原戸藤一(女)を、それぞれ演じました。

盛岡高等農林学校植物園にて
植物園における寮友の記念写真(『新校本宮澤賢治全集第十六巻上』(筑摩書房)より)

◇          ◇

 さて時は変わって、1921年(大正10年)。この年の1月に賢治は家出をして、8月か9月頃まで東京で一人暮らしをするのですが、7月13日の関徳弥あての手紙には、「私は書いたものを売らうと折角してゐます」との言葉が出てきます。先日の韮崎における望月善次さんの講演では、賢治の「文学的自立」への志向を示す重要なポイントとされていました。
 この時、賢治が「書いたもの」を売ろうとしていた先はどこだったのか、確定的な史料は残っていませんが、鈴木三重吉が1918年(大正7年)に創刊した童話雑誌『赤い鳥』が、その重要な目標だったのではないかという説が有力です。
 例えば恩田逸夫氏は、次のように書いています(「宮沢賢治の童話文学制作の基底」)。

 賢治は中央文壇と関係があったわけではないから、彼の童話制作開始の時期と赤い鳥の創刊とは偶然に軌を同じくしているにすぎぬかもしれない。しかし、賢治がそれ以前から外国の童話などに関心を持っていたことは考え得ることであるし、『赤い鳥』発刊によって創作意欲にまで高められたことは想像できるのである。賢治の童話多産の年が、大正十年の上京の時とされているが、この際には『赤い鳥』の運動は明らかに彼の注目するところとなっていたであろう。多かれ少なかれその影響下にあったことは想像にかたくない。

 あるいは野口存弥氏は、「編集サイドからみた大正児童文学(7) 宮沢賢治の童話」において・・・。

 大正七年半ばに突然、自然発生的に書き始めたというようなことはあるはずがないとみなければならない。すでに触れたとおり、『赤い鳥』創刊号は大正七年六月下旬に発売され、書店に並べられた。恐らく賢治は創刊号を読み、とくに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」から深い示唆を受けたのではないかと推定される。

 また最近では井上寿彦氏が『賢治、『赤い鳥』への挑戦』において、賢治の初期の童話にはかなり長編のものと原稿用紙10枚程度に短いものが混在しており、またルビが振ってあるものとないものも混在しており、短くてルビの付いている作品は、『赤い鳥』の「募集創作童話」に応募することを念頭に書かれたものではないかと推測しておられます。

 ということで、賢治が東京にいた1921年(大正10年)の『赤い鳥』を見てみると、一月号と二月号にわたって、芥川龍之介の「アグニの神」という童話が連載されているのです!
 上海を舞台にインド人の老婆などが出てくる伝奇的な物語ですが、そのテキストは青空文庫で読めますので、よろしければご参照下さい。

 つまりこういうことです。東京に出て童話を書いていた賢治は、『赤い鳥』の誌上で久しぶりに「アグニの神」に再会していた可能性が非常に高いと思われるのです。野口存弥氏の推測のように、創刊号で芥川龍之介に示唆を受けていたのなら、なおさらです。
 5年前に自分も一緒に、生まれて初めて演じた劇、そこで親友の嘉内が演じていた「アグニの神」。思わずも懐かしい名前に遭遇して、賢治はどんな思いでこの芥川の小篇を読んだのでしょうか。私には、とても興味深く感じられます。

 そして、そのまたしばらく後、賢治はその「火のような」男、保阪嘉内にも久しぶりに会い、それが生涯で最後の面会になるのです。