朝早い新幹線に乗って、車内ではウトウトしたりしながら、ふと左手の窓を見ると富士山が姿を現していました。これから、あの山の向こう側に行くのです。
東京で中央線に乗り換え、新宿から「スーパーあずさ」に乗って約1時間半、昼すぎに甲府に着きました。駅ビルで食事をとると、「山梨県立文学館」(下写真)で行われている「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通」という企画展と、その関連行事の講演会を聴きに行きました。
着いたらすぐ講演会で、まず保阪嘉内の次男である保阪庸夫氏が、「『宮沢賢治 友への手紙』こぼれ話」と題して、お話をされました。
保阪庸夫氏は、今年もう80歳でいらっしゃいますが、ほんとうに軽妙洒脱でそれでいて凛とした雰囲気も感じさせる、素敵な紳士です。
庸夫氏が8歳の頃に亡くなられたという父・嘉内に関する、近親ならではのお話も興味深かったのですが、1968年に庸夫氏が編集者の一人となって刊行され、当時の賢治研究に大きなインパクトを与えた『宮沢賢治 友への手紙』(筑摩書房)が、世に出るまでのちょっとした厄介ないきさつ(=こぼれ話)が、この講演の副題たる「40年の沈黙を破って」という言葉の、真に意味するところでした。
1963年、保阪庸夫氏は大学で基礎医学の研究をしておられましたが、母(=故・嘉内の妻さかゑ)からの手紙で、保阪家に保存されていた賢治から嘉内宛の手紙を、世間が「発掘」しようとする状況が迫ってきていることを、知らされたのだそうです。そこで庸夫氏は、当時携わっていた研究(中枢神経系の解剖学)への未練や、期待してくれている先輩への申し訳なさ、家族の気持ち等に悩まれたそうですが、しかしここは自分が責任を持って貴重な「手紙」の扱いに対処しなければならないと考え、後ろ髪を引かれながら研究の道をあきらめ、郷里に帰ったのだそうです。
当時の庸夫氏は、嘉内が残した手紙を何らかの形で出版しようと考えられたそうですが、そこで明らかになったのが、手紙の「著作権」の問題でした。
手紙自体は、宮澤賢治自身から保阪嘉内に「贈呈」された物ですから、その「所有権」は、もちろん保阪嘉内に、その死後は嘉内の遺族に帰します。しかし、その書かれた内容の「著作権」となると、まずは書いた本人の賢治、その死後は「賢治の遺族」にあるということなのです。
ある日保阪家に、賢治の著作権の継承者である弟・清六氏と、筑摩書房の「重役」が訪ねてこられ、上記のように手紙の著作権は宮澤家側にあるため、これを無断で出版することは罷り成らぬと告げられたのだそうです。
これは、もちろん法律的には正当な主張なのですが、さらにそれに加えて(誰が言ったのかは明言されませんでしたが)、「賢治の手紙という貴重な文化遺産を、長期にわたって保阪家が『隠匿』していたとは、手紙の価値に対する『侵害行為』である」、そして「今後は手紙の保存は、保阪家で行うよりも、専門家のある宮澤家側の方がふさわしい」とまで言われたのだそうです。
このような状況において、保阪家の人々はそれぞれ冷静に対応され、結局は「筑摩書房」から、「保阪庸夫・小澤俊郎 共編著」という形で本は出版されました。しかし、庸夫氏は上記のような顛末を体験しつつ、ひそかに「文明の横暴」と同種のものを感じていたということを、今回はじめて語られました。
この「文明の横暴」というのは、コロンブスでも、ナポレオンでも、ヘディンでもそうですが、「未開」の地で文化財を「発掘」した「文明人」は、その文化財を「保護」するという名目で、現地から持ち帰り、自国で所蔵して陳列したり研究したりした、ということを指しています。
ただ、問題の「手紙」は、その後も所有権が移ることはなく、嘉内の長男である善三氏と、次男庸夫氏が大切に所有管理されながら、現在に至っています。今回の企画展でその73通の実物を目にすると、80~90年にもわたって、非常によい保存状態にあったことが実感されます。
現在、とっくに死後50年がたって著作権の切れた賢治の創作物に関しては、今はむしろ「商標権」などが議論の対象となっていますが、庸夫氏が今回あえて40年の歳月を経て呈示して下さった問題は、私どものような単なる「賢治愛好家」にすぎない者も、安閑として無縁ではいられないような、そんな未来に向けた課題をも含んでいると感じました。
さて、講演のお二人目の三神敬子氏は、現在は山梨学院短期大学の学長ですが、上記の『宮沢賢治 友への手紙』の出版に際しても、共同作業を分担されたということです。三神氏は、「宮沢賢治・保阪嘉内 青春の映像」と題して、文学研究の視点とともに、日ごろ若い学生を教えておられる立場から、「青年期の発達課題」を、いかにして賢治や嘉内が克服していったか(あるいは克服できなかったか)という問題について、丁寧にわかりやすくお話して下さいました。
とても情感のこもった講演で、賢治が岩手中学卒業後の入院中に初恋をしたというエピソードを紹介する時など、まるで我が子の幸せを喜ぶ母親のように、賢治と一緒に?嬉しそうに語られる様子が印象的でした。
そのあと、本体である圧巻の企画展の方を見ましたが、その内容はまた別途報告することにします。
やっとのことで展示室から出て、疲れて文学館の二階の窓から西を見ると、もう日も暮れかかっていました。
夜は、韮崎市の旧穂坂村のあたりのペンションに泊まりました。そのあたりで「中央線の夜行列車を眺めると、ちょうど銀河鉄道のように見える」というのを実際に体験することはできなかったのですが、韮崎市街の夜景は美しかったです。
雲
手紙にも、著作権があるんですね。
確かに、私的な手紙を勝手に、他の知り合いに、しゃべっているのを、偶然、隣の部屋で聞くと、人間性を疑いました。
賢治の手紙は、読んでも、公開されているから、わたしのも良いと思っているのかなあ、なんて、考えました。
でも、いやでした。
読み返し、書き直せ、と、親に叱られるのですが、できなくなりました。
返事がない時は、書き直しても、ないからですが、もめまくると、恥ずかしいから、推敲するように、しないとだめですね。
古書店に、売る遺族さんの気持ちも、わかるような気もしますが、ひどいような気もする話です。
本人が、自分の手紙を買い戻してらっしゃるのを、見ると、何やろうこれは、と、思います。
コメントを読んで、非通知が送られるなら、止めていただきたいです。
偶然か気のせいか、知らんけど。
楽しみと苦しみが、ワンセットというのは、イヤでしょう。
現実と理想はワンセットでも、ちょうど良いと思います。
ステキな夜景を、どうも、ありがとうございました。
きれいですね。
銀河鉄道のように見える夜景も、見たいものです。
かぐら川
ごぶさたしています。
たいせつな問題をていねいに報告していただいて有り難く読ませていただきました。
蕪雑なコメントは控えますが、徳田秋聲記念館と室生犀星記念館の合同特別展「~秋聲と犀星~金沢三文豪のふたり」展で、二人のあいだで交わされた書簡のうちのいくつかを――それぞれの記念館で――見ることのできた感激と幸せの意味を、あらためて考えています。
hamagaki
>雲 さま
私も、手紙の「所有権」やら「著作権」が錯綜して、頭がこんがらがりました。しかし、人からもらった手紙を、勝手には公開できないなというところは、実感を持って納得できますね。
それから、こちらのブログにコメントをなさったことがきっかけで、雲さんのところにスパムメールが届くようになったのかどうかはわかりませんが、ネット上にメールアドレスをさらすと、そのようなことも起こりえますね。(コメント時に、自分のメールアドレスを書かないというのも、一つの方法です。)
しかし、スパムメール自体は、ゴミみたいなものですから、何らかのスパムフィルタなどを導入されたら、「苦しみ」はほとんど解消されるのではないかと思います。
>かぐら川 さま
お久しぶりです。
宮沢賢治の保阪嘉内あて書簡は、活字では何度も見ていたのですが、その実物に触れると、やはり圧巻でした。こんな紙に、こんな筆の勢いで書いていたのか!と驚くものもありました。
いずれにしても、やはり「情感」が漂ってくるようでした。
徳田秋聲と室生犀星・・・というのも、なかなかに深い情緒がありそうですね。私もいつか、その感激と幸せに触れてみたいと思っています。
今後とも、いろいろとご教示いただければ幸いです。
雲
お返事ありがとうございます。
スパムメールというのが、わからなかったのですが、いやがらせのメールでは、ありません。
非通知設定にしてはいるのですが、電話の着信メモリーが残るので、どうしても、気になってしまいます。
電話番号を代えるのも、たいへんなので、困っています。
賢治の友に対する思いは、深いのですね。
出会うことが、また、不思議だけなのでしょうか。
愛子さまのご学友を目指すようなものが、混ざってないことを、願います。
雲
先日、高瀬 露さんのことが、2~3年にわたって、ホームページに、のっているのを、見て、怖かったです。
たまたま、わたしは、女性研究者の紹介で、彼女を知りました。
同じできごとでも、こんなに、見方が違うのかと、驚きました。
時代や、事実にもとづいて、表記しないと、彼女のご家族たちにも、ご迷惑だと、感じました。