保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑
1.テキスト
保阪嘉内 宮沢賢治
花 園 農 村 の 碑
ほんとうの幸せを求めて
平成十九年十月
宮沢賢治・保阪嘉内生誕百十周年記念事業実行委員会
春は麦打ちせんと畑に立っ
て遠山のかすみに消えゆく
夢みる喜び
夏田植えして帰る田の水の上
に浮む白玉
秋は柿の梢に柿赤き頃 豊
な稲はすゞ風にさらさらと
波打って
冬は縄なひ 草鞋作り 夕
べは家庭のもっとも歓しき
うたげにあわやかに降りつ
む雪を見る
われわれをして 田園都市
を作らしめよ 模範農村を
作らしめよ そしてわが幸
ある天地の神に感謝をさゝ
げしめよ 保阪嘉内
来春はわたくしも教師をや
めて本統の百姓になって働
ら きます いろいろな辛酸
の中から青い蔬菜の毬やド
ロの木の閃きや何かを豫期
します わたくしも盛岡の
頃とはずゐぶん変ってゐま
す あのころはすきとほる
冷たい水精のやうな水の流
ればかり考へてゐましたの
にいまは苗代や草の生えた
堰のうすら濁ったあたたか
なたくさんの微生物のたの
しく流れるそんな水に足を
ひたしたり腕をひたして水
口を繕ったりすることをね
がひます 宮沢賢治
2.出典
保阪嘉内 歌稿「文象花崗岩」に挟まれたノート断片より (1917年?)
宮澤賢治 書簡[207]より (1925年6月25日保阪嘉内あて)
3.建立/除幕日
2008年(平成20年)10月13日 建立/除幕
4.所在地
山梨県韮崎市藤井町坂井205 東京エレクトロン韮崎文化ホール前
5.碑について
宮澤賢治と、その生涯で最大の親友であった保阪嘉内は、同じ1896年の生まれです。二人の生誕110年を記念して、保阪嘉内の故郷である山梨県韮崎市では、「宮沢賢治 保阪嘉内生誕百十周年記念事業実行委員会」が組織され、2006年から講演会や記念展示会が開催されました(右フライヤー)。そしてその集大成として、2007年10月に、保阪嘉内の生家近くに建立されたのが、この石碑です。
「銀河鉄道」をモチーフとして、レールの上に乗った碑石の裏には、次のように建立の趣旨が刻まれています。
大正五(1916)年盛岡高等農林学校の寮で同室となった嘉内と賢治は 二人の目指すところが「みんなの幸せのために生きる」ことであると知って意気投合し心の友となった その後 遠くに離れそれぞれの道を歩んでいる間も アザリアの友 河本義行 小菅健吉も含めて多くの手紙を交して励まし合い また 互いに気遣いながら その友情は生涯変わることはなかった 二人は 農民の幸せを説き理想の農村を夢見たが 惜しくも早逝し その実現には至らなかった 「花園農村」の夢を継承し 後世に伝えるべく嘉内生誕の地に記念碑を建立するものである
思えば、1921年7月に東京で悲しい別れを経験した賢治と嘉内でしたが、ここにふたたび二人の「農」にかける思いは、一つの列車に連結されて、私たちの目の前に具現化されたのです。
その碑の形として「銀河鉄道」がイメージされているのは、この土地とあながち縁のないことではないようです。一つには、嘉内が甲府中学時代に南アルプスの峰々の上空のハレー彗星をスケッチした絵に、「銀漢ヲ行ク慧星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」と書いていたことや、またこの場所の少し東の方から南アルプスの麓を行く中央線の夜行列車を眺めると、まるで「銀河鉄道」のように見えるというので、「銀河鉄道展望公園」なる公園も作られていたりするのです。
そして、保阪嘉内の次男である保阪庸夫さんによれば、この碑を写真に撮る際の「上手な写し方」というのがあって、それは碑のそばにあるベンチに坐っている人の姿が碑面に映りこんでいるところをうまく撮影すると、「生きながらにして銀河鉄道に乗っている人々」の写真ができるというのです。残念ながら、上の写真ではそういう風には撮れていませんが。
私が、この碑を訪ねた2007年11月、韮崎の地は四方を美しい山々に囲まれて晴れわたり、ツアーで案内していただいた地元のNPOや記念事業実行委員会の方々の、あたたかい心づかいに触れることができました
保阪嘉内の故郷も、また素晴らしいところです。
銀河展望台と鳳凰三山・甲斐駒ヶ岳