保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)

 山梨二日目の朝は天気もよく、南の空にはまた富士山も見えています。ペンションで朝食をすませると、今日の文学散歩バスツアーの集合場所である山梨県立文学館に向かいました。
 文学館に入ったのは9時ぎりぎりで、ほとんどの参加者は、もう来ておられました。数年前にメールで偶然知り合った「昔のご近所さん」であるSさんにも、今回はじめてお会いすることができました。

文学散歩パスツアー用配布物 最初に集合した部屋では、本日の予定の説明とともに、右写真のような2冊のパンフレットと、参加者用の缶バッジが配布されました。こういうバッジを付けていると、ツアーの「仲間」という感じが湧いてくるし、ささやかな思い出にもなりそうで、何となくうれしくなってしまいます。
 今回のツアーを企画された「つなぐNPO」が作成してくれた「賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩」「賢治と嘉内のガイドブック」も、要点を押さえて簡潔にして明解です。

 さて、今回の文学散歩バスツアーの見学ポイントは、以下のとおりでした。

(1) 山梨県立文学館
  「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛73通―」(展示解説付き)
(2) 深田久弥石碑
(3) 銀河展望台
(4) 保阪嘉内生家(保阪庸夫氏による解説)
  (公民館で昼食「銀河鉄道弁当」、「韮崎なみの会」による「オツベルと象」朗読)
(5) 保阪家屋敷墓地
(6) 保阪嘉内・宮沢賢治 花園農村の碑(韮崎エレクトロンホール前)
(7) 保阪嘉内墓所
(8) 井筒屋醤油店(山寺仁太郎氏による深田久弥氏の話)

 上の数字は、下の地図のマーカーの数字と対応しています。

 さて、一同は文学館で展示されている「宮沢賢治 若き日の手紙―保阪嘉内宛73通」を見学した後、10時頃にバスに乗り込んで、穂坂路から昇仙峡ラインを北に向かいました。正面には、八ヶ岳が見えます。
 韮崎市立穂坂小学校のユニークな木深田久弥石碑造校舎を左手に見て、標高900mほどまで登ってきたところでバスを降り、少し歩くと茅ヶ岳への登山口の近くに、(2)「深田久弥石碑」(右写真)がありました。
 深田久弥氏は、1971年にこの茅ヶ岳山頂近くを登山中に脳出血を起こして亡くなられ、その後、登山口に「深田記念公園」が設けられて石碑が建てられたのです。碑文は、「百の頂に/百の喜びあり/深田久弥」。深田氏が地元の山岳会会長の山寺仁太郎さんに贈られた筆蹟から採られています。
 また、深田久弥氏が茅が岳で倒れた時に、酸素ボンベや点滴セットを持って救助に向かったのが、当時韮崎市内の病院に勤めていた保阪庸夫医師だったというのも、今回のツアー企画に秘められた不思議なつながりです。
 途中からバスに合流された、「宮沢賢治・保阪嘉内生誕110年記念事業実行委員会」の事務局長である向山さんによる「饅頭峠」の「饅頭石」についての説明などもあった後、バスはまた山を下っていきました。

 次は、宮久保地区の広域農道のわきにある、(3)「銀河展望台」です(下写真)。

銀河展望台

 この展望台がある公園が「銀河鉄道展望公園」ですが、その名前の由来は、昭和50年代初めに、近くのペンションに泊まりに来た女子大生が、山裾を走る中央線の夜行列車を見て、「まるで宮沢賢治の銀河鉄道のよう」と言ったことが始まりとか。
 その昔に保阪嘉内が、甲府からですがやはり同じ山稜の上の夜空に懸かるハレー彗星を見てスケッチし、「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」と書いたことと、天と地で呼応しているかのようなエピソードです。

保阪嘉内生家 その次は、いよいよ(4)保阪嘉内生家です。大勢で見学させていただくだけでも恐縮なのに、保阪庸夫氏が駆けつけて下さって、直々の解説つきです。玄関のエントランスから庭園に続く右写真の立派な門構えは、嘉内の当時のままだということでした。

 保阪家を後にすると、近くの公民館まで歩いて、そこで「銀河鉄道弁当」による昼食と、保阪庸夫さんのお話、「韮崎なみの会」による「オツベルと象」の朗読がありました。

 それからまたバスに乗って、韮崎エレクトロン文化ホール前に先月完成した(6)「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」を見に行きました。

保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑

 銀河鉄道をイメージした三両だての石碑に、保阪嘉内の文章(歌稿「文象花崗岩」にはさまれたノート断片からの抜粋)、宮沢賢治の嘉内あて書簡[207](1925年)の抜粋が刻まれています。現実の人生においては、遠く離れて暮らすこととなった友ですが、ここにおいて、二人の「農」にかける思いが、一つの軌道に乗せられています。

保阪家之墓 さらに日も傾きかける頃、またバスに乗って向かったのは、(7)保阪嘉内墓所です。中央線を陸橋で越えて、山道を少し入ったところ、旧駒井村を一望のもとに見渡せる高台に、「保阪家之墓」はありました。亡くなったご先祖さまが、少し離れた山の上から、里で生きる子孫を見守っているというロケーションは、柳田国男の言うような祖霊信仰を、素直に形にしたような感じです。

 ところでこの保阪家の墓地のユニークだったところは、嘉内とその妻のさかゑ、そして賢治の3人の短歌を刻んだ、白御影石の立派な「献灯台」が設けられていることです。作られたのはごく最近(平成十九年十月吉日)とのことで、石面は美しく輝いていました。

 そこに刻まれた短歌は、嘉内が、

甲州の不二と心をあわせけん、
    岩手の山もはれやかに見ゆ。

 そして妻さかゑが、

賢治という親友をもちたる
         なき人を
  こゝろゆくまで偲ぶこの頃献灯台(左)

 最後に、賢治の歌として刻まれているのが、

甲斐にゆく、万世橋のスタチオン。
   ふっと哀れに、思ひけるかも。

です。
 実は、この賢治の短歌は、オリジナルとは少し違っているのですが、その違っている理由について質問を受けた保阪庸夫氏は、前日の講演に引っかけて、「また40年ほどたてば、沈黙を破って明らかにします」と答えられました。

献灯台(右)

 この後、一同はちょっと急ぎながら、最後の山寺仁太郎氏見学ポイントである(8)井筒屋醤油店に向かいました。この井筒屋の会長である山寺仁太郎氏(右写真)が、(2)の「深田久弥石碑」に刻まれている直筆サインを贈られた方であり、当時の思い出などを語って下さいました。深田久弥氏が茅ヶ岳で亡くなられた時は、山寺氏は地元山岳会「白鳳会」会長として現地に急遽駆けつけ、その遺体を麓まで運びおろす作業もされたのだそうです。
 ここで、今日のツアーの最初の目的地であった「深田久弥碑」につながって話は円環のように閉じ、文学散歩も無事終了となりました。私たちは帰りの列車の時刻の関係で、ここからはバスに乗らず、新村さんと向山さんのご好意で、韮崎駅まで車で送っていただきました。どうもありがとうございました。

 それにしても、天候にも恵まれ、多くのスタッフの方々の周到な準備のおかげもあり、非常に充実した「文学散歩」の一日でした。お世話になった皆様に、あらためて感謝申し上げます。

 保阪嘉内の故郷は、北を八ヶ岳、東を茅ヶ岳、南を富士山、西を鳳凰三山に囲まれた、美しい大地にありました。
 「嘉内」という名前は、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)によれば、琉球の古信仰にいう「ニライカナイ」(海の彼方にある常世の国)という言葉から名づけられたのだそうです。「生者はニライカナイより来て、死者はニライカナイに去る」という伝承は、嘉内が戯曲「人間のもだえ」に書いた、「あゝ人間らよ土に生れ土に帰るお前たちは土の化物だ」というメッセージと半分似たところがありますが、嘉内が「理想郷」でありかつ人間のルーツでもある「場所」を、遙か彼方にではなく、足もとの「土」に求めたのは、このたび彼の故郷の大地を踏みしめてみれば、何となく納得できる感じもします。

 そして、遙か北に暮らしていた宮澤賢治にとっては、そこからやってきた保阪嘉内という存在が、まさに「マレビト」として現れたところから、ある青春の物語が始まったのでした。