こんどの日曜日には、「グスコーブドリの大学校」に一日だけ出席して、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現場探訪に参加しようと楽しみにしていた矢先だったのですが、加倉井さんの「緑いろの通信/7月18日号」によれば、この作品における「停車場」と推定されている大船渡線の陸中松川駅の駅舎は、最近なくなってしまったんだそうですね。
今は、はるかに小さく簡易な建物になっているようですが、これは賢治ファンとしては寂しい知らせでした。
今は亡き、陸中松川駅の旧駅舎は、下の写真のようなものでした(2001年夏に撮影)。駅舎の向こう側には、石灰岩が採掘された山肌が見えます。
駅舎の扉を開けて中に入ると、待合室はかなり広くて、往年のにぎわいぶりを偲ばせていました。私が足を運ぶようになってからは、いつもがらんとしていたのですが・・・。
この駅は1925年(大正14年)に開業して以来、旧東山町の役場のある長坂地区や観光地猊鼻渓の最寄り駅として、乗降客も多かったそうです。国鉄時代には、急行の停車駅でもありました。
そもそも旧東山町は、長坂村、田河津村、松川村が合併したものですが、鉄道駅はこの地域で人口も多かった長坂村には作られず、また松川村と言ってもその中心ではなくて村はずれのこの場所に設置されたのは、考えてみれば不思議なことです。この地に石灰岩が多量に埋蔵されていることと、関連があったのでしょうか。
一時は、長坂村に行く人も、猊鼻渓を目ざす観光客も、この駅で降りて歩いたり乗合自動車を利用していたのでしょうが、1986年に、2km東に猊鼻渓駅が新設されてからは、そちらに役目を譲ってしまった面もありました。
また、大船渡線そのものも、徐々に乗客を他の路線や交通手段に奪われていき、JR東日本になってからは急行列車も廃止されて、どうしてもこの駅は日陰にまわっていったような感があります。
そのような流れの中での、今回の駅舎改築・小型化だったわけでしょうか。
駅舎の前には、これもまたがらんとした広場がありました。幸いこの広場は、まだ元のままのようですね。賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」によれば、その昔はここに「がたびしの自働車」が停まって、客待ちをしていたということになります。
この陸中松川駅前で乗合自働車の営業が始められたのは1927年(昭和2年)からだったらしいということを、以前に「停車場・河原・自働車」という記事に書きましたが、もう一つ、鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』(クラッセ)という本でも、この駅前の乗合自働車に関する記述を見つけました(同書p.15)。
これを見ると、菅原旅館も鈴木旅館も、「自動車営業の許可」が1927年に下りる前年の1926年からバスを走らせていたということで、これは「営業運転」ではないということですから、宿泊客へのサービスのようなものだったんでしょうか。
そして、賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」には、「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」と、自動車が大変な山道を走ることが書かれていますが、これは陸中松川駅から長坂の間の運行をしているだけではありえないことですので、上の文章で「長坂~猿沢間を延長」したという1929年(昭和4年)以降のことだろうと考えられます(「停車場・河原・自働車」掲載の地図も参照)。
となると、賢治は1928年(昭和3年)の8月から結核によって病臥生活に入ってしまい、再び戸外で活動ができるようになるのは1931年(昭和6年)以後ですから、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのは、これ以降の時期、すなわち東北砕石工場技師となって陸中松川駅を訪れていた際のことではないかという可能性が高まるように思えます。
というような感じで、陸中松川駅に今から思いをはせているのですが、予定では明後日(土曜日)の夕方に出発して、その晩は一関に泊まり、日曜日に陸中松川の「石と賢治のミュージアム」で斉藤文一さんの講演を聴いたり、藤野正孝館長のご案内で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現地探訪をした後、深夜に京都に帰り着くと思います。
ご報告のブログへのアップは数日後になると思いますが、ツイッターではその都度中継するつもりですので、よろしければご覧下さい。
コメント