震災15年

 今日は15年目の阪神・淡路大震災の日です。関西地区に住む者にとっては、今も忘れられない日です。

 賢治が生まれた頃の東北地方も地震が多かったようで、まず生年の1896年(明治29年)6月15日には、「明治三陸地震」が起こっています。M(マグニチュード)8.5という日本でも最大規模の地震だったと推定されていますが、地震の揺れそのものによる被害はほとんどなかったのに対し、その後の大規模な津波によって、死者が2万1915名という大惨事となりました。津波による犠牲者数としては、これが日本で歴史上判明しているかぎりでは最大です。

 さらに、同年8月31日午後5時6分、賢治の「生後五日目」には、「陸羽地震」が起こります。これはM7.2という、2008年の岩手・宮城内陸地震と並ぶ東北地方最大の直下型地震で、岩手県と秋田県の内陸部で震度6~7だったと推定されています。阪神・淡路大震災もM7.3の直下型、震度6~7で、ほぼ同じような規模だったわけです。
 この時の様子は、宮澤清六氏の「兄賢治の生涯」には、

母は嬰児籠(えじこ)の赤子の上に身を伏せて、念仏を称えていたが、やがて婚家の母のきんがまっ青になり、息も絶え絶えに馳せつけたのでやっと人心地がついたのだという。

とあり、森荘已池氏の『宮沢賢治』(1947, 杜陵書院)には、

賢治さんのお母さんは、嬰児籠(エジコと読む。わらでふちを厚くつくって、中にやわらかいわらを敷いた、あかんぼうを入れるかご)の上に、両手を広げてうつぶせになって、賢治さんの上に、何か落ちないやうに守った姿勢のまま、気絶してをりました。

と書かれています。
 母イチによるこの震災の記憶が、賢治の死後まで誕生日とされてきた戸籍上の「8月1日」を、現在の通説である「8月27日」に変更させることになるのですが、そのことについては、またいずれ考えてみたいと思います。
 ちなみに、この年の7月21日と8月1日には大雨による北上川の洪水も起こり、前者では「稗貫郡花巻村附近増水一丈五尺家屋浸水三百落橋大なるもの二」(朝日新聞7月24日付け)という被害の記録があります(奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』より)。2回の洪水による役場の混乱が、賢治の出生届の誤りを生んだ要因とも考えられています。

 さらに翌1897年(明治30年)2月20日には、またM7.4の「宮城県沖地震」が起こっていますから、賢治の誕生前後の東北地方には、本当に地震や洪水被害が多かったわけですね。
 まさに、清六氏が「兄賢治の生涯」において、

賢治の生まれた明治二十九年という年は、東北地方に種々の天災の多い年であった。それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の生物の幸福を祈って、善意を燃やしつづけた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった。

と書いているとおりだったわけです。

 そして、賢治が亡くなる1933年(昭和8年)3月3日には、生年の「明治三陸地震」とまるで対をなすように、「昭和三陸地震」が再び岩手県沿岸部を襲いました。
 この時、下閉伊郡支庁に勤めていた(旧姓)高橋ミネさんの夫である伊藤正氏が、不眠不休で救助や復旧活動にあたったという逸話は、以前「ミネさんの結婚」という記事に少し書いたことです。

昭和三陸大津波
昭和三陸大津波(気仙郡末崎村細浦)