先日少し触れたように、私は賢治が「カルメン」の舞台を直に見ていたのだろうと思っているのですが、本日は私がそう思う理由について、書いてみます。
ただ、その前に確認しておかなければならないのは、大正時代に舞台で演じられた「カルメン」には、いくつものヴァージョンがあったということです。そもそも、メリメ原作・ビゼー作曲のオペラ「カルメン」は、時間も長く規模も大がかりで、さらに歌唱にもオーケストラ演奏にも西洋音楽の高度な技術が要求されるものですから、大正時代も中頃までは、オペラから名場面を簡単に抜粋したり、「新劇」として上演しつつ所々に日本風の歌曲を入れたりした、短縮・翻案版が上演されていたのです。
私が調べられたかぎりでも、当時浅草では下記のような公演があったようです。
- 1918年(大正7年)3月1日から、河合澄子主演「日本バンドマン一座」が「桃色館」で演じた「カーメン」
- 1918年(大正7年)9月16日から、高木徳子主演で「有楽座」にて演じられた「カルメン物語」(これは高木徳子の離婚成立後の同年12月13日に、「駒形劇場」で「永井徳子改名披露公演」として再演)
- 1919年(大正8年)元日から4日まで、松井須磨子主演で「芸術座」が「有楽座」にて演じた「カルメン」(1月5日未明の松井須磨子自殺により中断)
- 1919年(大正8年)3月1日から14日まで、中山歌子主演の「新芸術座」が「有楽座」で演じた「カルメン」(上記「芸術座」の内容を踏襲)
- 1919年(大正8年)9月4日、来日した「ロシア歌劇団」の「帝国劇場」におけるグランドオペラ形式の「カルメン」(ロシア語による公演)
- 1919(大正8年)年12月31日、「金竜館」における二場のみの「カルメン」(「松井須磨子追悼公演」として上演)
- 1922年(大正11年)3月20日より「金竜館」にて「根岸大歌劇団」が演じた「カルメン」(日本人による初めてのグランドオペラ形式による上演で、前編・後編に分けて公演)
詳細についてはまた稿を改めて述べる予定ですが、当然ながら賢治が見たと想定されるのは、「とらよとすればその手から・・・」の「恋の鳥」が劇中で歌われるヴァージョンで、上のリストでは、3. 4. そしておそらく 6. が該当します。
そして、上のリストは東京での、それもおもに浅草における公演に限られているのですが、当時は好評を博した出し物は地方公演にもかけられており、賢治が見たとしてもそれが東京においてだったと断定できるものではありません。たとえば「新芸術座」は、「カルメン」を主要な演目にして、1919年(大正8年)の9月~11月に、東北・北海道巡業をしています。しかしこの「観劇場所」の問題についても、稿を改めて考えることにします。(右写真は、松井須磨子の扮するカルメン:演劇出版社刊『明治大正新劇史資料』より)
とりあえず今回考えたいのは、「カルメン」の内容と賢治の作品の関連の検討です。私としては、賢治の作品に現われている下記のような事項から、彼は「カルメン」の舞台を実際に見ていたのではないかと考えます。
いずれも、それぞれ一つだけではさほど確固たる根拠となるものではありませんが、いくつもの示唆的なポイントが集積していることによって、それなりに確度が高まっているのではないかと、私は思います。
1.「恋の鳥」引用と歌詞錯誤
「習作」(『春と修羅』)には、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という、松井須磨子・中山歌子による「恋の鳥」の歌詞が引用されています。したがって、賢治がこの「恋の鳥」という歌を知っていたことは、疑いようがありません。
ただし、歌を知っていたというだけなら、直接舞台を見ていなくても、誰かが歌うのを聞き憶えたり、SPレコードで聴いて知っていたという可能性も、ありえます。(「浅草オペラとオーケストラ」というサイトによれば、「恋の鳥」とともに歌われた「酒場の唄」「煙草のめのめ」が収められたSPレコードが、大正8年5月に発売されていました。)
これらの可能性のうち、もしも賢治が「恋の歌」のレコードを所蔵していたのなら、おそらく歌詞のテキストも付いていたでしょうし、繰り返し何度も聴くことができたはずですから、歌詞を誤って憶えてしまうということは起こりにくいでしょう。
したがって、賢治が「恋の鳥」の歌詞を誤って引用していたという事実は、賢治がこの歌の歌詞を舞台を見て聴き憶えたか、誰か他の人から聞いたのか、いずれかだったのではないかということを示唆します。
2.「鞭をもち赤い上着を着て・・・」
「習作」においては、本文5行目に「黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい」とあって、6行目の上段から、「とらよとすればその手から・・・」の歌詞が始まります。そして6行目の本文は、「また鞭をもち赤い上着を着てもいい」となっていますが、これは「唄つてもいい」と対になっていることから、「鞭」や「赤い上着」が、「恋の鳥」の歌と関係していることを示しています。
この時、賢治が歩いていた草地がスペイン(西班尼)風と感じられたので、カルメンや「恋の鳥」へと連想が広がったのでしょう。
しかしこの「鞭」や「赤い上着」とは、いったい何なのでしょうか。
そもそも、北原白秋作詞・中山晋平作曲のこの「恋の鳥」は、物語の冒頭近くで、カルメンが自分に言い寄る男たちを尻目に、恋のむら気さ、厄介さ、危うさなどを、蠱惑的に歌うものでした。ビゼーによる歌劇の原曲では、有名なアリア「ハバネラ」に相当する部分で、その「ハバネラ」の元の歌詞の日本語訳は、以下のようなものです。「とらよとすればその手から・・・」という趣旨は、北原白秋の詞と共通しています。
ハバネラ
恋はいうことをきかない小鳥
飼いならすことなんか誰にもできない
いくら呼んでも無駄
来たくなければ来やしない
おどしてもすかしても なんにもならない
ひとりがしゃべって ひとりが黙る
あたしはあとのひとりが好き
なんにもいわなかったけど そこが好きなの
ああ恋、恋・・・
※ 恋はジプシーの生まれ
おきてなんか知ったことじゃない好いてくれなくてもあたしから好いてやる
あたしに好かれたら あぶないよ!
まんまとつかまえたと思ったら
鳥は羽ばたき 逃げてゆく
恋が遠くにいるときは 待つほかないが
待つ気もなくなったころ そこにいる
あたりをすばやく飛びまわり
行ったり来たり また戻ったり
捕らえたと思うと するりと逃げて
逃がしたと思うと 捕らえてる
ああ恋、恋・・・
※ くりかえし
舞台におけるカルメンの衣装には、その美貌と気性の激しさを際立たせるために、しばしば真紅の色が用いられます。「上着」というのがどういう趣旨なのかはわかりませんが、「赤い上着を着て・・・」という描写は、ひとまずカルメンの姿を指しているのだろうと考えておくことはできるでしょう。
ただ、カルメンは煙草工場で働く女工という設定なので、どうして「鞭を持ち」ということになるのか、これまで私にはよくわかりませんでした。しかし最近 YouTube で、カルメンが「鞭」を振り回しながら「ハバネラ」を歌うという、リハーサル風景の動画を見つけました。下の三角印をクリックしてご覧下さい。
これだけ見ると、なぜカルメンが鞭を手にしているのかちょっと不可解ですが、でも考えてみれば、この場面はカルメンが衛兵たちに言い寄られているところなので、カルメンは騎兵が持っている鞭を取り上げて、兵隊たちを脅したりからかったりしながら、「ハバネラ」を歌っているという設定なのかもしれません(主人公のドン・ホセも、竜騎兵の一員でした)。実際このリハーサル動画でも、周囲の男性たちはカルメンの鞭にマジで肝を冷やしているところがおもしろいですね。
松井須磨子や中山歌子のカルメンが、「恋の鳥」を歌う際に鞭を手にしていたという証拠は何もないのですが、動画に見るようにそのような「カルメン」の演出が存在するのは事実ですから、賢治の「習作」に出てくる「鞭」の解釈の一つとして、このような状況は一応ありえると思います。
そして「鞭をもち赤い上着を着て・・・」という一節がそういう振り付けを意味しているのなら、賢治がこのような具体的情景を作品に描くことができたのは、実際に舞台の「カルメン」を見たからだろうと考えてみることができます。
3.「酒場の唄」と「星めぐりの歌」の関連
「芸術座」と「新芸術座」による新劇としての「カルメン」公演においては、賢治が「習作」に引用した「恋の鳥」の他に、やはり北原白秋作詞・中山晋平作曲の「酒場の唄」という歌も唄われました。
これもまた、やけっぱちなデカダンスあふれる歌なのですが、この「酒場の唄」の旋律と、賢治の「星めぐりの歌」の旋律の構造は、実に非常に似ているのです。作曲家で賢治研究にも造詣が深い中村節也氏はその類似性に気づかれて、賢治が「星めぐりの歌」を作る際には、無意識のうちに「酒場の唄」の旋律の影響を受けていたのではないかという説を提唱されました。
私も、この中村氏の説に全く同感です。「酒場の唄」のメロディーを聴いてみると本当に不思議な感じで、「星めぐりの歌」との関連性を感じざるをえず、3年あまり前には「「星めぐりの歌」と「酒場の唄」」というブログ記事にもしました。この記事には、二つの歌の楽譜も比較のために載せてありますので、どうかご参照下さい。
当時に歌われた「酒場の唄」がどういうものだったかというと、上にもリンクした「浅草オペラとオーケストラ」というページの下の方で、「新芸術座」の中山歌子の歌唱による「酒場の唄」を聴くことができます。1919年(大正8年)5月という、貴重な時期の録音ですね。
また、こちらのページを開いていただくと、「酒場の唄」の歌詞表示とともに、BGMとしてそのメロディーを聴くことができます。
つまり、当時の賢治の心の中には、「恋の鳥」の歌詞だけでなくて、「酒場の唄」のメロディーも流れていた可能性が高いのです。もちろん、二つの歌とも当時かなり流行ったものでしたから、賢治が直に「カルメン」を見ていなくても、誰かが唄っているのを聴いてこれらを憶えたという可能性も否定できません。しかしテレビもラジオもない時代、2曲の歌が賢治の印象に深く刻まれるためには、やはり舞台で直接「カルメン」を見て、主人公が唄うこの歌を聴いたと考えるのが、私には自然に思えます。
4.「薤露青」の工女たちの「あざけるやう」な歌
「薤露青」という美しい作品に関して、私は以前から気になっていることがありました。作品の半ばすぎに、次のような箇所があります。
声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
……あの力いっぱいに
細い弱いのどからうたふ女の声だ……
ここで賢治は、夜のとばりが降りようとしている北上川を眺めながら、前年に亡くなったトシのことを考えています。その時、ちょうど近くの製糸場が終業時刻になり、工女たちが皆そろって帰りはじめたのでしょうか。
ここで、彼女たちが賢治のことを「あざけるやうに」歌って行ったというのは、賢治の孤独感がそう思わせたにすぎない錯覚でしょうが、この一つの情景――女工たちが男に向かって集団で嘲るように歌って行く――は、私にはどうしても「カルメン」の中の一場面を、思い起こさせるのです。
「カルメン」の物語の冒頭近く、タバコ工場の終業の鐘が鳴り、仕事を終えて帰る女工たちがいっせいに工場から出てきます。街の男たちは、女工をナンパしようと工場の前で「出待ち」をしています。下記は、ビゼーの歌劇におけるこのあたりの歌詞です。
(男性の合唱)
鐘が鳴る 俺たちは
女工たちの帰りをここで待ってる
栗色の髪の女工たち、君らを追う
愛をささやきながら
一方、女工たちは物憂げにタバコを吹かしながら、つれない素振り。
(女工たち)
目で追う 宙にただよう
タバコの煙
空高く
上っていくよ
上っていくよ芳しく
ゆっくり上っていくよ
上のほうに
とてもゆるやかに
心を楽しませ
恋人たちの語らいをなごませる
それがタバコの煙
彼らの激情と愛の誓い
それもタバコの煙
そう それがタバコの煙
それがタバコの煙
男たちが懇願しても・・・
(女工たちに)
薄情にならないで
聞いておくれ ねえさんたち
俺たちの熱愛する
崇拝するおまえたち
それでもやはり女工たちは、彼らを全く気にもとめず、煙をくゆらせ通り過ぎようとします。
宙にただよう
目で追うタバコの煙
タバコの煙
目で追う 宙にただよう
タバコの煙
空高く回り回って上っていくよ
タバコの煙! タバコの煙!
ちなみに、「芸術座」「新芸術座」の公演においては、ここで女工たちは上記の合唱の代わりに、「煙草のめのめ」というやはり北原白秋作詞・中山晋平作曲の歌を唄いました。
煙草のめのめ、空まで煙(けぶ)せ、
どうせ、この世は癪のたね。
煙よ、煙よ、ただ煙、
一切合切、みな煙。
すなわち、「カルメン」の第一幕には、「工場が終わって工女たちが出てきて、男たちをあざけるような歌を唄って行く」という場面があるのです。
私にとっては、この劇中の情景と、「薤露青」に出てくる「製糸場の工女たちが/わたくしをあざけるやうに歌って行けば・・・」という描写が、どうしても重なるのです。製糸場の工女たちが、実際に賢治をあざけるように歌って行ったことはないはずですが、工場からいっせいに若い女性たちが出てきて、賢治のことを気にもとめずにおしゃべりをしながら通り過ぎて行った時、賢治の心には、上記の「カルメン」の一場面が浮かび上がったのではないだろうかと、私は想像するのです。
私としては、「薤露青」のこの部分も、賢治が「カルメン」の舞台を見ていたために生まれた一つの心象なのではないかと思うのです。
◇ ◇
以上、賢治が「カルメン」の舞台を見ていたのではないかということについて、私なりに思いつくことを述べました。
あと残る課題は、もしそうならば賢治はいつ「カルメン」を見たのか、そして保阪嘉内との情報共有はいかになされたのか、ということです。
エスカミリオ
賢治のオペラ論は『宮澤賢治 浅草オペラ・ジャズ・レヴューの時代』(論創社・刊/菊池清麿・著)の詳細に書かれている。年譜は凄い。また、全ページにわたる脚注だけでも一冊の本なる。これも凄い。
hamagaki
エスカミリオ様、コメントをありがとうございます。
菊池清麿著『宮澤賢治 浅草オペラ・ジャズ・レヴューの時代』は、私も読ませていただきました。
「浅草オペラ」という、いかにも大正的な独特の興業形態の華やかな歴史と、同時代を生きた賢治の、音楽や演劇への愛好や創作活動を関連させつつたどる、貴重な労作と思います。
著者菊池氏の詳細な調査によっても、賢治が浅草オペラを実際に観劇したという明確な根拠は見つかっていませんが、賢治が何度も浅草を訪れていたこと、そしてその作品の端々に残されている様々な間接的証拠から、やはり彼が浅草オペラを見て刺激を受けていたのは、間違いないでしょうね。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。