ご存じのように、『春と修羅』所収の「習作」という作品には、「芸術座」および「新芸術座」が演じた「カルメン」の劇中歌、「恋の鳥」の一節が引用されています。
習作
キンキン光る
西班尼(すぱにあ)製です
(つめくさ つめくさ)
こんな舶来の草地でなら
黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい
と┃また鞭をもち赤い上着を着てもいい
ら┃ふくふくしてあたたかだ
よ┃野ばらが咲いてゐる 白い花
と┃秋には熟したいちごにもなり
す┃硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ
れ┃ 立ちどまりたいが立ちどまらない
ば┃とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ
そ┃みきは黒くて黒檀(こくたん)まがひ
の┃ (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)
手┃このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
か┃かんがへたのはすぐこの上だ
ら┃じつさい岩のやうに
こ┃船のやうに
と┃据えつけられてゐたのだから
り┃……仕方ない
は┃ほうこの麦の間に何を播いたんだ
そ┃すぎなだ
ら┃すぎなを麦の間作ですか
へ┃柘植(つげ)さんが
と┃ひやかしに云つてゐるやうな
ん┃そんな口調(くちやう)がちやんとひとり
で┃私の中に棲んでゐる
行┃和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて
く┃さうだ
上記では横書きになっていますが、原文はもちろん縦書きです。本文の6行目から行頭の文字を、上記では縦に、原文では横に読むと、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という言葉になります。作品においてはこの言葉と本文を区別するための線が引かれていて、上では点線のように表示されていますが、実際には連続線です。
さて一方、この「とらよとすれば・・・」という言葉は、保阪嘉内が家族とともによく歌っていたというので「保阪家家庭歌」、あるいは最近は「勿忘草の歌」とも呼ばれる歌にも出てきます。下記が、その歌詞です(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)。
勿忘草(わすれなぐさ)の歌
―保阪家家庭歌―捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
仕合わせ尋ね行く道の遙けき眼路に涙する抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水浅葱(みずあさぎ)
波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く
漢字表記は少し違っていますが、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という言葉は同じです。
この言葉の出典は何かというと、北原白秋作詞、中山晋平作曲で、1919年(大正8年)に「芸術座」が(のちに「新芸術座」が)演じた「カルメン」の中で歌われる「恋の鳥」という劇中歌です。
「恋の鳥」の歌詞は、以下のとおりです。
捕へて見ればその手から、
小鳥は空へ飛んでゆく、
泣いても泣いても泣ききれぬ、
可愛いい、可愛い恋の鳥。たづねさがせばよう見えず、
氣にもかけねばすぐ見えて、
夜も日も知らず、氣儘鳥、
來たり、往んだり、風の鳥。捕らよとすれば飛んで行き、
逃げよとすれば飛びすがり、
好いた惚れたと追つかける、
翼火の鳥、恋の鳥。若しも翼を擦りよせて、
離しやせぬぞとなつたなら、
それこそ、あぶない魔法鳥、
恋ひしおそろし、恋の鳥。
比べていただければわかるとおり、賢治や嘉内の引用は、北原白秋のもとの詞と少し違っています。一番の初めの2行が、おおむね引用部分に相当するのですが、原文は「捕へて見ればその手から、小鳥は空へ飛んでゆく」です。三番の1行目は「捕らよとすれば飛んで行き」となっていて、賢治と嘉内の引用は、一番の初め2行に、三番の冒頭を混ぜ合わせたような形になっています。
このように、歌の歌詞をちょっと間違えて憶えてしまうということは、誰だってよくあることですが、ここで重要なのは、賢治と嘉内が全く同じ間違いをしているということです。間違いそのものはそれなりの確率であるにせよ、二人がそれぞれ独立して、全く同じ間違いをする確率というのは、非常に低いものです。このような現象が起こった経緯の最も自然な解釈は、「二人のうちの一方が歌詞を間違えて憶えていて、それをもう一人に伝えたために、同じ間違いが共有されてしまった」と推測することです。
さらに、「二人がこの歌を共有していた」と考えることは、後にそれぞれの作品にその引用が登場することの意味を、より大きなものにしてくれるでしょう。
賢治の「習作」には、「柘植さん」という名前が出てきますが、これは柘植六郎という盛岡高等農林学校の教授で、園芸などを担当していたということです(『新宮澤賢治語彙辞典』より)。この作品において賢治は、どこかの(スペイン風とも感じられる)気持ちのよいつめくさの草地を歩いているようですが、もう4年あまり前に卒業した盛岡高等農林学校のことを思い出して、書き込んでいるのです。
さらに、嘉内の「勿忘草の歌」の方には、私はさらに深い意味を感じざるをえません。「わすれな草」の花言葉は、名前のとおり「私を忘れないで下さい」というものですが、嘉内がこの題名に込めた意味は、何なのでしょうか。彼は、いったい誰に向かって、「私を忘れないで」と言っているのでしょうか。
この歌の一番の2行目、「仕合わせ尋ね行く道の遙けき眼路に涙する」は、まだ一般的な言葉なので解釈はいろいろありえますが、二番の2行目、「仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)」に至ってはどうでしょう。「はぐれし友」とは、誰のことなのでしょうか。
文を素直に読めば、「嘉内はある友と一緒に仕合わせを求めて道を進んでいたが、その後その友と離れてしまった」ということになるでしょう。
ここで思い起こされるのが、賢治と嘉内が1917年(大正6年)の7月14日から15日にかけて岩手山に登った際に、二人である誓いを立てたと推測されることです。賢治は後々も嘉内にあてて、「夏に岩手山に行く途中誓はれた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません」(書簡102a)と書いたり、「曾って盛岡で我々の誓った願 我等と衆生と無上道を成ぜん、これをどこ迄も進みませう」(書簡186)と書いたり、この「誓い」を宝のように大切にしていました。その誓いの内容は、上に「我等と衆生と無上道を成ぜん」との仏教的表現にあるように、「我ら二人、ともに全ての人々の幸せのために人生を尽くそう」というようなことだったのではないかと思われます。
そうだとすれば、嘉内の「勿忘草の歌」の一番と二番に出てくる「仕合わせ尋ね行く道」「仕合わせ求め行く道」とは、賢治とのこの「誓い」を承けたものではなかったでしょうか。
すなわち、嘉内が「勿忘草の歌」に歌った「友」とは賢治のことであり、これは遙かな友に「私を忘れないで」と願い、あるいは「自分も賢治を忘れない」という思いを込めて作った歌だったのではないかとも、感じられるのです。そう考えれば、この歌の中に、「捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く」という、自分が賢治と共有していた歌の一部を引用した嘉内の意図も、より明確に理解できると思われます。
そこで次の課題は、この歌を二人のうちどちらが先に知って、どうやってもう一人に伝え共有したのか、ということです。これに関しては、また長くなりますので、稿を改めて考えてみたいと思います。
保阪嘉内作詞・作曲「勿忘草の歌」
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