『宮沢賢治とサハリン』の著者の藤原浩さんが、ご親切にも1923年(大正12年)7月号の『明治大正鉄道省列車時刻表』のコピーを送って下さいました。
下は、その中で、早朝の倶知安→函館間上り列車の頁です。字が小さくて申しわけありませんが、画像をクリックすると拡大表示されます。
それから藤原浩さんは、賢治が「噴火湾(ノクターン)」で列車から眺めた「室蘭通ひの汽船」、すなわち噴火湾汽船の運航時刻表も送って下さいました。賢治が見た早朝の汽船は、下のとおり「午前4時に森港を出航し、午前7時に室蘭港到着」です。
私はここでまた、賢治のサハリンからの帰路の旅程について考えてみたいのですが、今日はとくに、1923年8月11日の日付を持つ「噴火湾(ノクターン)」という作品をスケッチした際に、賢治が乗っていたのはどの列車かということについて、検討してみます。
まず、「噴火湾(ノクターン)」の後半には、
もう明けがたに遠くない
崖の木や草も明らかに見え
車室の軋りもいつかかすれ
一ぴきのちいさなちいさな白い蛾が
天井のあかしのあたりを這つてゐる
(車室の軋りは天の楽音)
噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
という箇所があります。「もう明けがたに遠くない」とか、「東の天末は濁つた孔雀石の縞」という記述から判断すると、賢治が「室蘭通ひの汽船」を見ているのは、日の出よりも前であると推定されます。
そこで「日の出と日の入りの計算」というサイトで、1923年8月11日の森駅の位置における日の出と日の入りの時刻を計算してみました。森駅の位置としては、北緯42.1089度、東経140.6082度という数字を用いました。
結果は、次のとおりです。
1923年8月11日の計算結果
2時50分 天文薄明始まり
3時31分 航海薄明始まり
4時 9分 市民薄明始まり
4時40分 日出
ここで、「天文薄明」とは、「天体の見え方に太陽の影響が始まる時間帯」、「航海薄明」とは、「空と海との境が見分けられる程度の時間帯」、「市民薄明」とは「太陽が隠れていても外で活動できる時間帯」ということです。
『新校本全集』第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」に≪参考≫として掲載されているのは、上のコピーの右端の、「急行2」列車です。これまでは、これが「噴火湾(ノクターン)」の列車とする考えが、一般的だったようです。
一方、藤原浩氏は『宮沢賢治とサハリン』において、右から2番目の列の「8列車」だったのではないかとの説を、新たに提唱されました。
さらに、4時40分の日の出前に噴火湾を走る列車としては、上の表の中央あたりにある「10列車」というのも、可能性としてはありうるようです。
いずれの列車も、噴火湾沿岸を走るのは「長万部」から「森」の間ですから、この間の時刻をあらためて表にしなおすと、下のようになります。
8
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10
|
急行2
|
|
長萬部 |
1:40
|
2:22
|
レ
|
中ノ澤 |
1:49
|
2:41
|
レ
|
國縫 |
1:59
|
2:51
|
レ
|
黒岩 |
2:13
|
3:05
|
レ
|
山崎 |
2:24
|
3:18
|
レ
|
八雲 |
2:37
|
3:29
|
3:51
|
山越 |
2:47
|
3:39
|
レ
|
野田追 |
2:56
|
3:48
|
レ
|
落部 |
3:08
|
4:08
|
レ
|
石倉 |
3:18
|
4:18
|
レ
|
森 |
3:45
|
4:45
|
4:51
|
それから、船舶が日没から日出までの時間帯に掲げることが義務づけられている「船灯」の規定についても、確認しておきます。
これについては、先週に「「二つの赤い灯」の問題」という記事でも触れましたが、当時施行されていた「海上衝突豫防法(明治25年6月23日法律第5号)」という法律の第二條において、「船灯」の掲げ方については次のように定められています。
第二條 汽船ハ航行中必ス左ノ燈ヲ掲クヘシ
一 前檣若ハ其前面ニ於テ又ハ前檣ヲ具ヘサルトキ
ハ本船ノ前方ニ於テ船体上二十尺ヨリ低カラサ
ル所ニ若船幅二十尺ヲ超ユルトキハ其船幅ヨリ
低カラサル所ニ亮明ナル白燈一個ヲ掲クヘシ然レ
トモ船体上四十尺以上ノ所ニ掲クルヲ要セス此
燈ハ常ニ不同ナキ光ヲ発シテ鍼盤ノ二十点間ヲ
照スヘク製造シ其射光ヲ左右舷外ヘ十点間ツゝ
即チ船ノ正首ヨリ各舷正横後ノ二点マテ及フヘ
キ様装置シ且少クモ五海里ノ距離ヨリ見得ヘキ
モノヲ用ウヘシ
二 右舷ニ緑燈ヲ掲クヘシ此燈ハ常ニ不同ナキ光ヲ
発シテ鍼盤ノ十点間ヲ照スヘク製造シ其射光ヲ
船ノ正首ヨリ右舷正横後ノ二点マテ及フヘキ様
装置シ且少クモ二海里ノ距離ヨリ見得ヘキモ
ノヲ用ウヘシ
三 左舷ニ紅燈ヲ掲クヘシ此燈ハ常ニ不同ナキ光ヲ
発シテ鍼盤ノ十点間ヲ照スヘク製造シ其射光ヲ
船ノ正首ヨリ左舷正横後ノ二点マテ及フヘキ様
装置シ且少クモ二海里ノ距離ヨリ見得ヘキモノ
ヲ用ウヘシ
(以下略)
これは、現在の「海上衝突予防法」において「マスト灯」「両舷灯」と呼ばれている船灯を規定したもので、その基本は現在とも共通しています。ただ、現在の「海上衝突予防法」においては、「船尾灯」を掲げることも定められていますが、戦前の法律では、「第二條」にも他の箇所にも、「船尾灯」の規定は見出せませんでした。
上記の法文で、「鍼盤ノ二十点間ヲ照スヘク」とか、「其射光ヲ左右舷外ヘ十点間ツゝ即チ船ノ正首ヨリ各舷正横後ノ二点マテ及フヘキ様装置シ」などと書かれているのは、船灯が照らす角度の範囲を定めているもので、「鍼盤」とはいわゆる「羅針盤」、角度の単位の「点」とは、360度を32等分したものが「一点」、すなわち11.25度のことです。白色の「マスト灯」も、右舷は緑・左舷は紅の「両舷灯」も、「正横後ノ二点マテ及フヘキ」と書いてあることの意味は、真横よりも22.5度後ろまで照らすようにせよ、それより後ろからは見えないようにせよ、ということです。
これを図示すると、下のようになります。
ここで心にとどめておいていただきたいのは、船の真横より22.5度以上後ろの角度から見ると、「マスト灯」も「両舷灯」も、見えないのだということです。
◇ ◇
さて、以上でひとまず使用したいデータが揃いました。これらをもとに、賢治がどの列車に乗って、噴火湾汽船を眺めたのかを考えてみます。
(1) 8列車
上の表に選び出した3つの列車のうちで、「8列車」だけは、汽船が出航する4時より前の3時45分に、森駅に到着します。つまりもし賢治がこの列車に乗っていたとしたら、彼は海上を航行中の船ではなくて、港に停泊中の船を見たことになるのです。この場合、上の「海上衝突豫防法」第二條に規定されているような航行中専用の船灯は点灯されていなかったはずですが、客室の明かりや停泊灯などが、「二つの赤い灯」として見えなかったと断定することもできません。
しかし、「噴火湾(ノクターン)」の描写にある、
噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
という箇所を読むと、賢治が汽船を眺める視線と、「東の天末」を眺める視線は、それなりに連続しているように、私には感じられます。
ところが、下の地図のように森駅のあたりでは函館本線はほぼ東向きに走っており、さらに東北東の方には北に向かって「砂崎」が突き出しているために、「東の天末」は見えないのです。
また、当時の函館本線では、森駅を過ぎると上の地図で南の方の内陸に向かう線路しかなく、これ以降に「東の天末」が見える場所はありません。(上の地図で、森駅から東の方に海岸沿いに走る線は、太平洋戦争中に輸送力増強のため本線のバイパスとして敷設されたものです。)
結局のところ私としては、賢治が乗っていたのは「8列車」ではなかったのではないかと考えます。
(2) 10列車
「10列車」は、「野田追」駅を3時48分に、「落部」駅を4時8分に、「石倉」駅を4時18分に、それぞれ発車します。
「野田追」を発車する3時48分時点では、まだ汽船は森港を出航していないわけですが、下の地図のように駅(現在の漢字表記は「野田生」)は内陸部にあることから、ここから港に停泊中の汽船を見ることは不可能と思われます。また同様に推測して、「落部」駅からも見えないでしょう。森港までをちゃんと見通せるようになるのは、地図から推測すると、「石倉」駅以降と思われます。
そこで、石倉駅を発車した4時18分、それから日の出の4時40分にそれぞれ汽船がどのあたりに位置していたか、森港から室蘭港までの44.5kmを、4時から7時まで船が等速で航行したと仮定して位置をプロットすると、下の図のようになります。S印のマーカーを付けてあるのが、森港です。
ここで、船の進行方向と、列車からの視線の角度を見てみます。上図において、4時18分に石倉駅から汽船を見る角度を調べると、船の真横よりも「32度後方」になっています。すなわち、マスト灯や両舷灯が見える限界の22.5度を越えており、これらのいずれの船灯も、列車からはすでに見えなくなっているのです。この後、列車が森駅に近づいても、さらに船の後ろにまわることになりますから、船灯が見えないことは同様です。
すなわち、「二つの赤い灯」が夜間航行時の船灯であるとすれば、賢治が乗っていたのは「10列車」ではありえないことになります。
(3) 急行2列車
「急行2列車」は、先に挙げた表のように、噴火湾沿岸では「八雲」駅を3時51分に、「森」駅を4時51分に発車しますが、その間の駅は停車せず通過します。この区間を列車が等速で走ると仮定し、またさっきのように噴火湾汽船も森港から室蘭港まで等速で航行すると仮定すると、列車と汽船の位置関係は、下図のようになります。
ここで、(4:14)と記してある位置は、「野田追」駅と「落部」駅の間で線路が海岸に出る所、(4:27)と書いてあるのは、「石倉」駅の場所です。
この図において、再び汽船の進行方向と列車からの視線の角度を見てみます。(4:14)の位置から船の見ると、船の真横より「22度後方」となります。これはまさに、マスト灯や両舷灯が見える限界の22.5度ぎりぎりです。しかし、船から距離が離れると、光の拡散のためにもう少し広い角度で灯火が見えることはあると言われていますので(こちらのページの「灯火の境目」参照)、賢治がこの場所で汽船のマスト灯(白色)や左舷灯(赤色)を見ることはできた可能性があります。
そして、この位置からさらに列車が森駅方向に進むと、視線は船をもっと後方から見ることになりますから、もはやマスト灯や左舷灯は見えなくなります。
(4) まとめ
つまり、今回の検討から推測されるのは、賢治が乗っていたのは「急行2列車」で、その車窓から噴火湾汽船の「二つの灯火」が見えたなら、それが可能だった場所と時刻は、かなり限定されるのではないかということです。
具体的には、まず時刻は午前4時14分頃と思われます。4時40分の日の出よりはまだ少し前ですが、4時9分に「市民薄明」が始まって5分後で、あたりの様子はだいたい見える明るさになっていたはずです。「黒く立つものは樺の木と楊の木」というようなことも、見分けられたのでしょう。
そして場所は、「野田追」と「落部」駅の中間で、列車が海岸沿いに出たあたりと思われます。賢治の目の前にはさっと海が広がり、遠くの汽船の明かりも、短時間ながら印象的に目に入ったのではないかとも思われます。
下に、その周辺の場所の、少し拡大した地図を載せておきます。
ただ、今回の推測は、列車や汽船が駅や港の間では等速走行をしていると仮定しており、また距離や角度の測定はさほど精密ではないため、まだこれをもって断定的なことが言えるとは考えていません。
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