「のぞみ」を新横浜駅で降りて、地下鉄で横浜駅へ行き、ここからは京急本線に乗って南へ走ります。金沢八景駅で降りて、関東学院大学を目ざしました。
午前は曇り空だったのですが、昼から真夏の晴天となり、本当に暑い中を15分ほど歩きました。
下は関東学院大学金沢八景キャンパスの正門。
下写真は、キャンパス内の「オープン・チャペル」にある「大賀ハス」。2000年前の遺跡から発掘された種子を育てて咲かせたものだそうです。快挙を成し遂げた大賀一郎博士は、当時は関東学院大学非常勤講師でした。
先週には花が咲いていたそうなのですが、今日はもう花弁は散っていました。
そしてキャンパスをさらに奥に進むと、立派な校舎の横に、「タッピング・ボンド」と名付けられた貯水池があります。
池の中には、水の色に合わせたようなガラス製の「銘板」が立てられていて、この池の由緒が記されています。そして、その本文の後には、賢治の詩「岩手公園」の全文が刻まれていて、これは「詩碑」と呼ぶには無理があるかもしれませんが、このようなモニュメントも当サイトの「石碑の部屋」には収めるようにしていますので、今日はここまで写真を撮影にやってきた次第です。
そもそもは、関東学院の「学院史資料室」の方から、当サイトの「岩手公園」詩碑の写真を使用してもよいかという問い合わせがあったので、このようなモニュメントの存在を私が知ったことがきっかけでした。いろいろな出会いがあるものです。
下に、銘板に刻まれた説明内容を掲載しておきます。タッピング一家は、日本の各地でいろいろな業績を残されましたが、まだ私などはそのほんの一部しか知りません。
タッピング・ポンド
( TOPPING MEMORIAL POND )「タッピング・ポンド」は、タッピング家を記念して造られたものである。1962(昭和37)年、本学の教員であったウィラード・タッピングの妻、エヴェリン(同じく本学教員)の寄附金を基に、卒業生等の寄附金を加えて竣工された。この度、新しい建物と共に「タッピング・ポンド」も新しくなった。1895(明治28)年、ウィラードの父(ヘンリー)と母(ジュネヴィーヴ)は宣教師として来日し、東京中学校(後の東京学院。関東学院の源流の一つ)に赴任した。その後、1907(明治40)年、タッピング一家は岩手県盛岡に活動の場を移した。盛岡では詩人・童話作家の宮沢賢治(1896-1933)とも出会いがあった。宮沢賢治は「岩手公園」と題した詩の中でタッピング一家のことをつづっており、その詩碑は盛岡市岩手公園にある。タッピング一家の関東学院をはじめ、日本各地における宣教と教育のための奉仕活動を記念し、タッピング・ポンドをここに設置する。
(以下、宮沢賢治「岩手公園」全文)
かぐら川
天気が良くてよかったですね。そう言えば、「大賀ハス」はここにあるのですね。
タッピング・ポンドの創設寄付をしたエヴェリン・タッピングの父君であり、伝道船「福音丸」で瀬戸内の沿岸と島々にキリスト教を広めた“ビッケル船長“のことを調べ始めたところです。エヴェリン・タッピングと賢治は直接関係してないようですが、若き日のエヴェリンに学んだ大村はまさんの書いたものを読むと、直接、間接にタッピング・ファミリーと賢治がつながっているような気さえしてきます。
そして根拠は脆弱なのですが、賢治は、本郷=国柱会時代に、近くの本郷中央会堂のパイプオルガンの音世界にふれたのではないかと思うのですが、さかのぼって賢治の学生時代に宣教師のタッピング夫妻は西洋文化の入口としての本郷中央会堂のオルガンと文化について教えたのではないかと考えています。そんなことを少しずつ確認していきたいと考えています。またご教示ください。
かぐら川
13日にタッピングポンドを訪ねられるとお聞きした時、ちょっとひっかかったことがあって、がしかし、それが何なのか思い当たらなかったのですが、今日、手元の資料を整理していてはたと気がつきました。《8月13日〔1942.8.13〕》は、ヘンリー・タッピングの亡くなった日でした。
hamagaki
かぐら川さま、貴重なご教示をありがとうございます。
そうすると私は、ヘンリー・タッピング氏のまさに命日に、'TOPPING MEMORIAL POND' に詣でてきたわけですね。
日本では「お盆」でもあるこの季節、京都では「五山の送り火」がさっきまで行われていました。
運命の女神と、この事実を知らせて下さった かぐら川さまに、感謝申し上げます。
かぐら川
最初にお詫びから。
ヘンリー・タッピング氏が亡くなれた日ですが、1942.8.13というのは、関東学院資料室の「関東学院の源流を探る12――ヘンリー・タッピング教授」末尾の年表に依った日付なのですが、net上の多摩霊園の墓碑を紹介したページでは、1942.8.30になっていますね。
きちんとした資料にみずから当たらずに、あわて書きしてしまって申し訳ありません。
このような基本的なところからきちんと始めないといけませんね。
私の方ではっきりとしたことがわかれば、すぐお知らせしたいと思います。
かぐら川
前回は、古い資料に依って8月13日を、ヘンリー・タッピングの亡くなった日と書き込んでしまいましたが、どうも8月30日が、正しいようです。失礼しました。
小林恵子さんの『日本の幼児教育につくした宣教師 下巻』(キリスト新聞社/2009.3)の第三章「幼児教育の専門家でピアニストのミセス・タッピング――彰栄学園と盛岡幼稚園の創立者」の章末に、簡潔な年譜があり、そこには「1942(昭和17)年8月30日 夫のヘンリー・タッピング逝去」とあります。
上記の本でもオルガン建造家でオルガニストでもあったガントレットとタッピング家との接点は見つかっていませんが、小林さんの論考はヘンリー・タッピングの音楽の素養の深さや盛岡に初めてピアノを持ち込んだことなどにふれており、「賢治と音楽」を考える上でも貴重な文献です。
hamagaki
かぐら川さま、こんばんは。
藤原嘉藤治の生涯について記した下記のサイトには、次のような記載があります。
http://www.geocities.jp/hatakeyama206/dokko/katouji.html
明治45年(1912年)というと賢治は盛岡中学4年だった年ですが、嘉藤治は賢治よりも早く、ヘンリー・タッピングやタッピング夫人に出会って、世話にもなっていたのですね。
その後、賢治は盛岡高等農林学校に入ってから、しばらくヘンリー・タッピングの聖書講義に出て、この時に盛岡浸礼教会にあったリードオルガンのタッピング夫人による演奏を、聴いたのだろうと推測されています。
さらに後になって賢治が、羅須地人協会の備品としてリードオルガンを購入し、独習したり上京時にレッスンを受けに行ったのは、さかのぼれば盛岡でのタッピング夫人との出会いが、遠く背景にあったのでしょうか。
かぐら川
上記の小林恵子さんの「幼児教育の専門家でピアニストのミセス・タッピング――彰栄学園と盛岡幼稚園の創立者」の「岩手県で最初のピアノを弾くミセス・タッピング」の項に、以下のようにあります。藤原嘉藤治について書かれたままのことが記されています。
“ミセス・タッピングは盛岡幼稚園を開設すると、米国の友人に依頼してニューヨークからピアノを取り寄せた。そのピアノは遠路はるばるシカゴからサンフランシスコまで汽車で運ばれた。そこから船で横浜に到着し約2カ月かかって、1908(明治41)年の夏に盛岡幼稚園にたどりついた。(一部略)
当時、盛岡にはまだピアノがなかったのでミセス・タッピングは音楽愛好者たちに喜んでこのピアノを開放し、使用を許した。そして、人々の要望に応じ自らピアノを演奏したので、盛岡を中心に岩手県に洋楽を普及させることになった。盛岡の師範学校や女学校の生徒や一般の人々のなかで、このピアノのお世話になった者は少なくない。また、ピアノを見学するため遠路はるばる訪ねてくる人もあった。岩手県ピアノ音楽研究会の会報に、音楽教育の先駆者として知られる新藤武は次のように述べている。
「私がピアノの音を始めて聞いたのもここ(盛岡幼稚園)である。また公会堂や盛岡劇場などで音楽会を開く時には、よくこのピアノを借用したものである。当時、私は大沢川原の盛岡高等女学校に勤めておったが年に一度の音楽会を開くにああたりタッピング夫人にピアノの演奏をお願いしたら喜んでべートーベンの「月光の曲」を弾いて下さった。(後略)」”
タッピングから話題はそれますが、藤原嘉藤治の生涯(ご紹介いただいたページは以前読んだことがありますが)も感動的ですね。
hamagaki
かぐら川さま、こんばんは。
タッピング夫人が、岩手における洋楽普及になした貢献の大きさを、あらためて感じる資料ですね。ご紹介ありがとうございます。
それから藤原嘉藤治の生涯も感動的であること、同感です。今日も少しだけ関連した記事をアップしました。