「岩手公園」詩碑

1.テキスト

   岩手公園

「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし

なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり

老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」

弧光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ

        賢 治

2.出典

岩手公園(定稿)」(「文語詩稿 一百篇」)

3.建立/除幕日

1970年(昭和45年)9月21日 建立/10月21日 除幕

4.所在地

盛岡市内丸 岩手公園 鶴ヶ池南側

5.碑について

 弟の清六が盛岡中学に入学した時、盛岡高等農林学校に在籍していた賢治は、弟にあてて盛岡を讃える手紙を書きました。(『兄のトランク』所収「最初の手紙」)

・・・若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣の上に立つて、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、河藻でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわかるだらう。・・・

 賢治は中学時代に5年、高等農林学校(本科および研究科)時代に5年、計10年を盛岡で暮らしています。
 賢治がいかに盛岡を愛していたかということは、たとえば上の手紙や、後年の作品「有明」(『春と修羅 第二集』)の「しかも変らぬ一つの愛を/わたしはそこに誓はうとする」という一節などからもうかがえます。
 なかでも、アークライトや川に象徴される、この岩手公園周辺の景色は、とりわけお気に入りだったようです。

 詩の中に出てくる「老いしタピング」(Henry Topping, 1853-1942)は、盛岡浸礼教会の牧師で、盛岡中学の嘱託として英語を教えていました。ただし、賢治が中学1年の年の9月に嘱託を辞任していますので、盛岡中学時代に賢治がタッピング先生に習ったかどうかはわかりません。
 むしろ、賢治は盛岡高等農林学校1年の時、同級生の出村要三郎を誘ってタッピング牧師が教会で開いていた聖書講座を受講したとのことで、この時に賢治が「老いしタピング」と直に接したのは確かでしょう。
 また、「なが姉」として登場するヘンリーの娘のヘレン・タッピングも、父と同じく盛岡中学で英語を教えていたということで、「去年なが姉はこゝにして/中学生の一組に/花のことばを教へしか」ということもあったのかもしれません。ここで描写されているように、タッピング一家が、岩手公園の散策を楽しむということも、よくあったのでしょう。

 「岩手公園」が文語詩として作品化されたのは賢治の晩年ですが、タッピング家の長男ウィラード・タッピング(1899年生れ)が大学生として登場していますから、これは賢治が高等農林学校生だった頃の情景だろうと思われます。


碑面拡大図