「賢治とイソップ」の周辺

  • 内容分類: 雑記

宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第38号 先ごろ宮沢賢治学会会員に届けられた「会報第38号」(右写真)に、昨年の9月の総会の際に行われた「リレー講演」の要旨が掲載されていて、不肖私が行った「賢治とイソップの出会い」と題した講演も収録していただいていましたので、何人かの方からメールで感想などを頂戴しました。
 その中で、ある方からたいへん興味深いご教示をいただきましたので、本日はそのことについてご紹介します。

 まず、私が講演でお話ししたことの核心は、賢治が晩年の「「文語詩篇」ノート」(下写真)において、中学時代の「寄宿舎舎監排斥事件」に関して記載していた「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という言葉は、あるイソップ寓話の一節に由来しているのではないか、ということでした。

「文語詩篇」ノートにおける「舎監排斥事件」

 イソップの「少年と蛙」という寓話は、少年たちが池にいる蛙に石を投げつけて遊んでいると、一匹の蛙が顔を出し、「どうかやめて下さい。私たちに石を投げるのは、あなた方にとっては遊びかもしれませんが、私たちにとっては、死なのです。」と言ったというものですが、これが出典なのではないかと考えたのです。
 ところが、最近私にメールを下さったある方は、この「あなた方にとっては遊びかもしれませんが、私たちにとっては、死なのです。」という言葉を、また別の意外な場所に、発見されたというのです。

 下の写真は、講談社・少年倶楽部文庫の『のらくろ漫画集』(田河水泡)第三巻の巻末に収録された、手塚治虫による解説文「『のらくろ』の魅力」の一部です。

手塚治虫「『のらくろ』の魅力」

 赤の傍線を引いてある箇所に、「おまえたちが遊びのつもりで射っても、こっちはいのちの問題なのだ」とあります。この言葉は、上記イソップ寓話の「あなた方にとっては遊びかもしれませんが、私たちにとっては、死なのです」と、ほとんど一致するではありませんか! すると田河水泡も、イソップの影響を受けていたのでしょうか?

 そこで私に上記のメールを下さった方が、手塚治虫が引用している『のらくろ軍曹』の「象狩り」のエピソードで、のらくろが「説教される」場面を調べてみられると、それは次のようなものでした。(講談社『のらくろ軍曹』1969年復刻版)

田河水泡「のらくろ軍曹」

 上記を見ていただいたらわかるとおり、田河水泡の原作には、「おまえたちが遊びのつもりで射っても、こっちはいのちの問題なのだ」というような言葉は、まったく出てこないんですね。
 これはいったい、どう考えたらよいのでしょうか。

 参考になるのは、手塚治虫が上記の解説文において、田河水泡を賞賛しながらも一方で吐露している、二人の価値観の相違です。「のらくろのもつヒューマニズムは、途中からブル連隊長やデカの跋扈によって、愛国心にすりかわってしまった」、あるいは「しかし、作者は残念なことにそこでも非をさとって引き揚げるブル連隊長に、のらくろをして「えらい上官だ」と賞賛させて、権威者への追従にしめくくっている」という部分に、その手塚の思いは表れています。
 さらに、問題の「象の説教」の箇所を少し詳しく見てみると、手塚治虫は、

のらくろは象につるし上げを食い、説教されるのだ。「おまえたちが遊びのつもりで射っても、こっちはいのちの問題なのだ」被侵略民族の悲しみがにじみ出て心打たれたものだった。

と書いていますが、田河水泡の原作における象の説教は、

犬も象も人間のために働き人間から可愛がられることが一番仕合せなのだ

ということを強調するものです。これは、「人間に支配される動物の心得」であって、「被支配者の道徳」と言わざるをえません。また、象がのらくろへの手土産として象牙を差し出すところなど、まるで宗主国と属国の朝貢関係を連想させます。
 つまりここには、手塚が指摘するように「被侵略民族の悲しみがにじみ出て」いるというよりは、支配―被支配の現実への追認が表れているように、私には思えるのです。ただ、もちろんこれは、田河水泡と手塚治虫のどちらがすぐれているという問題ではなくて、おもには戦前と戦後という時代精神の相違によることなのでしょうが。

 しかしこのように考えてみると、手塚治虫が「象の説教」に「被侵略民族の悲しみ」を見てとったのは、手塚による田河水泡の「解釈のし直し」なのであって、その解説文に現れる「おまえたちが遊びのつもりで射っても、こっちはいのちの問題なのだ」という原作にない言葉も、そのリフレーミングに際して手塚自身の薬籠の中から出てきたのだと、解釈してみることができます。
 そしてそうなると、「手塚治虫とイソップ」の関係ということが、次の問題としてクローズ・アップされてきます。はたして手塚治虫は、イソップの寓話「少年と蛙」を読んでいたのでしょうか。

 調べてみると、実際に手塚治虫がイソップをよく研究していたことをうかがわせる、手塚自身による記述がありました。下記は、秋田書店版『バンパイヤ』第3巻の巻末に、「あとがきにかえて」と題して手塚自身が書いている文章です。

手塚治虫「あとがきにかえて」

 赤傍線の箇所に、「ボクはよく、イソップ物語からテーマを失敬します。イソップ物語にはいろいろな人生の教えがあるからです。」とあります。また、手塚治虫にはその名も『珍イソップ物語』(1977)と題した作品もあって、これは、イソップの「金の卵を生むメンドリ」を題材に、設定を現代に置き換えたものでした。

 すなわち、いろいろとイソップの物語を読んでいたであろう手塚治虫には、「少年と蛙」を読んでいた可能性も、十分にありえるわけです。
 おそらく手塚は読んだことがあって、その一節の記憶が、田河水泡を評する際に心の奥からよみがえり、思わずそれが「おまえたちが遊びのつもりで射っても、こっちはいのちの問題なのだ」という田河の原作にはない言葉として表現されたのではないかというのが、私の推測です。

 このようなさまざまな仮定を含んだ推測ではありますが、私にこの手塚治虫の文章をご教示くださった方も、これに一応の賛意を示して下さったことは、私のささやかなよろこびでした。