今日は、「大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団 第15回東京定期公演 -宮沢賢治の世界-」を聴きに行くつもりだったのですが、疲労蓄積のために中止して、家にいました。日中はほんとうにいい天気で、部屋の中にいても気持ちよかったです。
ところで、1995年から刊行が開始された『【新】校本宮澤賢治全集』が、ついに完結しましたね。私の手元にも、数日前に Amazon から最後の配本となる『[別巻]補遺・索引』が届いて、何となく感無量です。
前回配本の『第十六巻(下)補遺・資料』が出てから7年あまりが経過しましたが、今回配本までの年月の長さは、この最終巻の編集がいかに大変だったかということを物語ってくれているようで、その重さを噛みしめながら手にとって見ています。
新校本 宮澤賢治全集〈別巻〉索引 筑摩書房 2009-03-04 Amazonで詳しく見る |
二分冊のうち厚さのほとんどを占める「索引篇」の巻は、当たり前ですが500ページの一冊すべてが索引になっていて、これだけを見ると不思議な感じの「本」です。でも、索引だけを眺めていても、賢治が作品中でどんな単語を使っているのか、またその使用頻度などもうかがわれて、面白いものです。これから、いろいろな場面で重宝させていただくことになりそうです。
それからもう一分冊の「補遺篇」で今回最大の目玉は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という新たな口語詩の収録です。今日は、そのテキストを入力して、「宮澤賢治全詩一覧」の表にも追加しました。私自身、この表に手を加えるのもじつに久しぶりです。
作品は、ちょっと諧謔味があって面白い語り口ですね。舞台となっている「停車場」については、いちはやく「賢治の事務所」の加倉井さんが「緑いろの通信 3月9日号」において考証をして、大船渡線の「陸中松川駅」ではないかとの説を提出しておられます。その推理の迅速さと適確さに敬意を表しつつ、私もその「陸中松川駅」に一票を投じさせていただきたいと思います。
作品中の地名「横沢」については、私も少し調べてみましたが、現在の「一関市東山町田河津字横沢」以外に適当なところは見つからず、加倉井さんと同意見です。
なお、作品中に登場する「佐藤猊ガン(猊巌)先生」については、「げいび観光センター」サイトの「歴史と渓内」に簡潔な解説があります。
さらに加倉井さんは、賢治がいつこの作品を書いたかという問題についても、1925年秋に「岩手県農業教育研究会」が千厩で開催された際のことではないかと、興味深い推測をしておられます。この研究会に県視学として参加した新井正市郎が、作品中に出てくる「きみ」ではないかという説には、その後の「銀どろ」の縁もあって、私もぜひ賛成したいところです。
ところで加倉井さんも引用しておられる新井氏の「銀どろの思い出」には、「宮沢さんは薄衣で下車され千厩までの乗合バスが横転して桑畑に落ちたが、誰も怪我がなかったことや…」と書かれています。「薄衣」は当時の川崎村薄衣で、薄衣地区そのものには停車場はありませんが、最寄りの「陸中門崎駅」で下車して、薄衣まで歩いてそこから乗合バスに乗ったということなのかと思います。
下の図のように、大船渡線の陸中門崎から千厩までの区間は大きく迂回していて、陸中門崎から千厩へ直接向かった方が、距離的にははるかに近いのです。
Wikimedia より
ところで、川崎村薄衣というと、私としてどうしても思い出すのは、賢治の初恋の人と言われる高橋ミネさんが、結婚してから住んでいたのが、ここ薄衣だったということです。ミネさんの夫の伊藤正一氏は、川崎村村長にもなられた方です。ただし、ミネさんの結婚は1929年ですから、賢治がここから乗合バスに乗った時点では、ミネさんはまだ来ていなかったでしょうが…。
話を戻しますと、上述のように賢治は1925年秋に薄衣から乗合バスに乗って千厩へ行ったようですから、往路と同じルートで研究会から帰ったとしたら、「陸中松川」は通らなかったことになってしまうのです。
とは言え、当時は摺沢まで開通したばかりの大船渡線ですから、鉄道好きな賢治ならば、帰りは千厩から摺沢まで行って、全線に乗ってみようとした可能性は考えられます。そしてなぜか陸中松川で下車して、作品の余白にあった赤鉛筆の書き込み「White lime Stone over the river(川向こうの白石灰岩)」を見たとしたら、これは後に賢治が「東北砕石工場」で働くことの予兆のようでもあり、何か運命的なものも感じてしまいます。
さて、大船渡線は上図のように、何とも非効率的な大回りする経路を走っていて、その形のために「ナベヅル線」と呼ばれたり、ルート決定が当時の政治状況に左右されたことから、「我田引鉄」の代表例のように言われることもあるようです。yuma's home の「大船渡線」のページによれば、
線引きでは陸中門崎から真直ぐ東へ向かい千厩へ至る予定だったが、大正9年の総選挙で政友会は原総理の地元岩手県の全県議の独占を狙い憲政会の候補を落選させるために摺沢の候補を擁立し、地元民の票獲得のため線路を北に曲げてしまった。
鉄道が通らなくなった千厩の人々は憲政会を頼って誘致活動を続けていたが、摺沢まで開通した大正14年当時の首相は憲政会の加藤高明。当然のように線路は南に曲がり現在の形になってしまった。
ということで、あまり美談とは言えないような経緯があるようです。
しかし考えてみれば、もしも大船渡線がこのように大回りをせず直接に陸中門崎から千厩へ走っていたら、鉄道が陸中松川を通ることはなかったわけで、そうしたらいくらそのあたりに石灰岩が豊富にあったとしても、鈴木東蔵氏がここに「東北砕石工場」を作ることもなかったでしょう。
となると、賢治が東北砕石工場で働くこともなかったことになり、やはりここに、運命の不思議さを感じてしまいます。
陸中松川駅舎内から石灰岩採掘場を望む(山の手前に川が流れている)
耕生
私の所にも先日、最終巻が届きました。
総索引があるといろいろと重宝しますね。
早速、文語詩の中に探しても見つからなかった「あらたなるよきみち」を引いてみたら、校異編の方に下書き稿として掲載されており、宝冠手帳にメモ書きされていたことがわかり、「なるほど」と、これまでの疑問が氷解しました。文語詩本文をいくら探しても見つからないわけです。
また、「賛美歌」で引いてみると、「銀河鉄道の夜」の中に賛美歌○○番で出ている歌がタイタニックの最後で演奏されたという「主よみもとに近づかん・・・」(賛美歌320番)であることもわかりました。これも校異編の下書き稿にしか出ておらず、今まで賛美歌の歌詞がみあたらなかったので??と思っていたのです。普段なかなか校異編まで目を通すことはないので、今回の総索引は本当に役に立ちます。
新しい口語詩「(停車場の向こうに河原があって)」に対する考証、敬服いたしました。1925年(大正14年)というと賢治がまだ花巻農学校の教員をしていた頃ですね。もうこの頃には翌春の退職を決意していたのでしょうか。興味深いものがあります。
士書政行
初めてHPを拝見し、「停車場の向ふに河原があって」を読みました。始めは難しい内容だなと思ったのですが、優しく判りやすい説明を拝見し、作品の奥深さが感じられて嬉しく思っています。
私は宮澤賢治の作品を数多く読んでなかったので照れくさいのですが、私の感想を少し述べてみたいと思います。
また、テーマから大きく外れてしまうと思いますが今しばらくの間お付き合い頂ければ幸甚と存じます。
さて、明治時代、大正時代といえば、列強諸国になるため、重商主義、重工主義、重農主義を国家基本戦略とし、その国家政策の一環として全国規模で陸路、水路、海路のインフラ整備を推進させてきました。
大正時代の原敬総理は、小選挙区制の導入、選挙権の条件緩和、教育制度の充実など、民本主義の実現に大きく貢献したのですが、一方で「我田引鉄」と評価されるように、選挙の票を得るため国家的鉄道事業推進のもと、全国各地で地元利益誘導の選挙体質が出来上がってしまいました。
そういう背景のなかで、曲がった線路が出来上がってしまったのですね。
また、かつて新幹線を作る際、京都―名古屋間が直線にならず、自民党の大野伴睦総裁の地元利益誘導によって岐阜羽島駅が作られて曲がった幹線路になったことが思い出されます。
宮澤賢治は重農主義において農業指導、農業教育を通じて豊かな国、強い農業立国を目指していただけに、鉄道に寄せる思いは人一倍強いもので、単なる鉄道好きではなく、我国における鉄道の重要性を政治的で現実的でクールな眼で見ていたのではないかと思います。
だからこそ、上記のような地元利益誘導体質や、鉄道行政の問題点に対し、時には強烈な感性で強い怒りのような念を抱くことも多かったのではないでしょうか。
そういった念を表現した作品があるかもしれないなあと思いましたが如何でしょうか(^―^)。
東北砕石工場に関するHPを閲覧しました。
東北砕石工場における宮澤賢治の指導によって、また、鉄道開通によって小岩井農場の発展に一定の効果がもたらされたそうです。
宮澤賢治の功績の大きさを少しでも感じることができました。
最後に。15日は疲労蓄積のため家にいらっしゃったそうですね。くれぐれもお体ご自愛下さいませ。
hamagaki
コメントをありがとうございます。お返事が遅くなって申しわけありません。
>耕生様
『索引』を眺めていると、単語から元の作品が思い起こされて懐かしい感じがするものもあったり、あれ、こんな言葉はどんな作品に出ていたんだろうと、気になるものも出てきたりします。時間があれば、各巻をあれこれ引っぱり出しては順に確かめたくなりますが、そのうちに部屋の中が足の踏み場がなくなって、困ってしまいます。(^^;;
「あらたなるよきみち」は、こちらのページに詩碑の写真もありますので、よろしければご覧下さい。
ところで、「〔停車場の向ふに河原があって〕」に関する考証は、ほぼすべて「賢治の事務所」の加倉井さんの読み解きに拠っていまして、私の独自なものはほとんどありません。加倉井さんに、敬服しています。
>士書政行様
さっそくに書き込みをありがとうございます。(^_^)
いつもながらスケールの大きな、物事の骨格から把握していくお話、たいへん興味深く読ませていただきました。
宮澤賢治と原敬、同じ岩手県出身で、時代もそれなりに重なる二人ですね。大正10年に賢治が家出上京した時の首相は原敬だったわけですし、賢治が花巻に戻ってしばらくすると、原は暗殺されてしまいます。賢治は同県人として、どんな風にこのような政界の激動を見ていたのだろうか、と思います。
ところで、宮澤賢治という人は、「重農主義において農業指導、農業教育を通じて豊かな国、強い農業立国を目指していた」という感じでは、何となくなかったような雰囲気なのです。書簡のごく一部に、当時の一般の帝国臣民の程度にはナショナリスティックなことを書いたものもありますが、普段の彼は、「国家」というものについて考えたり論じたりすることは、あまりなかった人なのではないかと思います。
農業に関しても、岩手県内にある高等教育機関がたまたま「高等農林学校」だったので進学した感じで、その盛岡高等農林学校を卒業してからも、農業のために尽くそうなどとは考えず、人造宝石を作ると言ったり、炭焼きになると言ったり、雲をつかむようなことばかり考えていました。その後、たまたま地元花巻の農学校の教師となったので、現実の農業や農家の若者たちに直接触れるうちに、農業の改革や農民芸術の興隆を考えるようになり、実践活動にも入ったという経緯だったと、私は理解しています。「農業教育を通じて豊かな国」を作ろうとするより、とにかく目の前の農民たちを助けたい、豊かにしたい、ということが願いだったのではないかと思うのです。
鉄道に対しても、「我国における鉄道の重要性を政治的で現実的でクールな眼で見ていた」というよりは、現代の世にもおられる鉄道ファンのように、鉄道に乗るのがとりあえず好きだったようです。(信時哲郎氏の「鉄道ファン・宮沢賢治」もご参照下さい。)
あと、(政治家に対する)「そういった念を表現した作品」としては、ずばり「政治家」という詩もありますね。賢治らしくやや抽象的ではありますが。