「あらたなるよきみち」詩碑

1.テキスト

あらたなる
 よきみちを得しといふことは
ただ あらたなる
 なやみの道を得しといふのみ

         宮 沢 賢 治

2.出典

「王冠印手帳」より (「〔打身の床をいできたり〕」(下書稿(一)))

3.建立/除幕日

1994年(平成6年)10月28日 建立

4.所在地

岩手県一関市東山町松川滝ノ沢平 東北砕石工場跡

5.碑について

 碑石の形は丸みを帯びてユーモラスでさえありますが、碑文は、この上なく暗いものです。さらにこの後には、「あゝいつの日かか弱なる/わが身恥なく生くるを得んや」という文句が続きます。
 世間では「理想主義者」として流通している宮澤賢治の言葉として、これほどまでに悲観的で絶望的なフレーズは、表立って引用されることは少ないものです。
 これは、賢治が東北砕石工場の技師として、慣れないセールスに東奔西走していた頃、手帳に書きつけていた詩想メモですが、困憊した魂が、思わずあげたうめき声かとも感じられてしまいます。(この時代の賢治の行動については、「農民芸術概論綱要」碑の項でもすこし触れました。)

 よりによって、どうしてこんなにつらい言葉を選んで、石碑に刻んだのか、立てた人はいったいどういう意図だったのだろうと、私は碑を見た時には思いました。
 その後わかったところでは、この碑を建立した方は、終戦直後に東北砕石工場に入社して、長年営業の仕事に携わっていた人だったということです。賢治が販売に歩いた跡を、やはりすべて回ったのだそうです。
 この人は、賢治がその昔にどれだけの苦労をしたかということを、きっと身をもって体験されたのでしょう。そして、賢治の悲痛な「うめき声」の、ほんとうの重みを感じて、共感しておられたのではないかと思いました。それ以外に、こんな悲しい碑を建てる理由を、私は思いつきません。

 賢治はその生涯で少なくとも三度、「よきみち」と考えて理想に燃えて開始したことが、「なやみの道」に変わっていくのを体験しています。
 まず、農学校教師になった時には、農家の子供に科学的な知識や文化を教えることで、地元の農業を発展させ、農民を物質的にも精神的にも豊かにできるのではないかと考えました。しかし、卒業する子供たちは、熱心に勉強した者ほど、農業に戻らず進学を希望します。学校当局も、進学者が多い方が学校の評価が上がると考えるので、農業を勧める教師賢治との間には、だんだん溝ができていきました。
 次に、ほんとうに農民を豊かにするためには、まず自分が「本統の百姓」になって、農民と直接に科学や文化を共有しなければならないと考えた賢治は、教師を辞めて農耕生活に入り、「羅須地人協会」を作ります。しかし、農民からは金持ちの道楽のように見られて冷たい視線を浴び、結局は受け入れられないままに、身体をこわしてしまいます。
 やっと身体が回復すると、東北砕石工場から石灰肥料の売り上げを増やす方法について相談がありました。この肥料を東北地方に広く普及させれば、農作物の増産により農家を豊かにすることができると考えた賢治は、最後に勇んでセールスマン役を引き受けて各地を飛び回ります。しかし思うように注文はとれず、農民に商品を売りつけて金を取るという自分の立場にも、矛盾を感じます。そのうちに彼は出張先で倒れて、死の床に就くことになりました。

 この碑文の言葉には、とにかく賢治の人生の実感がこもっていたのだと思います。それにしても、何度くりかえしてみても、つらく悲しい言葉です。

 碑が建てられているのは、当時賢治の「なやみの道」の象徴だった、東北砕石工場の跡地です。建物はきちんと保存してあって、内部の機械も、操業時の様子のまま見ることができます。
 工場の周辺は、「石と賢治のミュージアム」と名づけられて整備され、すぐ横には「太陽と風の家」という魅力的な施設もあります。しかしここで、工場跡を訪れる方にぜひ私がお薦めしたいのは、敷地内にある「ひまわり」という軽食処です。地元のおばさんが共同でやっておられるようですが、打ちたての手打ちうどんや、「ガンズキ」という手作りのお菓子が、おいしくて絶品でした。


東北砕石工場跡