瀬川貞蔵あて書簡

 『【新】校本宮澤賢治全集』の『[別巻]補遺』に新たに収録された資料の一つに、盛岡中学時代の同級生だった瀬川貞蔵あて書簡[60a][102b]があります。これらはすでに2003年に、瀬川氏の遺族によって公開されていたものですが、賢治が仲良かったはずの同級生で、縁戚でもある瀬川貞蔵にあてて出した書簡が、初めて全集に収録されたことになります。
 『[別巻]補遺』p.37に、「受信人略歴」として掲載されている瀬川貞蔵のプロフィールは、次のようなものです。

瀬川貞蔵(せがわ・ていぞう)
[60a][102b]
明29・3・1~昭28・4・2
出身は花巻町四日町。三代瀬川弥右エ門の次男(賢治母イチの末妹コトが兄周蔵と結婚した)。明42県立盛岡中学校入学。一年の一学期には寄宿舎で賢治と同室だった。金田一他人と親しみ、野球に熱中した。大3卒業、帰花して兄周蔵に代り家業に専念。後、家業のかたわら東北電力株式会社に勤務し、花巻営業所長を務めた。

 書簡の内容は、[60a]が、貞蔵がおそらく祖母の希望を受けて、高等農林学校卒の賢治に花の種苗を依頼した手紙への返事(大正7年5月10日付)、[102b]は、大正8年の年賀状です。全体の雰囲気や、他の書簡は見つかっていないことからすると、二人は頼み事などをできる関係ではあるが、「親友」としてつねに平素から交流が続いている、というほどの関係でもないようです。

 [60a]の文中には、貞蔵の「御親父様」という言葉が出てきますが、貞蔵の父である瀬川弥右衛門は、大正11年前後には花巻のみならず岩手県下トップの多額納税者でした(八木英三『花巻町政史稿―花巻市制施行記念』1955)。
 大正5年時点で、岩手軽便鉄道会社の持株数は、瀬川弥右衛門が648株、梅津東四郎が539株、宮澤善治が358株となっており、この三つの家が当時の花巻の「御三家」と言うべき存在だったのかと思います。きっと瀬川家と宮澤家の縁組みというのは、たいそう立派なものだったでしょう。それにしても、瀬川弥右衛門の「648株」というのは、当時の岩手軽便鉄道社長の金田一勝定が保有していた「600株」よりも多いものです。

 で、なぜ私が瀬川貞蔵のことにとりわけ関心があったかというと、牛崎敏哉さんも「宮沢賢治における金田一京助」(『北の文学』第50号)において触れられているように、金田一京助の「啄木と賢治」という文章に、次のような一節があったからです。

 賢治は、法華経の信者でその苦心の「国訳妙法蓮華経」の一本は私なども恵投に預かったが、それよりも、盛岡高等農林卒業後、上京して田中智学師の法華経行者の一団に投じ、ある日上野の山の花吹雪をよそに、清水堂下の大道で、大道説教をする一味に交り、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。中学では私の四番目の弟が同級で、今一人同じ花巻の名門の瀬川君と三人、腕を組んで撮った写真を見ていたから、顔は知っていたのだが、上野でよもやその中に居られようとは思いもかけず、訪ねてみえたのは、弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった。(『四次元』号外―宮澤賢治思慕特集(1957)より)

 「私の四番目の弟」というのが、上の瀬川貞蔵略歴にも出てきた金田一他人(きんだいち・おさと)で、彼と、瀬川貞蔵と、賢治の3人が、腕を組んで撮った写真があったというのです。このような写真を撮影したとすれば、盛岡中学でまだ低学年の頃でしょうか、あればぜひ見てみたいと思うのですが、残念ながらまだ発見されていません。

 上記の金田一京助の回想では、「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたか」と書いてありますが、賢治が金田一京助を訪ねたのは、田中智学の一団で大道説教の一味に交わっていたというからには1921年(大正10年)の家出上京中のことに違いありません。
 一方、京助の弟の他人が服毒自殺をしたのは、1920年(大正9年)11月26日のことで、この事実を賢治が知らずに訪ねたとは、思えないのです。これが金田一京助氏の回想の不思議なところです。

 ちなみに、下の新聞記事は、金田一他人の葬儀を伝える『岩手日報』大正9年12月5日の記事です。賢治も、その昔に一緒に写真を撮ったこともある友人に関して、このようなニュースを知らないはずはないのです。

『岩手日報』金田一他人訃報

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遮られた記憶 ~賢治と金田一家の人々(4)~ 京助篇

[参考文献]
近代化過程における地方都市商業者の関わり―岩手県花巻地方のインフラ整備を中心に