「7日乗船説」の最大の根拠となるのは、以前にも触れたように、サハリンでの作品「鈴谷平原」の中の一節です。萩原昌好氏も、『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』において、次のように述べておられます。
では、八月七日に乗らなかったか、というとやはり乗船した可能性が高い。なぜなら、「鈴谷平原」の日付が(一九二三・八・七)となっているからだ。言うまでもなく『春と修羅』の原稿も、それからもれた原稿も含め、原型はともかく、これらは全て帰宅後に整理清書されたものである。その上、訂正した様子もない。とすれば、その日付と
こんやはもう標本をいつぱいもつて
わたくしは宗谷海峡をわたる
だから風の音が汽車のやうだという賢治の独白を信じてよいと思う。
確かに「鈴谷平原」のこの部分は、スケジュールについての賢治自身による重要な記述です。ただ惜しむらくは、「こんやはもう標本をいつぱいもつて/わたくしは宗谷海峡をわたる」というのは、あくまでこの時点での「予定を述べている」にすぎないわけで、そこが、これを根拠に7日乗船説を主張する上で、唯一の弱点になっています。
萩原昌好氏が、上記でわざわざ「言うまでもなく『春と修羅』の原稿も、それからもれた原稿も含め、原型はともかく、これらは全て帰宅後に整理清書されたものである。その上、訂正した様子もない。」という補足を入れておられる意図も、その点に関連しています。ここで萩原氏が述べようとされたことを私なりに言い換えてみると、「かりに「鈴谷平原」をスケッチした後に予定が変更されて、7日に宗谷海峡をわたらなかったとすれば、帰宅後に整理清書を行った段階で、事実とは異なった部分は修正されるなり削除されるなりしたはずではないか」「したがって、旅行後に確定したテキストに「こんや」と書かれているのなら、それはそのまま予定変更がなかったと信じてよいのではないか」ということになるでしょうか。
実際、一見すると「実況中継」のように書かれている賢治の「心象スケッチ」にも、現実には「事後的」な視線が入っていることは、たとえば「永訣の朝」を見ても明らかです。
すなわち、
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
という冒頭の呼びかけは、結果的にこの日が妹の臨終の日となったことを賢治が「知って」からでなければ、書けないはずの言葉です。作品の基調は、
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
というふうに、まだ生きている妹を見守り、語りかける「現在進行形」の賢治の姿なのですが、テキストを推敲する過程において、作者が後からその出来事を顧みた様子が、組み込まれているのです。
萩原昌好氏の論拠も、このような事柄と関連しているのでしょう。
しかしそれでは、賢治のどの作品においても、「ある時点でスケッチされた内容が、その後の現実と違ってしまった場合には、事実に合わせて後から修正が加えられる」ということが言えるのかとなると、当然ながらそんなことはありません。
例えば、賢治が1928年8月~1930年頃の間の病臥期に書いた作品群「疾中」に収められている「(一九二九年二月)」は、次にように書き出されています。
われやがて死なん
今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる(後略)
賢治にとっては、死期がまさに間近に迫っているという感覚があったのでしょうが、実際には作者は、ここに書かれているように「今日又は明日」に死んでしまうことにはなりませんでした。
あるいは、「疾中」の中でも有名な「眼にて云ふ」の、
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです(後略)
に関しても同じで、幸いにして賢治はこの作品を書いてから「間もなく」ではなく、何年も生きてさらにたくさんの仕事をしてから、亡くなりました。
このように、作品に書かれた内容はその後の事実とは異なったのですが、作者はその部分を修正せずに、他の箇所には推敲を加えながら、作品として残しました。
このようなことは、一般に文学作品としてはごく当たり前のことと言えますが、賢治の「心象スケッチ」が、あまりにも現実を精密に記録しているかのような印象を与えるために、私たちも何となく誤解をしてしまいそうになります。
それに、そもそも賢治の「心象スケッチ」とは、客観的に「正しい」記録を残そうという試みなどではなく、移ろいゆくその時その時の「心象」を「ことばにうつす」ことだったはずです。
『春と修羅』の「序」の、
けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
(あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
という部分は、「時空を越えて正しい記録」というものなどは存在せず、その時その時に「われわれがかんじてゐる」ことがあるだけだ、ということを述べています。
また、「銀河鉄道の夜」の初期形でブルカニロ博士がジョバンニに見せる「地歴の本」の説明…
けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなと斯う考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだろう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってただそう感じているのなんだから、…
も、同じことを述べています。
で、冒頭の「鈴谷平原」の話に戻ると、
こんやはもう標本をいつぱいもつて
わたくしは宗谷海峡をわたる
だから風の音が汽車のやうだ
という部分は、まさにこの時点における作者によって「正しくうつされた」ことばであって、かりにその後に予定変更があったとしても、これはこれでその時点での「心象スケッチ」としての存在意義を持っているわけです。後で何が起こったとしても、その現実に合わせて修正される必要はありません。とりわけ、「こんやはもう標本をいつぱいもつて/わたくしは宗谷海峡をわたる」という作者の思いは、サハリンへの惜別の情となってこの作品全体の基調に流れる重要な構成要素ですから、なおのこと修正されにくいものでしょう。
すなわち、このテキストが「帰宅後に整理清書されたものである」からといって、必ずしも事実を表しているとは言えないということになり、この記述がこの時点での「予定」を述べているにすぎないという「弱点」は、残ります。
とは言え、「9日乗船説」の方も、「その後の予定変更」というやや強引な仮定を設けなければならないところは、やはりこれはこれで大きな「弱点」ですね。
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