二人の「異途への出発」

 大明敦氏編著の『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)という本に、盛岡高等農林学校2年の時の保阪嘉内について、次のような記載がありました。

いつもの嘉内ならこのあたりで帰省するところであるが、この年の暮れの嘉内は違っていた。『文象花崗岩』跋文を書いた十二月二十六日に学生には不要とも思われる名刺を作り、下宿で年を越した。その上、嘉内は大正七年の一月六日から九日まで青森県の八戸港まで旅行をしている。旅行の目的は不明である。名刺はおそらくこの旅行に備えて作ったものと思われるが、逆に急に思い立ったものか、旅費として小菅健吉と内山久から合わせて十一円四二銭を借り、帰盛後に返済している。この時、嘉内に何があったのか。具体的な事情は分からないが、大正七年が明けて綴り始めた歌稿ノート『ひとつのもの』に一月八日の日付で、

まことの国、まことの国と求め来て
行衛は知らぬ
道に迷ふも

あわれわが まことの国と
よそひとのまことの国と
へだてあるらん、

といった歌を記していることから、何か心の中に悩みや葛藤のようなものがあったことがうかがえる。また、やや日を置いて、一月十八日から二十日にかけて八戸への旅行の時の歌も数首記している。嘉内はいったい何を思っていたのであろうか。

半日の海に向かへば
さむさむと
八甲田山の
雪がうごけり、

鴉とばず
さむさむしきは
八戸の
入江の空の
藍色のつぼ

いまはただ
泣かんすべなし
雪降ると
赤い尖塔をながめ入りたり、

 つまり、目的は不明ながら、大正7年(1918年)の1月6日~9日の間、保阪嘉内はわざわざ名刺を誂えて、また友人に金を借りてまで、八戸方面を訪れたというのです。そして大明氏はこの時の嘉内に、「何か心の中に悩みや葛藤のようなものがあったことがうかがえる」と推測しておられます。

 賢治ファンならここで連想してしまうのは、賢治も7年後(1925年)のちょうど同じ時期に、八戸から三陸地方の旅行をしていることです。賢治の場合は、1月5日の夜行列車で花巻を発って、1月6日に八戸に到着、そこから三陸海岸を南下して、釜石を経由してやはり1月9日に花巻に帰っています(「旅程幻想詩群」参照)。
 そして、賢治のこの三陸旅行も、これまでの研究によっては「目的不明」であり、さらに賢治自身が「異途への出発」という作品の中で、次のような苦悩を告白しています。

みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ

 それにしても、1月6日~9日という日付と行き先の一致は、本当によくできた「偶然」ですね。また、二人とも旅行の目的がわかっていないことと、何か悩みながらの旅であったことも、私たちにちょっとした空想をかき立ててくれます。


 というだけの、偶然の一致の話なのですが、ところでこれを題材にして、ミステリー小説のようなものはできないでしょうかねぇ。

  1. 保阪嘉内は、ある秘密の目的を携え、1918年1月6日に八戸へ赴いた。しかしそれが、その年3月の彼の退学の原因となる(もちろん公式発表では、理由は伏せられている)。
  2. 1921年7月18日、東京で賢治と面会した嘉内は、賢治にこの「秘密」を伝えた。そして表面的には「絶交」して、以後二人はほとんど連絡を取っていないように装うことにした。しかし実は、水面下での二人の接触は続いていたのである。
  3. 1925年、今度は賢治が7年前の嘉内と同じ使命を帯びて、やはり1月6日の八戸に現れた。ところがこの動きのために、賢治もまた翌年3月に農学校退職を余儀なくされる(もちろん表向きの退職理由は別)。
  4. 退職した賢治は、1926年春から羅須地人協会を始め、その年の8月に、今度は妹たちとの家族旅行を装って、再び八戸を訪れた。しかしここに至って、賢治は翌年3月に花巻警察署長伊藤儀一郎の事情聴取を受けることになってしまう。
  5. そこでついに「秘密」は、次の人物に託されることになった。その「人物」とは、皆様もご存じの・・・?!

 ちょっと最近疲れているので、空想のしすぎです・・・(笑)。