1921年(大正10年)の賢治と父政次郎氏の関西旅行において、不思議なことの一つは、聖徳太子廟のある叡福寺に参詣するためにわざわざ大阪まで行きながら、なぜか同寺への参詣は中止して、法隆寺へ向かったことです。
この頃、叡福寺では「聖徳太子千三百年遠忌」が執り行われており、やはり「伝教大師千百年遠忌」が行われていた比叡山延暦寺と並んで、そもそもこの旅行の二本柱とも言うべき目的地のはずでした。そして父子は、当日朝に叡福寺への行き方を尋ねるために、京都で中外日報社を訪れるという手間までかけたのに、どうして近くまで行ってから、参詣をやめてしまったのでしょうか。
この謎を考えるためにいくつかの資料を見てみたいのですが、まずその前提として、ここで叡福寺へのアクセスを、整理しておきます。
京都から、当時の大阪府南河内郡磯長村にあった叡福寺に行くには、まず京都駅から国鉄東海道本線に乗って大阪駅へ行き、ここから城東線(現在の大阪環状線の東半分)に乗り換えて湊町駅(現在のJR難波駅)または天王寺駅へ行き、さらにここで関西本線に乗り換えて、柏原駅で下車します。柏原駅からは、当時の大阪鉄道(現在の近鉄道明寺線)に乗り、さらに道明寺駅で乗り換えて(現在の近鉄長野線)、太子口喜志駅で下車、ここから徒歩約3.5kmで、叡福寺に到着します。
父子関西旅行に関しては、当事者が直に書き残したものとしては賢治の短歌しかなく、後年の間接的な「二次史料」として、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の各氏が政次郎氏から聞き書きした文章があります(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
ここで、叡福寺参詣を中止した経緯について、三氏の記述を順に検討してみます。
まず佐藤隆房氏は『宮沢賢治』(1942)において、次のように書いています。
次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。高野に行く線に乗ればよいと教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え、奈良線に乗って奈良に向かいました。まず法隆寺駅に降り、寺に着いたのは午後二時頃でした。
上の記述でまず誤りと思われるのは、「奈良線に乗って奈良に向かいました」という箇所です。奈良線というのは、京都から木津までの国鉄線ですが、実質的にはさらに木津から奈良まで関西本線に接続して、奈良までは一本の列車で運行します。つまり、「奈良線に乗って奈良に向かいました」ということならば、大阪は通らずに、京都から直接奈良に行ったことになってしまうのです。これは、大阪を経由したとする小倉豊文氏や堀尾青史氏の記述と、食い違ってしまいます。
叡福寺(磯長の廟)に行くことを取りやめた経緯については、「教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え」と書いてあります。「分かりにくい所」であるのはそのとおりですが、ここでは「方針を変え」たのが、どの時点であったのかということが問題です。「奈良線に乗って」という部分も含めて上記の記述をそのまま受けとれば、父子は京都にいる間に方針を変えて、直接奈良に向かったということになるでしょう。
これは、理屈としてはありえることですが、上述のように小倉・堀尾氏の記述、そして現在『新校本全集』年譜篇にも採用されて現在の定説に近い扱いを受けている「大阪経由説」と相違してしまいますので、この佐藤氏の記述は、認めにくいと言わざるをえません。
次に小倉豊文氏の記述ですが、「旅に於ける賢治」(1951)には、次のように書かれています。
大阪市も全く素通りで、梅田の大阪駅から関西線始発駅の湊町へいそいだ。ところが当時磯長に行くのには関西線柏原駅に下車して大阪鉄道に乗り換え、更にもう一度道明寺で乗り換えて太子口喜志に下車、それから約一里を徒歩しなければならない。慣れぬ旅人には相当面倒である。そこで二人は柏原途中下車を中止してそのまま法隆寺駅まで乗つてしまつた。そしてそこで下車して法隆寺に参詣することにしたのである。「同じ太子の遺蹟であれば…」との下心であつたらしい。
この記述から感じられる疑問としては、大阪で4回もの乗り換えがあり、確かに「慣れぬ旅人には相当面倒」なのは事実ですが、それは京都の中外日報社で行き方を聞いた時からわかっていたことのはず、それを承知の上で大阪まで来ておいて、せっかく近くまで来てからなぜ急に、「柏原途中下車を中止」という判断を下したのか、ということです。
しかしこの疑問は、やはり小倉豊文氏の「『雨ニモマケズ手帳』新考」(1978)を読むと、私としては氷解しました。
最後に前述の京都から法隆寺へ行くのに大阪を廻った異様な行程について記しておく。この旅行の父の計画については前述したが、聖徳太子の聖蹟では先ず河内の叡福寺の墓参りを予定していた。そこで京都に着くと年来愛読していた「中外日報」社に立寄って道筋を教わり、大阪に出て関西線に乗り、柏原駅で大阪鉄道河内長野行の電車に乗換え、太子口喜志駅に下車して徒歩参詣する心算だったのである。ところが柏原駅を乗り過してしまった。そこで叡福寺を法隆寺に振りかえたのだとのこと。「帝国文庫」と共に政次郎から聴いた思い出の笑話の一つである。
すなわち、意図的に叡福寺参詣を中止したのではなくて、図らずも「柏原駅を乗り過して しまった」というのです。そうだったのなら、近くまで来てから急に方針が変わったのも納得がいきます。父子は前日に比叡山越えを敢行して、かなり疲れていたでしょうし、この日も朝から出かけていますから、車中で二人ともちょっと居眠りしてしまったとしても、不思議はありません。
最後に、堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述を見ておきます。
第四日、父愛読の中外日報社へいき磯長村叡福寺への交通をきき、大阪へ出て汽車に乗ったが教え方がまずかったか、線がちがうのであきらめて奈良へ出、興福寺門前の宿に泊る。
ここでは、叡福寺参詣中止の理由を、「線がちがうのであきらめて」と書いてあります。この時父子は、間違った路線に乗ってしまったのでしょうか。
しかし、大阪から法隆寺を経て奈良へ向かうのは「関西本線」であり、その途中に、叡福寺への乗り換えの柏原駅はあるのです。二人が現実に法隆寺や奈良に着いている以上、関西本線に乗ったのは確かですし、それならば柏原駅も通るはずなのです。
それでもこれを前提に堀尾氏の記述を強いて解釈すれば、例えば関西本線に乗る前に、どこかの乗換駅で間違えて別の線に乗ってしまって引き返し、それで余分な時間を費やしてしまったので、叡福寺参詣をあきらめた、などということならば理解できなくはありません。しかしそのような場合には、「線がちがうのであきらめて」とは表現せずに、「線をまちがえて遅くなったのであきらめて」などと書くのが自然でしょう。
少なくとも二人が乗った、法隆寺や奈良に至る線は、「線がちがう」わけではなかったのです。
以上、叡福寺参詣中止をめぐる三氏の記述はそれぞれに違っていて、錯綜しています。しかし、私としては上記のように、小倉豊文氏が「『雨ニモマケズ手帳』新考」に書いている、「(関西本線で)柏原駅を乗り過ごしてしまったから」というのが、最も納得のいく説明なのです。
さてここで二人が乗り過ごしたらしい関西本線柏原駅とは、実は賢治が5年前にはちゃんと下車して、農商務省農事試験場畿内支場に向かった駅でした。すなわち1916年(大正5年)3月25日、盛岡高等農林学校修学旅行に参加していた賢治は、午前10時6分の奈良駅発関西本線下り五一列車に乗り、10時47分に柏原駅で下車したのです。
下の図は、柏原駅と畿内支場の敷地です。(『農商務省農事試験場畿内支場一覧』(1903)より:赤字部分は引用者追加)
賢治たちは柏原駅で下車し、すぐ北西の畿内支場に行き、イネの人工交配による品種改良について、場長から詳しい講義を受けています。当時、この畿内支場は西ヶ原の農事試験場本場にもなかったような大規模なガラス温室設備を有し、これを用いてイネの人工交配研究においては世界の最先端の業績を上げていました。
そしてその中心を担っていた加藤茂苞は、賢治がここを見学した1916年に、山形にある陸羽支場の場長へと転任し、そこで1921年(大正10年)に、あの「陸羽132号」が誕生するのです。
後年に、賢治が農業指導者として「陸羽132号」を強く推奨するようになった背景には、学生時代にここ柏原村で聴いた、イネの品種改良の有効性に関する講義の影響も、きっと潜在していたのではないでしょうか。その意味では、この柏原の地は、賢治にとって重要な場所の一つと言ってもよいのではないかと思うのです。
最後に下の写真は、現在の柏原駅です。線路の左奥が、畿内支場の建物施設があったあたりで、線路の向こうは、試験用畑地が広がっていたであろう場所です。
賢治父子はここで乗り換えることはできませんでしたが、現在も柏原駅は、JR関西本線から近鉄道明寺線への接続駅の役割を果たしています。
三河人
奈良の宿「対山楼」の記事の時、ピント外れなコメントをした三河人です。
宮沢賢治さんについてまったく予備知識の無い私が、あの時以来図書館に行くと賢治さんの本を眺めるようになりました。そして
私が夜の車室に立ちあがれば
みんなは大ていねむっている。
その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草色の夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。
「まるっきりに肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。
という文章を見つけ、深い意味も解からないままコピーしました。
先月、「上ノ太子」駅へ出る用事があり、久しぶりに「道明寺線」に乗りました。奈良からJR関西本線で、王寺で各駅に乗り換えて柏原で下車。同じホームの後方反対側に「近鉄道明寺線」の乗り場がある。道明寺線は同じ車両が「大和川」を挟んで、まるで渡し舟のように柏原駅と道明寺駅を往復し、人を運んでいる。
電車が入ってくる、降りる人も数人、乗る人も数人。ホームで車掌さんから「上ノ太子」までの切符を買い、柏原までの乗車券を渡す。のどかな感じ。
道明寺駅では同じホームの反対側で「あべの橋」方面から来る各駅停車に乗る。次の「古市」で、前よりの車両は「長野線」、後よりの車両は「南大阪線」に切り離されるので、間違えないように気をつけて乗車。私は後より車両に乗り無事に「上ノ太子」へ。
道明寺線は便利な線だが一般的ではないようです。ですから恐らく賢治さん親子も ツイ まっすぐ法隆寺まで行ってしまったのかもしれません。
「京都」から「梅田」、「梅田」から「湊町」、「湊町」から「法隆寺」。そして「奈良」。興福寺門前の宿。どこかの宿帳に政次郎さんと賢治さんの名前が記帳されているはず。
さる沢のやなぎは明くめぐめども、いとほし、夢はまことならねば
三河人
ごめんなさい。
機械に不慣れなため重複してしまいました。
hamagaki
三河人さま、書き込みをありがとうございます。コメント受け付け画面の動作が重たいようで、お手をわずらわせてしまいまして申しわけありませんでした。
「ピント外れなコメント」とは、滅相もありません。
実は私はあの後、三河人様にいただいたご示唆にもとづき、「対山楼」の宿帳について「奈良県立図書情報館」に問い合わせをしてみました。すると、わざわざ天理大学図書館に尋ねていただいて、天理大学図書館に「対山楼」の宿帳が所蔵されているということを、教えて下さいました。
しかし今年の4月までは、同図書館は資料整理中とのことでしたので、5月中旬に閲覧申し込みをして、賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で宿泊したはずの1916年(大正5年)前後の宿帳を、天理まで拝見しに行ったのが、5月の終わりでした。
結果から申しますと、大正3年頃までは「東京高等師範学校」一行などの宿泊記録があったのですが、肝心の大正5年に関しては該当する記録がなぜか存在せず、賢治や「盛岡高等農林学校一行」などの宿泊は確認できませんでした。ご報告するほどの収穫がなかったので、ブログの方にも書かずにいたのが実情です。
しかし、由緒ある「対山楼」の宿帳に触れることができ、宿泊していた錚々たる要人の名前も少し垣間見て、私にとっては貴重な経験でした。これも、三河人様が情報を書き込んで下さったおかげで、本当に感謝申し上げます。
それから上に引用していただいた「青森挽歌 三」の一節ですが、私もこの記事の3日前に書いた記事の中で、死んだトシの行方を求める賢治について振り返ってみたところだったので、この作品に「法隆寺の停車場」が出てくることに、不思議な縁を感じました。賢治父子が法隆寺に参詣したのが1921年(大正10年)4月、そして父政次郎氏がおそらく古着の買い付けか何かの出張でまた関西地方に来て、法隆寺停車場でトシにそっくりの「わらす」を見たのが、(トシの死去=1922年11月から、賢治がこの作品を書く旅行に出た1923年7月までの間ということで)その約2年後、政次郎氏はいったいどんな気持ちだったのだろうと思います。
法隆寺には、「悪い夢を良い夢に変えてくれる」という「夢違観音」があることなども、何となく連想してしまいました。
それからまた、三河人様がたまたま最近、柏原駅を通られたというのも、不思議なご縁でした。
実は、現在「叡福寺」へ行くとすれば、上の記事中に書いたように近鉄長野線の喜志駅(当時は太子口喜志駅)で降りて徒歩3.5kmで行くよりも、近鉄南大阪線の上ノ太子駅からならば徒歩約1.6kmほどですから、上ノ太子駅の方が便利なのです。さらに、大阪方面から行くのなら、国鉄城東線で天王寺駅下車、向かいの大阪天王寺駅(現在の近鉄あべの橋駅)から大阪鉄道に乗れば、そのまま上ノ太子駅へ行けるので、乗り換え回数も少なくてすみます。それなのになぜわざわざ賢治父子は柏原経由で行こうとしたのだろう、と一時は気になっていたのですが、もう少し調べてみると、大阪鉄道の上ノ太子駅が開業したのは1929年ということで、1921年にはこの経路はまだできていなかったことに気がついた次第です。
しかし現在も、奈良方面から上ノ太子に行く場合には、三河人様の書かれているように、「柏原経由」が一般的なのですね。
道明寺線は、現在は短い支線で他線との直通列車もないために、ご指摘のようにまるで「渡し舟」のような格好になっていますが、調べてみると、この線は近鉄の路線の中では最も古い歴史を持っていて、「河陽鉄道が大阪と南河内を結ぶためや高野山参詣客を当て込んで、柏原―古市間を1898年(明治31年)に開業させたのが始まり」ということだそうです(Wikipediaより)。
開業当時は「本線格」の路線だったのが、前述のように、現在の近鉄南大阪線にあたる大阪鉄道の路線が1929年に開通してからは、「支線」に格下げされてしまいました。ですから、賢治父子が訪れた時点では、まだこちらが「一般的」な路線だったようです。
・・・と、三河人様の文章のおかげで連想が広がって、思わず長々と書いてしまい失礼しました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
三河人
三河人です。たいへんお手数をおかけしました。
そして、丁重な返信文をいただき恐縮しております。
このブログに集積されているこれまでの沢山の記事、情報、
これからも楽しく読ませていただきます。
ありがとうございました。