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農商務省農事試験場畿内支場

『新校本全集』第十六巻(下)年譜篇p.108 「関西における賢治」について調べているうちに、また『【新】校本全集』年譜篇の記載で、一つ気になることが出てきました。

 1916年(大正5年)の、盛岡高等農林学校の修学旅行における「3月25日」の行程について、『【新】校本全集』年譜篇には、右のように書いてあります。
 賢治たち一行が、奈良を後にして「大阪へ向かう途中、奈良県立試験場畿内支場を参観。」となっていますが、この「畿内支場」というのは、「奈良県立試験場」の支場ではなくて、正式名称としては「農商務省農事試験場」、すなわち国立の試験場の、「支場」だったのです。

 国立の農事試験場の歴史を見てみると、1886年(明治19年)に、「農務局仮試験場」が設置され、これが1893年(明治26年)に農商務省農事試験場になります。これは東京・西ヶ原にあった施設で、賢治の恩師である関豊太郎博士も一時在職していたところですね。
 この農事試験場(本場)に対して、全国各地に6ヵ所の「支場」を設けることは、すでに1892年(明治25年)に予算が通過していて、大阪、宮城、石川、広島、徳島、熊本の6支場が設置されました。1896年(明治29年)には、それぞれの支場が改称されて、上記はそれぞれ畿内支場、東奥支場、北陸支場、山陽支場、四国支場、九州支場となり、さらに東海支場、陸羽支場、山陰支場の3ヵ所も増設されました。(徳島県立農業試験場八十年史より)

 この、農商務省農事試験場「畿内支場」が当時の農業界でその名を馳せていたのは、何と言ってもイネの人工的品種改良における、画期的な業績によってでした。
 「育種史」というページの1904年(明治37年)の欄には、

 農事試験場畿内支場で、イネおよびムギ類の品種改良に着手.イネは加藤茂苞が担当.
 農事試験場畿内支場で全国から水稲品種を集めた結果、その数約3,500品種となる.
 加藤茂苞がイネの人工交配に成功

と書いてあり、この加藤茂苞(かとう・しげもと)氏は、荘内日報社の「郷土の先人・先覚」のページでも、「我が国品種改良の父」として紹介されています。

 上の『【新】校本全集』年譜篇の記載は、盛岡高等農林学校の「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の、森川修一郎による以下の記述をもとにしていると思われます。(『【新】校本全集』第十四巻校異篇p.21)

途中畿内支場を参観した。時期が悪かつた為、幾多の稲の品種栽培試験の有様を見る事が出来なかつかのは、実に残念であつたが、同場に於ける米麦試験の結果は、其日をして十分価値あらしめた事と思ふ。其上場長より懇ろなる御講話を承つた事は、吾々一同深く感謝に堪へぬ次第である。其講話の大体は支場の設立は明治二十六年なるも、三十七年より其迄の方針を変じて専ら品種の事、殊に米麦の品種に付き研究を始めた事、・・・(後略)

 すなわち、明治37年(1904年)に、加藤茂苞が本格的にイネの人工交配を始めたことは、畿内支場そのものの「方針を変じ」、支場として全力を投入したもとでの研究であったことがわかります。
 そして、すでにこの当時の「畿内支場」とは、日本におけるイネの品種改良のメッカとなっていました。遠く盛岡高等農林学校の学生にとっても、その名前は尊崇の対象であったことが、上の「修学旅行記」の雰囲気からも感じられます。

 さて、この時の体験は、賢治にも何らかの印象を残したでしょうし、じつは後年になって賢治自らが地元農家に推奨していた「陸羽132号」は、後に加藤茂苞が「陸羽支場」場長であった時に、指導して作り出された品種だったのです。
 あるいは、この「畿内支場」のあった大阪府南河内郡柏原村は、この5年後に賢治が父とともに聖徳太子廟のある叡福寺を訪ねようとして、汽車を乗り過ごしてしまった因縁の場所にもなるのですが、それらの話は、また別の機会にいたしましょう。