劇「種山ヶ原の夜」の報い

というニュースがありました。今月の1日に種山ヶ原で、「山開き」という行事があったのですね。
 賢治も、「高原」(1922,6,27)や「種山ヶ原」(1925,7,19)など、この場所を舞台とした素晴らしい作品を、今これからという時期に生み出しています。あの北上の高原は、まさにこれから良い季節に入っていくのでしょう。


 種山ヶ原といえば、かなり以前に「祀られざる神・名を録した神(1)」「祀られざる神・名を録した神(2)」というエントリを書いて、学校劇「種山ヶ原の夜」について取りあげたことがありました。
 その時私が推測したのは、賢治がこの劇において雷神・樹霊など土着の神々を、舞台の上で滑稽に生徒に演じさせたことに対して、誰かから、それは神々への冒涜だと批判されたことがあったのではないか、ということでした。それが、「産業組合青年会」という作品で繰り返される、あの謎めいた「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉の意味と関連しているのではないかと、考えたのです。

 ところで最近、森荘已池著『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)という本の中で、賢治がこの劇の後日談について森氏に語っている話を読みました。(以下、同書p.297-298)

『鬼神の中にも、非常にたちのよくない「土神」がありましてねえ。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね』と、云ったのを聞いたのは、宮沢さんがまだ、花巻農学校の先生をしておられたころ、私が盛岡から出かけて行き、宿直に泊まった大正十四年秋の夜の会話であった。そこは校長室で、光った大きいテーブルの上に馬追いが迷い込み、提灯をつけて宮沢さんが夜分わざわざ畑からもぎとって来たトマトが塩と一緒にテーブルの上にあった。ぼんやりした向うの森を窓から指して、「あの森にいる神様なんか、あまりよい神様ではなく、相当下等なんですよ」といったのであった。

・・・「種山ヶ原」を出し物にした時でしたがねえ、雷神になった生徒が次ぎの日、ほかの生徒のスパイクで足をザックリとやられましてねえ、私もぎょっとしましたよ、偶然とはどうしても考えられませんし、こんなに早く仇をかえさなくてもよかろうになあと、呆れましたねえ。

(中略)「種山ヶ原の夜」の中には、日雇の草刈や放牧地見廻人、また林務官や樹霊、雷神などが出てくるが、その雷神になって、赤い着物を着、「誰だ、畜生ひとの手ふんづげだな、どれだ、畜生、ぶっつぶすぞ」と怒鳴り、烈しく立上がって叫び地団駄踏んだ一人の生徒が競技の選手で、次ぎの日運動場で、丁度そのように地団駄踏んだ一人の生徒のスパイクか、或は自分のスパイクで、無残に足をつき刺してしまったということであった。

 というわけで、劇「種山ヶ原の夜」において、土着の神を劇に登場させたことに対しては、他人から批判されたかどうか以前に、賢治自身も苦い思いを味わっていたようなのです。
 それにしても、神様のことを「相当下等なんですよ」と評する賢治の態度は、信仰心が厚いというイメージの彼の言葉としては、ちょっと意外な感じです。まあ、仏教徒賢治の「仏」に対する思いと「神」に対する思いは違うのでしょうし、自分の大事な生徒に「仇をかえす」ような神には、腹に据えかねるところもあったのでしょう。

 このような「生徒の犠牲」があった後に、さらに「産業組合青年会」なる会合の場で、「祀られざるも神には神の身土がある」(=たとえ神社などに祀られていない土着の神でも、神には神としての身分と、おわすべき場所があるのだ)という批判を受けたとしたら、賢治としてはまさに「痛いところを突かれた」という感じだったのではないかと思います。

 で、作品「産業組合青年会」に戻ると、その冒頭部は、次のようになっています。

祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
  ……雪をはらんだつめたい雨が
     闇をぴしぴし縫ってゐる……
まことの道は
誰が云ったの行ったの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ

 引用の終わりの方の、「祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」という言葉も意味の解しにくい「謎」ですが、上の「生徒の犠牲」のエピソードや、一部の神を賢治が「相当下等」と見なしていたことを考えると、この言葉は、賢治自身が会合において発した言葉なのだろうという気がしてきます。
 発言で痛いところを突かれた動揺や、「神」に生徒を傷つけられた怒りもあって、賢治は「祭祀の有無を是非するならば、(あんな神は祀られなくて当然である)」、そして、「(劇にされた仕返しに子供に怪我させるような)あんな卑賤な神は、「神」という名前にさえふさわしくない」ということを、会の場で思わずむきになって言ってしまったのではないでしょうか。
 次の行の、「応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ」というのは、あの時なぜ自分は、いきまいてあんなことを答えてしまったのだろうと、後で冷静になってから、省みているのではないかと思います。


 さて、この舞台劇「種山ヶ原の夜」の公演や、「産業組合青年会」があった翌年である1925年7月、賢治は一人種山ヶ原を訪ねます。この時の情景は、同年7月19日の日付を持った「種山ヶ原」(「春と修羅 第二集」)に結実しますが、何と言ってもこの作品は、その最終形よりも、下書稿(一)第一形態で読むのが素晴らしいです。
 文字不明部分も多く不完全なテキストではありますが、賢治の詩の美しさのエッセンスの一つが、ここにはあると思います。

 ところで、その下書稿(一)第一形態の「パート二」の最後は、次のようになっています。

あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた
何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう
   ……寂かな黄金のその蕋と
      聖らかな異教徒たちの安息日……
わたくしはこの数片の罪を記録して
風や青ぞらに懺悔しなければならない

 さてここで、賢治が「この数片の罪を記録して/風や青ぞらに懺悔しなければならない」と言っているのは、いったい何の「罪」のことなのでしょうか。
 「パート二」の初めの方では、「かきつばたの花」をたくさん折ったことを「貪欲なカリフ」と表現していましたから、そのことのようにも思えますが、引用箇所で、「あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた/何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう(中略)私はこの数片の罪を記録して」と続いていることからすると、少なくとも問題の一つは、「いつか小さな童話の城を築いてゐた」ことにあるのだろうと思います。
 そして、いつかの「小さな童話の城」とは、賢治が前年に制作して実演した、劇「種山ヶ原の夜」のことだったのではないかと、ここで私は思うのです。

 前年にはいろいろな思いもあったけれど、大切な生徒に怪我をさせてしまった「罪」が自分にもあったと考えてみて、賢治はこの夏、「風や青ぞらに」懺悔をしようと、種山ヶ原の美しい季節にここにやってきたのではなかったでしょうか。

種山ヶ原
種山ヶ原(2003.5.4)