初代フィンランド公使ラムステット氏

 19世紀末から20世紀にかけてのフィンランド独立に向けた民族の熱気は、今でもシベリウスの交響詩「フィンランディア」を聴けば、歴史の彼方から甦ってくるような感じがします。様々な独立運動が行われては、ロシアによって弾圧されることが繰り返されたということですが、ロシアの2月革命によってその帝政が倒れた1917年12月、ついにフィンランド議会は独立を宣言します。
 その後まだフィンランド内部では、ソヴィエト連邦参加をめぐる内戦、王国から共和国への変遷がありましたが、1919年1月の第一次大戦パリ講和会議において、「フィンランド共和国」として欧州各国に認知され、日本政府も、1919年5月にフィンランドを事実上「国家承認」し、同年9月には外交関係が樹立されました。

 これを受けて、フィンランド政府は日本に代理大使を駐在させることを検討しはじめます。国ができて日も浅く、まだ職業的外交官もいなかった時期に、フィンランドが東洋のはずれの小国に関心を示した最大の理由は、「日本の地政学的位置が、ソ連東部における展開を見守る観測所としてふさわしいと考えられた」ためだったということです(フィンランド大使館:フィンランド・日本外交関係の歴史より)。フィンランドにとって、ソ連とはそれほど巨大で厄介な隣人だったので、その反対側にも「観測所」を置いておかないと心配だということなのでしょう。

初代フィンランド公使ラムステット そこで、フィンランドのホルスティ外相が、駐日公使となるよう直接口説いたのが、当時ヘルシンキ大学の言語学教授だった、グスターフ・ラムステット氏でした(右写真:フィンランド大使館HPより)。
 学者から突然極東のはずれの外交官に身を転ずるとは大変な決断だったでしょうが、ラムステット氏はこの依頼を受け入れ、1920年2月に、初代フィンランド公使として、東京に着任します。ソ連領内の陸路が使えなかったため、彼はマルセイユから「伊予丸」に乗って日本に向かいましたが、乗船前にロンドンで購入した書籍と日本人乗客の協力によって、東京に着いた時にはすでに流暢な日本語が喋れるようになっていたということです(さすが言語学者!)。

 ラムステット公使は1929年まで日本に駐在し、公務のかたわら、その専門の言語学の講義も、東京帝国大学などで何度か行っています。その講義を聴いて影響を受けた日本人学者としては、柳田国男、金田一京助、新村出などの名前も挙げられています。
 そして、われらが宮澤賢治も、ラムステット氏の講演を直に聴き、その上なんと彼に自著まで贈呈していたのです。

 それは、賢治が高村光太郎とも会ったと推定されている1926年(大正15年)12月の上京中のことでした。『【新】校本全集』年譜篇の、同年12月12日の項には、次にように書かれています。

一二月一二日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述をするのが一番だといわれる。この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつ贈ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。

 この年譜記事の根拠は、最後にも記されている父あて書簡[221]にあり、書簡本文は次にようになっています。

今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の招介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりない愉快な会でした。殊に私は少し倶楽部の性質を見くびってこちらで買った木綿の仕事着を着て行ったのでしたが行って見ると室もみな上等の敷物がありみんな礼装をしてゐましたので初めは少々面くらひましたが退くにも退かれず仕方なく憶面もなくやってゐましたら、そのうちフヰンランド公使が日本語で講演しました。それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で耳の痛くないのは私一人、講演が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしまひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが、この人は名高い博言博士で十箇国の言語を自由に話す人なので私は実に天の助けを得たつもり、早速出掛けて行って農村の問題特にも方言を如何にするかの問題など尋ねましたら、向ふも椅子から立っていろいろ話して呉れました。やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だとも云ひました。私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公使館に訪ねて行かうと思ひます。どうか土蔵から童話と詩の本各四冊ずつ小包でお送りを願ひます。(後略)

 そして、この最後に書かれた賢治の希望は実現していたようで、後年フィンランドのラムステット旧蔵書の中に、『春と修羅』『注文の多い料理店』が発見されたというのです(佐藤泰平「フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本」, 宮沢賢治研究Annual Vol.2, 1992)。
 なんとこの2冊は、はるばるユーラシア大陸の彼方、フィンランドまで渡っていたわけですね。

 ラムステット公使と賢治のエピソードは、フィンランド大使館のサイトの、「初代駐日フィンランド公使 G.J.ラムステットの知的外交」というページにも、次のように記載されています。

1926年12月、ラムステットは東京国際クラブで農業についての講演を行った。講演の最後に彼は「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った。唯一人その場に残ったのは、花巻農学校職員の宮沢賢治(1896~1933)であった。彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った。宮沢は、自らの文学作品の中で好んで方言を使用したので、2人はすぐに方言という共通の話題を見出した。

 上記の文章を書いたのは、カウコ・ライティネン氏という元フィンランド大使館報道参事官で、ページの下方に参考文献として挙げられているのは、ラムステット自身の著作をはじめフィンランド側の資料だけです。ただ、「彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った」という一文は、賢治の書簡中の「私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公使館に訪ねて行かうと思ひます」という部分に酷似していますので、ライティネン氏がこの文章の執筆にあたり賢治の書簡も参照した可能性はありますが、他の記載内容には、かなりの相違点があります。
 つまり、ライティネン氏の文章は、日本側の資料からある程度は独立して書かれているようであり、そうなるとフィンランド側の情報源をさかのぼれば、最終的にはラムステッド氏自身の記録や記憶がもとになっている可能性もありえます。
 ということであれば、双方の内容を比較してみることにも、それなりの意義があるのではないでしょうか。

 まず、当日の聴衆が、ラムステット氏の講演の内容に共感を示さなかったらしいことは、双方の資料とも述べているところです。賢治の書簡では、「耳の痛くないのは私一人、講演が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしまひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが…」とあり、ライティネン氏の文章では「彼は(中略)不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った」と記されています。
 また、賢治の肩書きは、ライティネン氏の文章では「花巻農学校職員」となっていますが、実際には賢治は1926年3月末で花巻農学校を退職しており、ここは事実と違っています。その由来は、ライティネン氏が賢治の経歴を調べる際に少し間違ったか、ラムステット公使が当日に賢治の自己紹介の時制を聞き違えたか、というところかもしれません。
 双方の記述で、実質的に最も相違が大きいのは、ラムステット公使の講演内容そのものに関する部分です。賢治は、「それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で…」と書いているのに対し、ライティネン氏は、「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と書いており、この話が聴衆の不評を買ったという「結果」のみでは一致しているものの、言っている内容は、ほとんど正反対のことであるのが不思議です。「物質文明を排す」という反近代主義的主張と、「農業技術の近代化が重要」という観点は、どうしても相容れないでしょう。

 これに関して私は、ライティネン氏が参考文献にも挙げていた、グスタフ・ラムステット著『フィンランド初代公使滞日見聞録』(日本フィンランド協会, 1987)という本を図書館で読んでみましたが、残念ながら宮澤賢治との会話に触れた箇所は、ありませんでした。しかし、著書から読みとれるラムステット氏の基本的な考え方は、当時の一般的なヨーロッパ知識人のそれであり、「物質文明を排す」というような思想は、どこにも見受けられませんでした。
 したがって、講演内容が上記二つのうちのいずれかであったとすれば、私としては、ライティネン氏が書いている「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」という方に、信憑性を感じます。ラムステット氏の講演がこのような趣旨であったとすれば、その「日本の農業技術の近代化が必要である」ということに関しては、農学者としての賢治もまさに同意見だったでしょうし、現実にそれを実践しようとしたのが、賢治の生涯の大きな一側面であったわけです。

 そもそも、生前の賢治自身も、「物質文明を排す」ということまで主張していたわけではありませんから、別にラムステット氏の講演内容を、我田引水的に曲解したとも思えません。ただ、「物質文明を排して新しい農民の文化を建てる」という一節の後半、すなわち「新しい農民の文化を建てる」という点は、「農民芸術概論」などに現れているように、賢治が最も強く夢見たことでした。
 「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(「農民芸術概論綱要」)という言葉にも見られるように、賢治には、「都市」―「農村」という対立軸においてものを考える傾向はあったようですから、ラムステット氏の講演の聴衆の中で、自分だけが農村で「百姓」を経験している者、他はみんな都会の人々、という意識はあり、「耳の痛くないのは私一人」という点を誇張して、父親あての手紙に書いてみたという面もあったのかもしれません。

 学者としてのラムステット氏の思想には、ローカルな・土着的なものを尊重しようという方向と、普遍性を追求しようとする方向の、二つの面がありました。前者は、柳田国男の民俗学や方言研究、金田一京助のアイヌ語研究にも影響を与えましたし、後者は、ラムステット氏自身がエスペランティストであったところに、最も典型的に表れています。賢治との会話でも、「方言」の話と「エスペラント」の話という、180度逆の話が同時に出ているのが、象徴的です。
 そして、賢治自身の作品も、まさに土着的・民俗的な要素と、宇宙的・普遍的な要素が混在しているのが特徴で、この二人は、そういう意味でも深い親和性を持っていたのではないかと思います。
 さらに大きく見れば、ヨーロッパの東端のフィンランドも、アジアの東端の日本も、それぞれの中心ではなく周縁にあり、そのような「文化の中心」ではない場所を発想の起点とするからこそ、土着性と普遍性という二つの要素に、ことさら意識的となるのかもしれません。


 これは、遠く離れた二つの小国の、まったく異なった経歴を持つ二人の、ほんとうに偶然の出会いだったと思います。できればラムステット氏の、『春と修羅』や『注文の多い料理店』に対する感想を、聴いてみたかったところです。