宮澤賢治氏の新たな草稿発見か

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【ハーナムキヤ発-4月1日】 イーハトーブ県ハーナムキヤ町出身の宮澤賢治氏は、「いっぷう変わった農学校の先生」として当地では有名な存在だったが、一方で童話や詩も書いていたことは、案外知られていない。
 このたび、地元ハーナムキヤ署の「毒もみのすきな署長さん」は、2年ぶりに記者会見を行い、宮澤氏が生前書き遺していたと思われる草稿が、最近新たに発見されたことを明らかにした。

 この草稿は、同町にある「猫の第六事務所」で職員が年度末の片付けをしていたところ、昔「かま猫」氏が使っていたという机の引き出しの奥から見つかったもの。古びた原稿用紙の冒頭には「銀座鉄道の夜」と記されており、これが題名ではないかと推測されている。

 内容は、宮澤氏独特の筆蹟で、複雑な推敲や原稿一部の切り貼りが行われており、正確な復元のためには、例によってA沢氏やI沢氏など専門家による作業を待つ必要があるという。
 ただ、会見において同署長は「個人的な見解」と断りながらも、「生前の宮澤氏は東京東京地下鉄銀座線にたくさんの思い出と憧れを残しており、この物語は、彼が亡くなった後に、地下鉄銀座線(右写真)に乗って、その思い出の地を訪ねるという設定になっているのではないか」と述べた。
 銀座線は、1927年(昭和2年)に日本最初の地下鉄として開業した路線であるが、車内からその暗い車窓は、昼間でも「みんな水族館の窓」のように見えることから、宮澤氏にはある懐かしい夜汽車の旅を想起させたので、とくに題名に「夜」という言葉を用いたのではないかという。

  実際、東京地下鉄銀座線(浅草~渋谷)の各駅には、宮澤氏に思い出深いと推測される場所が、下記のように「きら星のごとく」点在していると、同署長は指摘している。しかし、識者の見解の大勢は、詳細は今後の研究に委ねるしかないだろうというものであり、それにしても署長さんは毒もみで死刑になったはずなのに、今頃何を言っているのか、と訝しがる声も一部からは聴かれた。

  • 浅草駅
       浅草の
       木馬に乗りて
       哂ひつゝ
       夜汽車を待てどこゝろまぎれず。(歌稿〔B〕 275)

  • 上野駅
        ※ 上野
       東京よ
       これは九月の青りんご
       かなしと見つゝ汽車にのぼれり。(歌稿〔B〕 349)
    「上野に着いてすぐ国柱会へ行きました。」(関徳弥あて書簡[185])
    「私は毎日朝七時半乃至八時に病院に参り模様を聞き書信上げ候後上野の図書館にて三時頃迄書籍の検索読書等を致し…」(宮澤政次郎あて書簡[117])

  • 万世橋仮停留場(1930-1931)
       甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。(保阪嘉内あて書簡[19])

  • 神田駅
        ※ 神田
       この坂は霧のなかより
       おほいなる
       舌のごとくにあらはれにけり。(歌稿〔B〕 346)
    「博物館にはいゝ加減に褪色した哥麿の三枚続旧ニコライ堂の錆びた屋根青白い電車の火花神田の濠には霧の親類の荷船きれいななりをした支那の学生 東京は飛んで行きたい様です。」(保阪嘉内あて書簡[153])

    神田の夜」(「東京」)

  • 日本橋駅
       日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかゝるさびしさ。(保阪嘉内あて書簡[19])
    (また、日本橋には宮澤氏が上京中に何かと世話になった小林六太郎氏宅があった。)

  • 京橋駅
       そらしろく
       この東京のひとむれに
       まじりてひとり京橋に行く。(歌稿〔B〕 274)

  • 銀座駅
    「一般に見送りして行く者の方が見送られる人よりもつらい様でございます。あれから私は銀座を晩くまで歩きました。…」(高橋秀松あて書簡[20])

  • 新橋駅
    (1928年6月、上京中に新橋演舞場を訪れたと推定されている。)

  • 渋谷駅
    「九時出発九段に集合、電車で渋谷分場(注:農事試験場渋谷分場)参観。本場は本校の先輩のよく行かれる処、実科が隣だけに気持ちが善い。先輩の桑嶋、高橋の二兄が隈なく案内の労をとられる。…」(盛岡高等農林学校農学科第二年修学旅行記:同級生長谷川迪の文章より)

東京地下鉄銀座線
東京メトロ銀座線