京都における賢治の宿(1)

 1921年4月、宮澤政次郎氏は、家出して東京にいた賢治を誘い、関西方面の旅をしました。この時、京都にやってきた父子は、「三条小橋の旅館布袋屋」に泊まったということが『【新】校本全集』年譜篇にも記されていますが、「布袋屋」という旅館は現存していません。
 この旅館がどの場所にあったのだろうということが以前から気になっていたのですが、三条小橋商店街理事長の大西弘太郎さんにお尋ねしたところ、現在は「加茂川館」という旅館になっている場所に、戦前は「布袋館」という旅館があったということを、教えていただきました。


 東海道の京都池田屋騒動之址側起点とされている「三条大橋」は、三条通が鴨川を渡る橋ですが、そこから西に90mほどのところ、三条通が高瀬川を渡るところにかかる橋が、「三条小橋」です。
 長さ10mにも満たないようなかわいい橋なのですが、そのすぐ西には新選組の「池田屋事件」の旧跡があったり(右写真)、橋の東の佐久間象山・大村益次郎遭難之碑たもとには「佐久間象山先生・大村益次郎卿遭難之碑」(左写真)があったり、いろいろな歴史的事件の舞台ともなっています。
 この地は、東海道を歩いて旅してきた人が、やっと三条大橋にたどり着いて宿をとるというロケーションにあって、江戸時代から宿屋が多く並んでいたということです。幕末の頃に諸国から集まった志士たちも、この辺の宿に身を潜めたり集結したりしたわけですね。ちなみに左の写真で、「高瀬川」と書かれた石の欄干が、「三条小橋」です。


 さて、この三条小橋から三条通を東へ50mほど行ったところ、通りの北側に面して建つ立派な旅館が、「加茂川館」です(下写真)。

加茂川館

 加茂川館のサイトをご覧いただくと、旅館についてより詳しい情報も見られます。また、こちらをクリックしていただくと、MapFan Web でこの旅館の場所が表示されます。

 この場所に、戦前は旅館「布袋館」があり、その後「近江屋」という旅館だった時代があって、数年前から現在の「加茂川館」となっているということです。

 ところで、三条小橋商店街の大西さんからは、この場所に建つ旅館の歴史について、さらに興味深い情報も教えていただきました。

『東海道中膝栗毛』七編上 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、「三条の編笠屋」という旅籠が登場するのですが、この「編笠屋」とは、江戸時代にこの加茂川館のあった場所~すなわち賢治の泊まった布袋館のあった同じ場所~に、実在していた旅籠だったということなのです。右の画像は、岩波文庫版『東海道中膝栗毛』「七編上」の一部ですが、弥次郎兵衛が京の五条大橋のあたりで、相撲取りのような男にからまれそうになるところです。相撲取りが、「こつとらは今三条の編笠屋から出て來たものじや」と言っています。
 思わぬところで、思わぬ由緒に遭遇するものですね。

 三条小橋商店街振興会では、このようなエピソードもあること、そしてこの地が江戸時代には京都の「玄関口」であったことにちなんで、三条大橋のたもとに、弥次郎兵衛と喜多八の銅像を建てています(右下写真)。
弥次喜多像 二人の後ろに見えるのは、鴨川と三条大橋です。


 1921年4月のある日の午後、下坂本の港で汽船を降りた賢治ら父子は、840mもある比叡山を、歩いて滋賀県側から京都府側へ越え、おそらく夕闇の中を三条大橋を渡って、ここにあった「布袋館」という旅館に、荷を解いたのです。
 賢治は24才、政次郎氏もまだ47才とはいえ、二人の健脚には感心させられます。

 下の写真は、二人が越えてきた比叡山(画面中央)を、三条大橋から望んだところです。
 三条大橋から比叡山を望む

(今回の私の問い合わせに対し、ご親切にお答えいただいた三条小橋商店街の大西弘太郎さんに、感謝申し上げます。)