あるものは火をはなつてふ(2)

 前回にひきつづき、「文語詩稿 五十篇」の「〔いたつきてゆめみなやみし〕」のことです。


いたつきてゆめみなやみし、(冬なりき)誰ともしらず、

そのかみの高麗の軍楽、  うち鼓して過ぎれるありき。


その線の工事了りて、   あるものはみちにさらばひ、

あるものは火をはなつてふ、かくてまた冬はきたりぬ。


 鉄道線路の工事が終わってしまうと、現場で働いていた多くの在日朝鮮人労働者は仕事を失います。長く病床に臥していた賢治が、やっと新聞を手に取れるようになって紙面を見てみると、失業した朝鮮人の中には、飢えて路頭に迷ったり、放火を行った者まであるという記事を目にしたというのです(「下書稿(一)」参照)。

 ここで、「朝鮮人が放火をする」という話を聞くと、否が応でも連想してしまうのは、関東大震災(1923)直後の戒厳令下の東京で、「朝鮮人が火を付けたり井戸に毒を入れている」などの流言蜚語が飛びかい、このために数千人(吉野作造調査で2711人、独立新聞調査で6415人)とも言われる在日朝鮮人や中国人が、軍や民間自警団によって虐殺されたという歴史です(参考サイト「日弁連勧告書」、「関東大震災・朝鮮人虐殺流言」)。
 賢治が、この作品のモチーフの一つとなった「新聞記事」を目にしたのがいつだったのか、具体的な年はわかりませんが、いずれにせよ関東大震災からまだ10年はたっておらず、「朝鮮人による放火の噂」や、「それに続いて起こった理不尽な大虐殺」の記憶は、まだ人々の脳裏に生々しかったはずです。そのような中で、「朝鮮人が放火をした」という事件は、どのようなスタンスで新聞報道されたのかということに、私は興味を抱きます。

 たとえば私が気になるのは、当時でも国内の放火犯は、朝鮮人よりも日本人の方が数としては圧倒的に多かったはずですが、犯人が朝鮮人だった場合の方が、ニュースとして取り上げられやすい傾向がなかったのかどうか、というようなことです。
 さすがに現代では、一般新聞が被疑者の民族によって露骨に扱いを変えるというようなことはないでしょうが、それでもなぜ私がこんなことにこだわってしまうのかと言うと、現代でこれと似た位置にあるものとして、犯罪報道における「精神科治療歴」の扱いというのがあるからです。何らかの被疑者が逮捕されて、その人が精神科にかかったことがあったとなると、犯罪との関連の有無は吟味せずに、その治療歴の情報が、さも意味ありげに報道されます。そうなるとニュースの受け手は、どうしても犯罪と精神障害を無意識のうちに結びつけてしまいがちで、「精神障害者は怖い」という偏見が助長されていきます。
 実際には、精神障害を持った人の犯罪よりもそうでない人の犯罪の方が圧倒的に多く、また内容的にも、精神障害でない人の犯罪の方が、統計的にはより「凶悪」であるにもかかわらず・・・です。
 この辺に、戦前の日本人の間に、「朝鮮人はつねに日本人への復讐を考えている」というような恐怖感が醸成されていったこととのアナロジーを、感じてしまうのです。

 ・・・と、かなり話が横道にそれてしまいましたが、いずれにせよ私は、賢治が「あるものは火をはなつてふ」と書くもとになった新聞記事とは、いったいどんなものだったのだろうかという点にちょっと興味があって、また暇があれば調べてみたいと思っています。


 それからあともう一つ、「あるものは火をはなつてふ」と直接は関係ないかもしれませんが、「岩手県内で鉄道工事に従事する在日朝鮮人労働者」の身の上に起こった出来事として、何か因縁めいたものを感じざるをえない一つの事件について、新聞記事の若干の抜き書きをしておきます。
 それは、1932年5月、大船渡線の工事の際に勃発した「矢作事件」と呼ばれる出来事で、その実態は、労働争議をきっかけとした、日本人の暴力団的組織による朝鮮人労働者への襲撃・虐殺でした。
 事件の内容については、「矢作事件 1932」というページに、簡潔に書かれています。

 大船渡・気仙沼地区の地元紙である「大気新聞」は、1932年5月6日付けで、この事件の第一報を掲載しました。(以下引用は、西田耕三著『朝鮮人虐殺・矢作事件』,さんりく文庫,1984より。)

<大船渡線十三区で内地・鮮人土工大乱闘、即死三名、負傷者十数名>
 4日午後7時半ごろから、5日早朝にいたるまで、岩手県気仙郡矢作村有田組配下土工の飯場(大船渡線十三区)に、待遇問題から内地土工と鮮人土工とが、手に手に棍棒をもち、戦争さながらの大乱闘を演じ、内地土工一百余名に夜襲された鮮人側は、太田金一ほか2名の即死者、十数名の重軽傷者を出した。
(中略)
 この土工乱闘事件は、探聞するところによると、有田組配下における内鮮土工の差別待遇?から起きたらしく、最近かたっぱしから馘首された朝鮮人土工たちが生活の脅威から解雇手当を要求したのに対し、つねに朝鮮人土工を排撃がちの内地土工連が、右の要求を生意気とみなし、有田組に同情した結果、4日午後7時半、突如土工百余名が、有田組配下の山田飯場、竹本飯場(ともに朝鮮人飯場)を襲撃して大乱闘を開始し、死傷者十数名を出すにいたったものである。

 地元新聞には、翌日も事件の続報が多数掲載されますが、5月8日付け「大気新聞」では、次のように報じられています。

<乱闘のぶり返しを恐れて引続き警戒中>
 既報・大船渡線十三工区(気仙沼矢作)の土工乱闘事件は、殆ど鎮圧された状態にあるが、鮮人土工の復讐などが流言蜚語されているので、盛・千厩署員、それに応援の気仙沼署員が引続き十三工区全線にわたり乱闘のぶり返すのを恐れて警戒中である。一方有田組では、今回の事件に対してはなんら責任がないようなことを語っている模様であるが、鮮人土工の背後には全国的な大団体相愛会が控えているので事件の解決はなかなか容易でないとみられている。

 そして、5月9日付け紙面では、例によってというか、「鮮人襲来の流言」が地元に広がっていたことが報じられます。

<鮮人襲来の流言に戦々兢々の矢作村>
 三百人の鮮人土工が東京から押しよせるとか、相愛会本部に於ては、復讐戦の協議中であるとか、殺された鮮人の幽霊が出るとかいう種々の流言蜚語がさかんなばかりか、休業中の鮮人土工がそっちの山陰にこっちの日向にゴロゴロ昼寝などをしているので、事件発生地たる矢作村では、ワラビ取りなどの山入季節なのに誰一人として仕事に出るものもなく、また夜はもちろん昼間でも道路を歩く村人もなく、全く火の消えた有様である。隣村上鹿折にもこのデマが乱れとんでいるので、部落民は戦々兢々、これがため急遽夜警団を編成して事件のあった翌日から徹宵警戒の騒ぎを演じている。


 1932年5月というと、賢治は病床にありましたが、やっと歩ける程度には回復し、友人たちの訪問を受けていました。文語詩の創作・推敲作業も、進行していた頃と思われます。
 矢作事件の報は、もちろん花巻の新聞にもかなりの大きさで載っていたはずで、たとえば「下書稿(一)」で、「許されて新紙をとれば/かの線の工事了りて/あるものはみちにさらばひ/あるものは火をはなつてふ」と、朝鮮人労働者の身を案じていた賢治ならば、どのような気持ちでこのニュースを受けとめたのだろう、と思います。

 「〔いたつきてゆめみなやみし〕」の背後には、当時の在日朝鮮人が置かれていた、苛酷な環境や差別の問題があります。賢治は自らが病重かった時にその太鼓に力を与えられた縁から、彼らの身を案じ、心を痛めました。しかし彼自身は、もはやこの問題に対して何かをできる状況にはありませんでした。
 「かくてまた冬はきたりぬ。」という淡々とした結語には、そのような賢治の忸怩たる思いも、こめられているようにも感じます。