賢治は、1912年の5月27日から29日、盛岡中学の修学旅行で、松島~仙台~平泉を訪ねました。下の写真は、賢治が後年になって、文語詩創作のために「自分史」をメモしていた、「「文語詩篇」ノート」の一部です。
上の内容を活字化すると、下のとおりです。
四月 中学四年
五月 北仙台修学旅行
伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
磯ノ香伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風。落チタル海藻
岩ハ洪積中尊寺、偽ヲ云フ僧 義経像 青キ鐘
上二段は、旅行中に許可を得て、一人で病気療養中の伯母平賀ヤギを見舞った時の情景を記していて、三段目は、旅の三日目に当たる5月29日に、平泉の中尊寺を訪ねたことに関する記録のようです。
この時の中尊寺を題材として詠んだ短歌に、次の二首があります。
8 中尊寺
青葉に曇る夕暮の
そらふるはして青き鐘鳴る。9 桃青の
夏草の碑はみな月の
青き反射のなかにねむりき。
「桃青」は松尾芭蕉の俳号の一つで、「夏草の碑」とは、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句の「句碑」のことと思われます。この句は、中尊寺からほど近い「高館」において、源義経が自刃したことを偲んで、芭蕉が詠んだものです。
一方、同じ時の体験にもとづいた文語詩として、「中尊寺〔二〕」があります。
中尊寺〔二〕
白きそらいと近くして
みねの方鐘さらに鳴り
青葉もて埋もる堂の
ひそけくも暮れにまぢかし僧ひとり縁にうちゐて
ふくれたるうなじめぐらし
義経の彩ある像を
ゆびさしてそらごとを云ふ
こちらの作品は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」という部分に関係がありそうですね。
さて、私は先日の旅行の際に、これらの作品に描かれている場所を、実際に訪ねてみました。
まず、最もわかりやすいのは、「短歌8」などに「青き鐘鳴る」として登場する「鐘」で、これは中尊寺の参道である「月見坂」をほぼ登りきったところにある、「鐘楼」(右写真)の鐘と考えられます。
説明板に書かれた「由緒」には、次のように記されています。
「当初は二階造りの鐘楼であったが、建武四年(1339)の火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である。
撞座(つきざ)の摩耗はなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどない。
鐘身 高さ113.2cm
口径86cm
基本振動123サイクル
全音持続50秒」
あと、中尊寺にある「鐘」としては、本堂の横にも立派な梵鐘があります(右写真)。この鐘は1975年に作られたもので、これ以後は「除夜の鐘」も含めて、こちらの新しい鐘が使用されているのです。
しかし、賢治が訪れた1912年には、当然ながら上の古い方の鐘が、まだ現役で使用されていたわけです。
次は、「短歌9」に出てくる「桃青の夏草の碑」です。
じつは中尊寺にも、金色堂の傍らに芭蕉の句碑はあるのですが(右写真)、碑になっているのは、「五月雨の降のこしてや光堂」という句で、「夏草や…」ではないんですね。
そこで、中尊寺近辺で「夏草や…」の句が刻まれている碑を調べると、1.5kmほど南の「毛越寺」に三つ、および1kmほど南東の「高館」に一つありました。
このうち、「高館」にある句碑は、1989年の「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」の際に建立されたものですから、賢治が目にした可能性はありません。また、「毛越寺」にある三つのうち一つは、「夏草や…」の句を新渡戸稲造が英訳したものを刻んだ、珍しい英文碑ですが(右写真)、建立されたのは1967年で、これも賢治は見ていません。
ということで、結局賢治が目にした可能性のある「夏草や…」の句碑としては、毛越寺にある下の二つということになります。
ちょうど二つが並んで立っていますが、左側のものが芭蕉真筆の句碑で、最初は「高館」に置かれていたものを、1769年にこの毛越寺境内に移したもの、右側の碑は、平泉出身の俳人素鳥が、1806年に立てたものです。
賢治も、この二つの碑を一緒に見たのでしょう。
さて最後は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」、あるいは「中尊寺〔二〕」の、「僧ひとり縁にうちゐて/ふくれたるうなじめぐらし/義経の彩ある像を/ゆびさしてそらごとを云ふ」です。
これらから推測されるのは、僧の守る「堂」があって、その中に「彩色された義経の像」があったという状況です。ところで「義経の像」といっても、「画像」なのか立体的な「像」なのか、これだけからは何とも言えません。
そこで、まず「画像」の方から考えてみると、中尊寺に所蔵されている源義経の肖像画としては、「伝源義経公肖像」(右写真)という絵と、「源義経公東下り絵巻」があります。
これらはいずれも「彩ある像」ですが、どちらも古い貴重な文化財的絵画ですから、僧一人がいるような小さな堂において、一般の中学生に自由に見せていたとは、ちょっと考えられません。したがって、賢治が目にしたのは、何らかの立体像だったのではないかと思われます。
ということで、中尊寺やその近辺にある源義経の彫像について調べると、それは二つあって、一つは、義経が最期を遂げたという高館の「義経堂」にある、源義経像です(下写真)。
そしてもう一つは、中尊寺の「弁慶堂」にある、弁慶と義経の並んだ像です(下写真)。
この二つの像も、いずれも「彩ある像」で、この様子だけからは、賢治が見たのがどちらだったかを判断することはできません。
しかし、「中尊寺〔二〕(下書稿(一)」を見ると、「義経の経笈を守る」という一節があり、賢治が見た義経像と一緒に、「義経の経笈」が保存されていたということがわかります。
一方、「弁慶堂」の「由緒」(右写真)を見ると、終わりから3行目に「安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある」と書いてあり、(その真贋はともかく)義経が背負っていたという「笈」が、宝物とし陳列してあることがわかります。
すなわち、賢治が見た「義経の彩ある像」とは、写真では下の方の、中尊寺弁慶堂にある義経像だったのではないかと推測されるのです。そして、「青葉もて埋もる堂」とは、「弁慶堂」のことだったと思われます。
地図に記入してみると、(A)は中尊寺鐘楼、(B)は中尊寺弁慶堂、(C)は毛越寺芭蕉句碑です。
賢治たち修学旅行の一行は、中尊寺だけではなくて、毛越寺も訪ねていたわけですね。
『【新】校本全集』年譜篇によると、この日の帰途において、一同は汽車に乗り遅れそうになって駆け足で停車場へ急ぎ、夜11時25分に盛岡駅に着いたということです。この列車は臨時列車だったということで、平泉駅発の時刻は「補遺伝記資料篇」を参照してもわかりませんが、別の列車は平泉から盛岡まで2時間51分かかっていることからすると、夜8時半頃に平泉駅を発車したのではないかと思われます。
毛越寺は、中尊寺から平泉駅に向かう途中にありますが、上の列車時刻からすると、一行はかなり遅い時刻まで毛越寺にいることもできたわけです。5月末の、日の長い季節とはいえ、あたりは薄暗くなっていた可能性はあります。
その暗さを思えば、「夏草の碑はみな月の/青き反射のなかにねむりき。」という情景描写が理解できる気がします。
かぐら川
桃青の夏草の碑はみな月の青き反射のなかにねむりき
この歌にどうもわからないところがあるので、ご教示いただければと思います。
常識的に考えて、この歌は「桃青の/夏草の碑は/みな月の/青き反射の/なかにねむりき」という風に、に五七五七七に区切ることができると思うのです。とすれば、この歌中の「みな月」がわからなくなってしまうのです。
「みな月」は、「水無月(みなづき)」と考えるのが妥当だとおもうのですが、とすれば、「六月(陰暦の)」ことになると思います。しかし、賢治が平泉を訪れたのは、6月ではなく5月――正確には、1912(明治45)5月29日――ですから、ここからは「みな月(水無月)」は、でてきません。5月を古風にいうのであれば、「さつき(皐月)」です。
ちなみに、この1912(明治45)5月29日」を陰暦に逆算?すれば、四月十三日にあたることになります。ですからこの日の月は、満月の二夜前の十三夜であり、かなり丸く明るい月だったことにはなり、そこからこの歌の情景描写をより確かに再現することができますが、この陰暦の月を詠もうとするなら「うづき(卯月)」としなければならないことになります。
芭蕉の夏草の碑を照らし出した月の怪?・・・、どう解いたらいいのでしょうか。
ちなみに(を再び繰り返しますが)、芭蕉が平泉を訪れたのは、「元禄二年五月十三日」。グレゴリオ暦に換算すると1689年6月29日となり、――西暦ベースで考えると、同じ29日ですから――賢治は、芭蕉の223年後の年のちょうど1か月後に、同じ地を訪れたことになり、ちょっと奇遇を感じます。
ちなみに(を三度繰り返すますが)、芭蕉の「おくのほそ道」平泉の項と、同行者・曾良の五月十三日の日記は、↓で読めます。(私が数年前に書いたもので、賢治にも少しふれています。)
http://d.hatena.ne.jp/kaguragawa/20040629
〔追記〕
上で、あえて「桃青の」の歌を、五七五七七で区切ってみたのは、「桃青の/夏草の碑はみな/月の青き反射の/なかにねむりき」という変則的な区切りも別に成り立つかな?と思ってのことです。
かぐら川
〔追記〕
私が芭蕉の東北北陸の旅を、曾良の日記をグレゴリウス暦に直して日々追いかける「《おくのほそ道》奇行」をある俳句サイトの掲示板に書きこんだのが5年前のこと。そのとき賢治の修学旅行の平泉行も紹介したのですが、その稿にも“宮沢賢治は、盛岡中学の生徒の時代(16歳)のときに修学旅行で平泉、塩釜、松島を訪れています〔1912(M45)5/27~29〕。”と書いています。
今となっては、5年前にどの年譜を参照してこの修学旅行の日〔1912(M45)5/27~29〕を、確認したか記憶がありません。
たしか文語詩「中尊寺」をとりあげた論考(*)があったはずと思って探し出したら、そこには「宮沢賢治は明治四十四年(一九一一年)、盛岡中学校三年生の六月、十六歳で平泉中尊寺に修学旅行の際数首の短歌をつくっており、・・・」とあるのです。(年も違えば、月も違うのです。)
*=参照:牛崎敏哉「中尊寺〔一〕」(『宮沢賢治文語詩の森』/柏書房/1999.6)
この牛崎さんの論考のデータ〔六月〕と、「みな月」とでは平仄があうのです・・・。
修学旅行の日を、1911年6月とする説がある(あった?)のでしょうか。
hamagaki
かぐら川様、貴重なご指摘をありがとうございました。
実は私も、エントリを書きながら、この短歌の「みな月」が気になっておりました。その時点では、やはりご指摘のように「常識的に考えて」、「みな月」=「水無月」だろうと解釈して、5月と6月のズレには何となく目をつぶっておりました。
しかし今回あらためて、かぐら川様に「夏草の碑はみな/月の反射のなかにねむりき」という解釈を呈示していただいて、もう一度考え直してみました。
まず、この修学旅行の時期に関して、1911年6月とする記述があることは、ご教示によって初めて知りました。あわてて『宮沢賢治 文語詩の森』の、牛崎敏哉氏による「中尊寺〔一〕」の評釈を参照すると、確かにご指摘のとおり1911年6月と書いてあります。しかし、これは何かの間違いと考えざるをえません。
賢治の平泉地方修学旅行が1912年(明治45年)5月27日~29日であったことは、『【新】校本全集』第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」に収録されている「岩手県立盛岡中学校学校行事」p.78を参照してもこのとおりであり、あるいは、賢治が父政次郎にこの旅行について報告した「書簡4」の消印が「45・5・30」であることからしても、疑いようがないことと思います。
そうするとやはり、5月でありながら賢治は「水無月」と書いたのか、それとも「夏草の碑はみな/月の反射の…」と区切るべきなのか、ということが問題になります。
他の人がこの短歌について論じていないか、ちょっと手もとで調べてみたかぎりでは、洋々社『宮沢賢治 12』において中村純一氏が、この歌に関して「芭蕉の碑が六月の緑の反射の中にねむっているという新鮮な十五歳の歌」として紹介し、「水無月」説をとっています。
ここで「みな月」=「水無月」と解釈した場合に私が感ずる難点として、少なくとも次のようなことが挙げられます。
(1) まず最初には、これまで述べてきたように、実際にはこの時は6月でなくて5月だったこと。5月も末ですから、日数のずれは小さいですが、わざわざ「水無月」とする理由は何だったのでしょうか。
(2) 「水無月の反射」とは、いったい何のことなのか。上に引用した文では「六月の緑の反射」と解釈していますが、賢治たち一行がこの毛越寺を訪れたのは、明るい日中ではなくて、かなり暗くなってからの時間帯の可能性が高いと思われます。「反射」と言うからには、何かの「光」が前提とされているはずですが、「水無月」では意味がとりにくい。
(3) 「水無月」を「みな月」と表記するのは、歌の雰囲気としてやや不自然。全体が柔らかい和語調であれば、「みな月」とするのも理解できるが、この歌には、「桃青」「夏草」「反射」など漢字の言葉も並んでおり、この流れならば「夏草の碑は水無月の」と表記する方が自然に思える。
一方、「夏草の碑はみな/月の反射の…」と解釈した場合の難点としては、
(1) 句の切れ方が変則的
(2) 芭蕉の「夏草や…」の碑は、毛越寺境内に確かに並んで二つ立っているが、二つを総称して「みな(皆)」と言うのは、やや大げさな感じ
といったところでしょうか。
ちなみに、1912年5月29日の平泉における、日没は18時52分、月の出は17時21分、月齢は12.5でした。
また、汽車の時刻からすると、賢治たちは20時すぎまで毛越寺にいることも可能でした。20時には、月は地平線から22度ほどの高さに上っており、かなりの月明かりもあっただろうと思われます。
結局、私にはどちらの解釈が妥当であるとか判断する力はありませんが、今回のかぐら川様のご指摘をきっかけに、「夏草の碑はみな/月の反射の…」という解釈の方に、やや心を引かれています。
かぐら川
問題提起を受けとめてくださり、ていねいな整理をしていただいて有り難うございます。
まず、修学旅行の日付を確定していただいたことで、浜垣さんが整理していただいたように、論点があきらかになりました。
A)「みな月」=「水無月」と解釈する場合
B)「夏草の碑はみな/月の反射の…」と解釈する場合
そこで、ちょっと私の愚考したことをメモしてみます。
まずBですが、芭蕉句碑が毛越寺境内に二つ並んで立っているという浜垣さんの報告から、“こういう受け取り方もあるな”というのが、私にとっても出発点になっています。しかも、この歌をここで区切って歌ってみても、――私にとってはですが――大きなリズム上の違和感がないということもこの異説の立脚点になっています。
が、賢治の遺した短歌のなかで、このような区切りはほかにもあるのでしょうか。これは、賢治にとって短歌という詩形が何であったかという問題にも通ずる論点です。
私は、現在Aの立場でこの歌を受け取っています。
浜垣さんの論点(1)については、この歌が実際、歌として書きとめられたのはいつだったのか、という点も気になるところです。平泉での現地でのメモだったのか、後日(6月中)、記憶想起と推敲でできあがったのか。後者であれば、「水無月」になりうる可能性も――錯誤であれ、意図的であれ――あるのではないかということです。
Aの立場のもう少し積極的な理由は、論点(2)(3)に関わってきます。「反射」は、月光の(青色のイメージ的な月光の)反射であろうと思われるのですが――ここを、うまく説明できる能力はありませんが――、この「青」もからんでそこは水にちなむ「みな月」だろうと思われるのです。
やぼったい解釈ですが、賢治は「水無月」=「水の無い月」では、「青」のイメージと結びつかない・背反すると思い、「みな月」の“な”を助詞の“の”意味で読み取ることも可能になるように、「みな月」(水の月)と書いたのではないか・・・・。
――というようなことを考えて、楽しんでみました。また、ご教示ください。
かぐら川
“何事も原点(原典)に戻るのが一番!”、ということで、『賢治全集』――といっても私が持っているのは「ちくま文庫」――を、久しぶりに引っぱりだしました。たしか賢治は短歌の行分けについては、かなり自由に――行分けなし、二行分け、三行分け、四行分けなど――行っていたことを思い出したのです。
正直なところ、賢治の詩や童話は、先駆形とかを全集で確認したことがあるのですが、短歌は“「歌稿A」と「歌稿B」があり”というあたりから面倒になって、全集でその形を自分の目で確認するということをしたことがほとんどなかったのです。
平泉での感興にもとづいて詠われた二首の歌は、こうでした。
中尊寺
青葉に曇る夕暮の
そらふるはして青き鐘鳴る
桃青の
夏草の碑はみな月の
青き反射のなかにねむりき
ご覧のように、二首とも〔五/七五/七七〕の3行に分けられて記されているのです。このように記されている以上、「青桃の/夏草の碑はみな/月の反射の…」という風に〔五九/五七七〕と区切って解釈するのはあまりにも無理がありすぎるように思われます。
やはり「みな月=水無月〔六月〕」と取るべきなのでしょう。が、とすれば、浜垣さんが提示された3つの難点は、この歌を理解する場合に欠かせない重要な論点になってきます。また、「水無月」=「水の無い月」という直截なイメージを避け、暗に「水の月」を想起させるために《みな月》という表現をとったかも・・・という拙論も、多少は検討の価値が出てくるでしょうか。
〔追記〕
なお、驚くべきことに――私が無知なだけなのかもしれませんが――「森荘已池校註『宮澤賢治歌集』」には、上の2首の間に下記の5首が載せられ平泉の歌は7首となっています。(なお、行分けは、記載のまま)
膨れたるうなじめぐらし
さりげなく
そらごといへばいよいよさびしき
この堂は青葉めぐらし
僧一人
大なる口を歪めてゐたり
白きそらいとも近きに
この堂は
青葉めぐらし僧一人ゐし
義経の経笈を守る山僧のうなじ膨らし
縁にうちゐて
にせものの
像をゆびさし
さりげなくそらごとをいふ
山僧の一人
かぐら川
上のコメント中、「ご覧のように、二首とも〔五/七五/七七〕の3行に分けられて記されているのです。」の後に、「これは浜垣さんが本エントリーの本文に、原典から引用されている形でした。自分でテキストにあたってみてあらためて思うのですが、」が、抜けていました。手直しした際に、脱落してしまったようです。浜垣さんと読者の皆さんにお詫びいたします。
以下、直した部分を再掲しておきます。
「ご覧のように、二首とも〔五/七五/七七〕の3行に分けられて記されているのです。これは浜垣さんが本エントリーの本文に、原典から引用されている形でした。自分でテキストにあたってみてあらためて思うのですが、このように記されている以上、「青桃の/夏草の碑はみな/月の反射の…」という風に〔五九/五七七〕と区切って解釈するのはあまりにも無理がありすぎるように思われます。」となります。
hamagaki
かぐら川様、次々と鋭いご指摘をありがとうございます。
「みな月」という言葉の背後に、「水な月」=「水の月」というイメージが秘められていて、その月光の「青き反射」のなかで碑がねむる・・・。それは素晴らしく幻想的な情景ですね。
少し前に読んだ、佐藤通雅著『賢治短歌へ』という本では、これまで賢治の短歌の「特異性」としてやや否定的に見られることもあった側面を、戦後の「前衛短歌」にも通ずるものとしてとらえなおすということが行われていましたが、こういう風に読めば、まさに「前衛短歌」のように複雑で重層的な語法になるかと思います。感じ入ります。
ところで、「歌稿〔B〕」における賢治の短歌の「分かち書き」ですが、啄木の場合よりもさらに細かく、4行や5行に分けて書かれている場合もあるのですが、行分けされる箇所としては、ほとんどの例において、五・七・五・七・七の句の切れ目のどこかで、改行されているようなのです。
適切な例かどうかわかりませんが、例えば「歌稿〔B〕」の120に、
酒かすの
くさるゝにほひを
車ひく
馬かなしげにじつと嗅ぎたり。
という短歌があります。これは、もしも意味内容に忠実に分かち書きをするとすれば、
酒かすの
くさるゝにほひを
車ひく馬
かなしげにじつと嗅ぎたり。
とするべきところかもしれませんが、賢治は上のように表記しています。
つまり、「五・七・五・七・七の句の切れ目のどこかで改行する」ということが優先しているようなのです。
したがって、
桃青の
夏草の碑はみな
月の青き反射のなかにねむりき
と表記されておらず、
桃青の
夏草の碑はみな月の
青き反射のなかにねむりき
となっているからと言って、意味内容の切れ目が、下の表記のとおりになっているとも断定できないように思います。
あと、〔追記〕に書かれた、森荘已池校註の『宮澤賢治短歌集』に載っているご指摘の五首は、『新校本全集』の短歌の巻には収録されていません。これらは、「歌稿〔B〕」の余白に作者が書き込んでいたもので、森荘已池氏は、「短歌の推敲あるいは改作」と解釈して「歌集」に入れたのだと思われますが、『新校本全集』では、短歌を文語詩に改作する過程での、「文語詩の下書の一部」と解釈して、「中尊寺〔二〕」の「下書稿(一)」の一部として収録されています。
最後に、私なりにも少し調べてみると、芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ題材である「源義経の死」は、和暦では文治5年4月30日のことですが、これを西暦にすれば、1189年6月15日になるのですね。(「歴史データベース on the Web」のこちらのページ参照。ちょっと表示に時間がかかります。)
そして、かぐら川様がすでにご指摘いただいたように、芭蕉がその義経自害の地である「高館」を訪れて上の句を詠んだのも、西暦では1689年6月29日で、義経の死とほぼ同じ時期にあたります。
さらに、賢治が句碑を訪れたのは、6月まであと3日に迫った5月29日だったわけで、私はここに、不思議に重なった「6月の反射」を感じてしまうのです。
したがって、賢治がもし上記のような月日の近接を知っていたならば、「水無月の青き反射」という解釈も魅力的かな、とあらためて感じた次第です。
かぐら川
小川達雄さんの『盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社/2004.2)に、このときの修学旅行を扱った――収集可能な限りのデータを下敷きにし委細を尽くした――論考がありました。
“この日の石巻気象観測所と、平泉の北へ十八キロの水沢気象観測所の記録によれば、いずれも午後はすべて雲量十、であった。”
「なるほど。そうだったのか」---というわけです。
とすれば、浜垣さんが、歌の解釈をめぐる我々のやりとりを、“「みな月」という言葉の背後に、「水な月」=「水の月」というイメージが秘められていて、その月光の「青き反射」のなかで碑がねむる・・・。”と、うまくまとめていただきましたが、観測所のデータによれば「月光の反射説」が成立しないことになるようです。
その点は保留するとして、小川さんが、次のように述べておられるのには大いに注目したいと思います。
“「みな月の青き反射」というのは、大泉ケ池の背後に控えた、青々とした松に包まれた塔山からと、二つの句碑を守る青い樹木からのふんだんな緑の照り返しを云ったのであろう。それは同時に、六月という、やがて夏がやってくる青い季節からの反射の意味があった。”
〔反射〕は「月光」ではなく「樹の緑」のものだという点で、浜垣さんが紹介してくださった中村純一さんの解釈と同じですが、その点ではなく、小川さんのすごさはさらに一歩進めて“六月という、やがて夏がやってくる青い季節からの反射”という読み取りをされている点です。
ほかの点でも、毛越寺での滞在がなんと数分であったという指摘も含め、小川さんの本からは大いに刺激を受けました。とりあえず報告まで。
hamagaki
かぐら川様、またまた本質的なご教示をありがとうございます。
小川達雄氏の『盛岡中学生宮沢賢治』は、私も以前に読んでおきながら、今回の議論においては忘れてしまっていました。お恥ずかしいかぎりです。
この日の午後の雲量は10だったとのことですので、「月光の反射」という解釈は除外できますね。もとより、「小川説」によれば、毛越寺に賢治たち一行がいたのは午後6時すぎになりますから、もしも月が雲間から顔を出したとしても、月光の「反射」などは全く見えない明るさだったことになります。(上述のように、この日の「月の出」は17時21分、「日没」は18時52分でした。)
やはり「常識的な」考えのとおり、「みな月」は「水無月」と解するのが妥当なのだなと、あらためて感じました。
ただし、小川氏によるこの句の解釈の、“「みな月の青き反射」というのは、大泉ケ池の背後に控えた、青々とした松に包まれた塔山からと、二つの句碑を守る青い樹木からのふんだんな緑の照り返しを云ったのであろう。”ということに関してですが、「午後6時すぎで曇り空」という、やや薄暗くて直射日光の存在しない状況で、「ふんだんな緑の照り返し」などという現象が起こるのかどうか、私には「中村説」に対すると同様に、ちょっと疑問があります。
一方、“それは同時に、六月という、やがて夏がやってくる青い季節からの反射の意味があった。”という箇所に関しては、小川氏は「未来からの反射」というふうに解釈しておられるのでしょうが、これはまさに「四次元的」な視点ですね。賢治には、「未来圏からの影」という作品もあるくらいですから、あながち行き過ぎた解釈とも言えないかもしれません。
小川達雄氏の『盛岡中学生宮沢賢治』は、ご指摘のように「収集可能な限りのデータを下敷きにし委細を尽くした」素晴らしいものだと思いますが、この修学旅行の平泉の行程に関して、2つほど私自身の思うところを付記しておきます。
まず一つは、小川氏は、賢治が「中尊寺〔二〕」に描いている「義経の像」を見たのは、「高館(判官館)」にある「義経堂」においてであるとしておられますが、私としては、上の本文にも書いたように、月見坂の「弁慶堂」においてではないかというのが、先日現地を訪れてみた上での考えです。その下書稿に出てくる「笈」が保存されているのは、「弁慶堂」の方だからです。
それからもう一つは、「旅行隊が毛越寺の構内にいたのは、せいぜい長くても五分ばかりの間であったらしい」という、旅行スケジュールの推測に関してです。普通に歩くと、境内に入って、芭蕉の句碑のところまで行って帰ってくるだけでも5分くらいかかってしまいそうですので、これでは、賢治が碑の前で「みな月の青き反射」を観察する時間があったのかどうか、心配になってしまいます。
「不可能」とは言えないものの、かなり無理なスケジュールを小川氏は想定しておられるわけですが、その原因は、「午後6時に義経堂で鐘の音を聞き、その後6時22分に平泉駅発の上り列車に乗るまでの間に、毛越寺を拝観した」と考えたことにあります。
しかし、上記のように、「義経の像」を見た(そして鐘の音を聞いた)のが義経堂でなくて、弁慶堂であるとすれば、全体の行程はまたかなり変わってくるのです。
私としては、一行が平泉駅からいったん「上り」列車に乗ったとする小川氏の推測にもやや難があるのではないかと思うのですが、ちょっと本題から離れすぎますので、この辺でやめておきます。
いずれにしましても、かぐら川様のおかげで、また大変に勉強になりました。ありがとうございました。また、小川達雄様にも、感謝申し上げたいと思います。