1912年修学旅行の平泉

 賢治は、1912年の5月27日から29日、盛岡中学の修学旅行で、松島~仙台~平泉を訪ねました。下の写真は、賢治が後年になって、文語詩創作のために「自分史」をメモしていた、「「文語詩篇」ノート」の一部です。

「文語詩篇」ノートp.7

 上の内容を活字化すると、下のとおりです。

四月   中学四年

五月 仙台修学旅行
伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
                 磯ノ香
伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風。落チタル海藻
          岩ハ洪積
中尊寺、偽ヲ云フ僧 義経像 青キ鐘

 上二段は、旅行中に許可を得て、一人で病気療養中の伯母平賀ヤギを見舞った時の情景を記していて、三段目は、旅の三日目に当たる5月29日に、平泉の中尊寺を訪ねたことに関する記録のようです。

 この時の中尊寺を題材として詠んだ短歌に、次の二首があります。

8 中尊寺
  青葉に曇る夕暮の
  そらふるはして青き鐘鳴る。

9 桃青の
  夏草の碑はみな月の
  青き反射のなかにねむりき。

 「桃青」は松尾芭蕉の俳号の一つで、「夏草の碑」とは、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句の「句碑」のことと思われます。この句は、中尊寺からほど近い「高館」において、源義経が自刃したことを偲んで、芭蕉が詠んだものです。

 一方、同じ時の体験にもとづいた文語詩として、「中尊寺〔二〕」があります。

  中尊寺〔二〕

白きそらいと近くして
みねの方鐘さらに鳴り
青葉もて埋もる堂の
ひそけくも暮れにまぢかし

僧ひとり縁にうちゐて
ふくれたるうなじめぐらし
義経の彩ある像を
ゆびさしてそらごとを云ふ

こちらの作品は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」という部分に関係がありそうですね。


 さて、私は先日の旅行の際に、これらの作品に描かれている場所を、実際に訪ねてみました。
中尊寺鐘楼 まず、最もわかりやすいのは、「短歌8」などに「青き鐘鳴る」として登場する「鐘」で、これは中尊寺の参道である「月見坂」をほぼ登りきったところにある、「鐘楼」(右写真)の鐘と考えられます。
 説明板に書かれた「由緒」には、次のように記されています。

 「当初は二階造りの鐘楼であったが、建武四年(1339)の火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である。
撞座(つきざ)の摩耗はなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどない。
  鐘身 高さ113.2cm
  口径86cm
  基本振動123サイクル
  全音持続50秒」

中尊寺本堂梵鐘 あと、中尊寺にある「鐘」としては、本堂の横にも立派な梵鐘があります(右写真)。この鐘は1975年に作られたもので、これ以後は「除夜の鐘」も含めて、こちらの新しい鐘が使用されているのです。
 しかし、賢治が訪れた1912年には、当然ながら上の古い方の鐘が、まだ現役で使用されていたわけです。

芭蕉句碑「五月雨の降のこしてや光堂」  次は、「短歌9」に出てくる「桃青の夏草の碑」です。
 じつは中尊寺にも、金色堂の傍らに芭蕉の句碑はあるのですが(右写真)、碑になっているのは、「五月雨の降のこしてや光堂」という句で、「夏草や…」ではないんですね。
 そこで、中尊寺近辺で「夏草や…」の句が刻まれている碑を調べると、1.5kmほど南の「毛越寺」に三つ、および1kmほど南東の「高館」に一つありました。

 このうち、「高館」にある句碑は、毛越寺芭蕉英訳句碑1989年の「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」の際に建立されたものですから、賢治が目にした可能性はありません。また、「毛越寺」にある三つのうち一つは、「夏草や…」の句を新渡戸稲造が英訳したものを刻んだ、珍しい英文碑ですが(右写真)、建立されたのは1967年で、これも賢治は見ていません。

 ということで、結局賢治が目にした可能性のある「夏草や…」の句碑としては、毛越寺にある下の二つということになります。

毛越寺芭蕉句碑「夏草や兵どもが夢の跡」

 ちょうど二つが並んで立っていますが、左側のものが芭蕉真筆の句碑で、最初は「高館」に置かれていたものを、1769年にこの毛越寺境内に移したもの、右側の碑は、平泉出身の俳人素鳥が、1806年に立てたものです。
 賢治も、この二つの碑を一緒に見たのでしょう。

 さて最後は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」、あるいは「中尊寺〔二〕」の、「僧ひとり縁にうちゐて/ふくれたるうなじめぐらし/義経の彩ある像を/ゆびさしてそらごとを云ふ」です。
 これらから推測されるのは、僧の守る「堂」があって、その中に「彩色された義経の像」があったという状況です。ところで「義経の像」といっても、「画像」なのか立体的な「像」なのか、これだけからは何とも言えません。中尊寺伝源義経公肖像

 そこで、まず「画像」の方から考えてみると、中尊寺に所蔵されている源義経の肖像画としては、「伝源義経公肖像」(右写真)という絵と、「源義経公東下り絵巻」があります。
 これらはいずれも「彩ある像」ですが、どちらも古い貴重な文化財的絵画ですから、僧一人がいるような小さな堂において、一般の中学生に自由に見せていたとは、ちょっと考えられません。したがって、賢治が目にしたのは、何らかの立体像だったのではないかと思われます。

 ということで、中尊寺やその近辺にある源義経の彫像について調べると、それは二つあって、一つは、義経が最期を遂げたという高館の「義経堂」にある、源義経像です(下写真)。

高館義経堂・義経像

 そしてもう一つは、中尊寺の「弁慶堂」にある、弁慶と義経の並んだ像です(下写真)。

中尊寺弁慶堂・弁慶義経像

 この二つの像も、いずれも「彩ある像」で、この様子だけからは、賢治が見たのがどちらだったかを判断することはできません。
 しかし、「中尊寺〔二〕(下書稿(一)」を見ると、「義経の経笈を守る」という一節があり、賢治が見た義経像と一緒に、「義経の経笈」が保存されていたということがわかります。
弁慶堂由緒 一方、「弁慶堂」の「由緒」(右写真)を見ると、終わりから3行目に「安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある」と書いてあり、(その真贋はともかく)義経が背負っていたという「笈」が、宝物とし陳列してあることがわかります。

 すなわち、賢治が見た「義経の彩ある像」とは、写真では下の方の、中尊寺弁慶堂にある義経像だったのではないかと推測されるのです。そして、「青葉もて埋もる堂」とは、「弁慶堂」のことだったと思われます。

 地図に記入してみると、(A)は中尊寺鐘楼、(B)は中尊寺弁慶堂、(C)は毛越寺芭蕉句碑です。

 賢治たち修学旅行の一行は、中尊寺だけではなくて、毛越寺も訪ねていたわけですね。
 『【新】校本全集』年譜篇によると、この日の帰途において、一同は汽車に乗り遅れそうになって駆け足で停車場へ急ぎ、夜11時25分に盛岡駅に着いたということです。この列車は臨時列車だったということで、平泉駅発の時刻は「補遺伝記資料篇」を参照してもわかりませんが、別の列車は平泉から盛岡まで2時間51分かかっていることからすると、夜8時半頃に平泉駅を発車したのではないかと思われます。
 毛越寺は、中尊寺から平泉駅に向かう途中にありますが、上の列車時刻からすると、一行はかなり遅い時刻まで毛越寺にいることもできたわけです。5月末の、日の長い季節とはいえ、あたりは薄暗くなっていた可能性はあります。

 その暗さを思えば、「夏草の碑はみな月の/青き反射のなかにねむりき。」という情景描写が理解できる気がします。