坂上田村麻呂の墓

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 古代史における最近の話題として、「坂上田村麻呂の墓」を同定する有力な説が発表されたことがあります。
 京都大学准教授の吉川真司氏が、「清水寺縁起」の中の「太政官符」の表題に記された内容から推定したもので、京都市山科区で1919年(大正8年)に偶然発見された「西野山古墓」が、田村麻呂の墓だとしています。(asahi.com の記事参照)

 坂上田村麻呂というと、「蝦夷征討」に際して現在の岩手県地方に残した足跡や逸話が、数多く伝えられています。胡四王山で武運祈願のために自分の兜の中心に納めていた薬師如来を安置したのが、「胡四王寺(現在の胡四王神社)」の起源であるとか、花巻市太田にある「清水寺」は、807年(大同2年)に坂上田村麻呂が勧請したとか、「祭日」詩碑のある成島の毘沙門堂も彼が創建したとか、いろいろ宮澤賢治ゆかりの地とも交叉していて、私としては何となく親しみを感ずる歴史上の人物でした。
 というわけで、今日は自転車に乗って、山科区にある「西野山古墓」を見に行ってきました。

 京醍醐道から眺める京都市街都市中心部から行くには、東大路通の「今熊野」交差点から東の方へ、古い呼び名では「醍醐道」という坂道を登っていくことになります。かなり上ると、京都市街も眼下に見えてきます(右写真)。
 2km ほど進み、東山区と山科区の境を越えて、道が下りになってまもなくのヘアピンカーブの所に、「この付近 西野山古墓」と記された簡素な石柱が立っていました。(下写真)
 あたりはうっそうとした竹林で、道から見るかぎりでは、どこが「古墓」なのかもはっきりとはわからない状態でした。

西野山古墓

 現在は、東から京都に入るには、もっと北の国道1号線や東海道本線、東海道新幹線、あるいはずっと南の名神高速道路を通ってくることになりますが、その昔には、この道もけっこう重要なルートだったようです。吉川准教授によれば、「(西野山古墓のある)この場所は平安京の東の玄関口で、そこを守る所に田村麻呂を葬ったことから、死んでも平安京を護ってくれる武将という考えを当時持っていたのかもしれない」ということです。
 今は、「ちょっとさびれた生活道」という趣きになっていますが。

 さて、「醍醐道」を引き返すと、ふたたび東大路に出て北上し、坂上田村麻呂が仏殿を寄進・創建したという「清水寺」に行きました。日曜日とあって、清水坂はすごい人出です。ちなみに「年譜」によれば、賢治も盛岡高等農林学校1年の1916年3月27日に、修学旅行で清水寺を参拝しています。
 一般の観光の中心は、有名な「清水の舞台」阿弖流為・母禮之碑ですが、この舞台の下あたりに、「阿弖流為・母禮之碑」という石碑が建てられているのは、皆様ご存じでしょうか。(右写真)
 坂上田村麻呂からすれば敵方の首領であるアテルイとモレの二人が、この地で碑になっているというのは不思議な感じもしますが、この横にある側碑によれば、「田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレの両雄は802年河内国で処刑された。この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立す」とあります。
 碑は、右上に「北天の雄」と刻まれ、背景には、東北地方の形がかたどられています。「関西胆江同郷会」「アテルイを顕彰する会」「関西岩手県人会」「京都岩手県人会」によって、1994年に建立されました。

 思えば私は3年ほど前に、「アテルイの首塚」と伝えられている場所を見に、大阪府枚方市に行ってみたことがありました。不確かな伝承にすぎないこの「首塚」に比べると、今回の「西野山古墓=坂上田村麻呂の墓」という説は、はるかに確度が高そうです。

 坂を下って清水寺京大の至宝展を後にすると、東大路通をさらに北上して、京都大学総合博物館で現在展示されている「西野山古墓出土資料」を見て、本日のしめくくりとしました。これらは初の公開ということで、右写真にも見えるような、「金装太刀」などが展示の目玉です。
 さっきの竹林の中から発掘されたという太刀の、刀身部分は茶色く完全に錆びていましたが、ところどころにはめられている黄金の装飾が、威厳を感じさせます。吉川准教授は、この「金装太刀は田村麻呂が愛用した、歴戦の武人としての生涯を象徴する品だったのではなかろうか」と書いておられます。
 「京大の至宝」展は7月8日まで、休館日は月曜と火曜で、開館時間は 9:30~16:30です。

 ということで、今日は京都の東の方を、南から北へと走った半日でした。
(A=西野山古墓、B=清水寺「阿弖流為・母禮之碑」、C=京都大学総合博物館)