井上ひさし作の戯曲「父と暮せば」は、もちろんのこと、
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また、それを黒木和雄監督が映画化した作品も、
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いずれにしても、たとえば峠三吉や原民喜の詩や小説のように、あるいは丸木位里・俊の絵画のように、また林光の合唱曲「原爆小景」のように、「原爆」というものについて日本人が表現し、後世に伝えていくべき価値のある、貴重な芸術的遺産の一つだと思います。
この「父と暮せば」について、作者の井上ひさし氏は、次のように「種明かし」をしておられます(英文対訳版「劇場の機知 ― あとがきに代えて」より)。
ここに原子爆弾によってすべての身寄りを失った若い女性がいて、亡くなった人たちにたいして「自分だけが生き残って申しわけがない。ましてや自分がしあわせになったりしては、ますます申しわけがない」と考えている。このように、自分に恋を禁じていた彼女が、あるとき、ふっと恋におちてしまう。この瞬間から、彼女は、「しあわせになってはいけない」と自分をいましめる娘と、「この恋を成就させることで、しあわせになりたい」と願う娘とに、真っ二つに分裂してしまいます。
……ここまでなら、小説にも詩にもなりますが、戯曲にするには、ここで劇場の機知に登場してもらわなくてはなりません。そこで、じつによく知られた「一人二役」という手法に助けてもらうことにしました。美津江を「いましめる娘」と「願う娘」にまず分ける。そして対立させてドラマをつくる。しかし一人の女優さんが演じ分けるのはたいへんですから、亡くなった者たちの代表として、彼女の父に「願う娘」を演じてもらおうと思いつきました。べつに云えば、「娘のしあわせを願う父」は、美津江のこころの中の幻なのです。
こうやって、また別の見方では PTSD の回復の一コマとも言える素晴らしいドラマが誕生したわけですね。
ところで、このお話の中のささやかな小道具として、賢治の「星めぐりの歌」が使われていることは、皆さんご存じでしょうか。
以下は、当該部分の抜粋です。
竹造 さっき出かけしなに、木下さんがいうとられたろうが。「夏休みが取れるようなら岩手へ行きませんか。九月の新学期までに一度、家へ帰ろうと思うとるんです。美津江さんを連れて行ったら両親が非常に(じょうに)よろこびますけえ。」
美津江 ……夏休みは取ろう思うたら取れる思う。
竹造 ほいなら是非(ぜっぴ)行ってきんさい。
美津江 岩手はうちらの憧れじゃった。宮澤賢治の故郷じゃけえねえ。
竹造 その賢治くんちゅうんは何者かいね。
美津江 童話や詩をえっと書かれた人じゃ。この人の本はうちの図書館でも人気があるんよ。うちは詩が好きじゃ。
竹造 どがいな詩じゃ?
美津江 永訣の朝じゃの、岩手軽便鉄道の一月じゃの、星めぐりの歌じゃの……。
竹造 ほう、星めぐりのう。
美津江 (調子高く)「あかいめだまのさそり、ひろげた鷲のつばさ、あおいめだまの小いぬ、ひかりのへびのとぐろ……」。星座の名をようけ読み込んだ歌なんよ。
賢治を愛する、井上ひさしさんならではの箇所ですね。
雲
この映画観ました。
言われてみれば、そうだったと思い出されます。
亡くなったお父さんや、原爆のことが、印象に残っていて、少し、忘れていました。
平成にかわって、戦争の映像が、どうも、きれいに見えてしまう感じがして、不安です。
美化されて、受け取られなければ、良いなと、思う次第です。
丙種合格の方は、あまり、語られないですが、戦争へ行って、亡くなられた方、生き残って帰って来られた方、その家族の方、どこまでも、いっしょに、気持ちが共有できない寂しさが、募ることは、知られないし、語られない気がします。
戦争といものは、予測できない大きな被害をもたらすものだと、改めて、思います。
mishimahiroshi
わたしの父は昭和20年8月6日、広島工業専門学校で被爆しました。学校は爆心地から二キロ以内に存在したそうです。
父の隣に座っていた旧友は爆風で飛んできたガラスが全身に刺さって即死。父はその方を盾として命拾いしました。それでも全身にガラスが刺さり、1か月ミイラのように包帯で包まれ、やっとの思いで実家のある福山に辿り着きました。
その後の父は、わたしの想像ですが生き恥の人生を送ったと思います。時々不明なことを呟いたり、イライラを鎮めるためにタバコを噴かしたり。。。。何かを吹き払うような行為。今思えばPTSDだったのでしょうが、少年期のわたしの理解を超えた様子でした。
被爆から20年弱、父は47歳で亡くなりました。もしかしたら父はホッとしたのかもしれません。
この映画を見た時、わたしは父の齢を遥かに超えていました。そして改めて父の人生、級友や国に対する不条理な気持ち、生きてしまったことへの悔いなど父のアンビバレントな感情に思いを馳せました。
父が死んで36年が経過しました。それでもわたしの心の中にこうしたものが澱のように淀んでいます。
それは父の気持ちが理解できなかった悔恨でもあります。
戦争はやはり嫌なものです。
hamagaki
mishimahiroshi 様、尊いコメントをありがとうございました。
お父様のお話をお聴きして、とりあえず何とお返事を差し上げてよいかわからないような心境ですが、被爆直後からほんとうに様々な思いのこもった毎日を送られて、36年前に亡くなられたお父様のご冥福を、まずは心からお祈り申し上げます。
爆発の瞬間、隣に座っていた友人が即死して、(その友人が盾となって)お父様は死を免れたというのは、生き残ったお父様にとって何と苦しいことだったろうと拝察します。「父と暮せば」において「父親を見殺しにした」という罪悪感を抱え続けた美津江のように、「生存者の罪悪感(survivor's guilt)」をずっといだいておられたのかもしれません。
少年時代をお父様と一緒に過ごされた mishima 様にとっても、そのようなお父様の姿を見ることには、また複雑な思いがあったことと思います。
しかし、この映画を見られたことが、あらためてお父様の心への小さな架け橋となったとすれば、それはささやかながらもお二人への「救い」となったかもしれないと、感じたりもしました。
今年、はからずも政治問題となった沖縄の基地でもそうですが、戦争の傷跡は、いまだ人々の心や国土から消えていないことを、実感します。