しばらく更新が滞ってしまいましたが、京都ではこの間に祇園祭の山鉾巡行も終わり、ほんとうに暑い毎日がつづいています。
今日は、ちょっと大阪に行った帰りに、枚方市の「牧野」という駅で京阪電車を降りて、「アテルイの首塚」
と伝えられている旧跡を見に行ってきました。
アテルイ(阿弖流為)とは、8世紀末から9世紀初にかけて今の岩手県胆沢地方を根拠地に活躍した蝦夷のリーダーで、
十倍もの圧倒的兵力で何度も侵攻してくる朝廷軍に対して勇敢に立ち向かい、そのたびに打ち破り続けます。しかしついに802年(延暦21年)
、抵抗戦争も限界と決断したアテルイは副将のモレ(母礼)とともに、征夷大将軍坂上田村麻呂のもとに投降しました。
都に連行されたアテルイらは、田村麻呂による助命嘆願にもかかわらず、河内国の杜山(椙山あるいは植山との説もあり)
というところで斬首されます。
そのアテルイの首がその後どうなったのか、ちゃんとした記録には残っていません。「斬られた首は、叫び声を上げながら空を飛び、
故郷へ帰った」という伝説さえあります。しかし、この河内国の一ノ宮の境内には、昔から地元の人に「エゾ塚」と呼ばれてきた盛り土があり、
いつしかこれが蝦夷の頭領アテルイの塚であると考えられるようになったのです。
京阪の牧野駅から南東に300mほど歩くと、片埜神社というこぢんまりした社があり、 その隣にある公園の木の下に、高さ50cmほどの小さな花崗岩の碑が立っていました(右写真)。 碑はたしかに塚のように盛られた土の上あるのですが、碑文もなく周辺に何の説明板もなく、 知らない人にはこの小さな丸い石の意味は、まったくわからないでしょう。でも毎年8月にはこの前で、「アテルイ・ モレ慰霊祭」が行われているのだそうです。
ご存じのように、賢治の「原体剣舞連」には「達谷の悪路王」 が登場しますが、この悪路王とは、ほかならぬアテルイのことと考えられています。ただ「原体剣舞連」の中では悪路王の首は、 塚に埋められずに「刻まれ、塩漬けにされ」ますね。
じつは私は最近、『火怨―北の耀星アテルイ』(高橋克彦著)という小説を読んだもので、
アテルイや古代東北にちょっと傾倒しているのです。
4年前の夏に「原体剣舞連」
詩碑を探して彷徨ったあたり、北上川を水沢から江刺に渡る四丑橋の東畔の平原で、
788年にアテルイ軍が紀古佐美の率いる10万の朝廷軍を破ったのかなどと思いながら、ページをめくっていました。この調子では、
夏に予定している花巻旅行のルートにも影響してしまいそうです。
なむ
初めまして、「アテルイ」で検索していてこちらにたどり着きました。私も「火怨」を読んでアテルイにハマり、アテルイ最期の地「椙山」を探しております。枚方の碑については、お時間ありましたら下記サイトを見ていただけると嬉しいです。
http://www.geocities.jp/katanogahara/index.html
hamagaki
なむ様、書き込みをありがとうございます。
なむ様の研究サイトを拝見して、この通称「首塚」の現実がよくわかりました。「ないこと」を証明するのは、確かに困難だと思いますが、この場所が「禁野」の範囲内であったことのご指摘は、非常に有力な否定的根拠ですね。心より感服いたしました。
私がこの「首塚」に行ってみたのは3年前のことで、『火怨』を読んだだけのミーハー気分でした。その頃は周囲に何の説明も付いていない「ただの石」だったのですが、その後、「伝 阿弖流為 母禮之塚」などという石碑もできたりして、かなり変貌しているようですね。
まさに、一つの「伝承」が人為的に生まれていくプロセスに、私たちは居合わせているのだと思いますが、ご指摘のように、行政までもが史実に根拠のないことに肩入れをして、変な権威づけをしていくのは、大きな問題だと感じました。公的な立場の自覚よりも、観光・人寄せの方が、大事だというのでしょうか。
このたびは、貴重なご教示をありがとうございました。
なむ
hamagakiさま、記事を読んでいただき、さらに冷静に受け止めていだだいたこと、本当に感謝いたします。地元の人間やアテルイ・ファン、研究者の中には「史実より気持ちの問題」と拒絶されることが多いので^^; hamagakiさまのようにまっすぐ見つめていただけるのは本当に嬉しいです。こちらこそありがとうございました。
きつね
阿弖流為を調べていてたどり着きました。
阿弖流為の首ありますよ。
行かれた所は胴塚ではないかと言われてる場所です。
阿弖流為の首と首桶は鹿島神宮の宝物館にあります。
hamagaki
きつね様、コメントをありがとうございます。
私が行った時は「アテルイの首塚」でしたが、最近はここを「胴塚」と言うのですか。伝説はいろいろと変化するものですね。
しかし、この場所にアテルイの首であれ胴であれ、処刑後に埋められたという説は、当時この地が天皇の狩猟地である「禁野」であり、とりわけケガレに対する忌避感が強かったことを考えると、史実としてはありえないようです。
(参考 http://www.geocities.jp/katanogahara/1.html )
鹿島神宮の「悪路王」の首は、江戸時代に作られた木像ですね。
aterui
遺跡と顕彰運動 大阪枚方 伝 王仁墓
大阪府枚方市藤阪にある王仁の墓所は、江戸時代の1731年(享保16年)に設立されたものである。設立までの経緯は次の通りである。
藤坂村字御墓谷の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の2人(アテルイ・モレ)を京都へ連行したが帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある[36]。
1616年(元和2年)、禁野村和田寺の道俊は『王仁墳廟来朝記』でオニ墓は王仁墓の訛ったものと主張した[37]。
1731年(享保16年)、京都の儒学者並河誠所が道俊説により、墓所中央の自然石を王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立した[37]。金英達は、『五畿内志』を編纂していた並河の功名心による歴史の捏造としている[36]。
aterui
遺跡と顕彰運動 大阪枚方 伝 王仁墓
大阪府枚方市藤阪にある王仁の墓所は、江戸時代の1731年(享保16年)に設立されたものである。設立までの経緯は次の通りである。
藤坂村字御墓谷の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の2人(アテルイ・モレ)を京都へ連行したが帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある[36]。
1616年(元和2年)、禁野村和田寺の道俊は『王仁墳廟来朝記』でオニ墓は王仁墓の訛ったものと主張した[37]。
1731年(享保16年)、京都の儒学者並河誠所が道俊説により、墓所中央の自然石を王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立した[37]。金英達は、『五畿内志』を編纂していた並河の功名心による歴史の捏造としている[36]。