今でこそ、「金田一」という姓も、とくに珍しい苗字とは感じられなくなっています。
私たちにとっては、金田一京助・春彦という言語学者・国語学者の父子の名前は、辞書の背でも新聞の文化欄でも、お目にかかる機会がたくさんありましたし、それより何より、横溝正史による「探偵・金田一耕助」シリーズの影響は、絶大でしたね。
若き日の金田一春彦氏は、軍隊に入営した時にも、「変な苗字だな、読めないじゃないか」などと上官から叱責されて苦しんだのだそうですが、横溝の作品が有名になってからはその「苦しみ」から一挙に解放されたので、「千金を積んでもいい」と言うほど横溝正史に対して感謝をしていたということです。
ちなみに横溝正史によれば、この新作探偵物を書いた頃に住んでいた吉祥寺の自宅近くに、金田一京助の弟の家があって、横溝はしばしばその表札を目にしていたことから、この珍しい姓を主人公の名前に採用したのだそうです。
あと現代の子どもたちにとっては、「耕助の孫」にあたるという「金田一少年の事件簿」が、何と言っても抜群の人気ですね。
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それはさておき、先日「双子の碑」でご紹介した金田一國士をはじめ、それに上記の学者一族も含め、岩手には「金田一」という名家があるようですが、ちょっとその家系について調べてみました。
ネットで調べた範囲では、系図は下のようになるようです。
一番左の「大豆屋福助」は、江戸時代の南部藩の御用商人で、IGRいわて銀河鉄道の最北駅である「金田一温泉駅」の場所が、その出身地です。後に財閥化するための「本源的蓄積」が、この御用商人時代になされていたのでしょう。
その次の代の金田一勝定(右写真)は1848年生まれですから、明治維新を20歳で迎えたことになります。戊辰戦争には自ら出征し、秋田扇田の合戦で、負傷したということです。
商家を継いだ勝定は、明治に入ってからしばらく主に貸金業を営んでいたようですが、日本鉄道会社によって東北本線が建設されるにあたり、これからの交通は鉄道であると見越して、豊富な資金力によって大量の鉄道株を買い進めていきました。
一方、明治の中頃まで盛岡の財界を牛耳っていたのは、旧藩時代の御用達を勤め近江商人の流れを汲む「井弥」こと村井弥兵衛の一派で、1896年に県内初の商業銀行として盛岡銀行が創設された際にも、村井弥兵衛が初代の頭取に就いています。村井の一族や、舟運を中心とする「北上運送会社」を設立した太田小二郎らとともに、財界には「北上派」と呼ばれる閥が形成されていました。
ところが1906年に、日本鉄道会社を国が買収して東北本線を国有化することになると、大量の株式を保有していた金田一勝定は、一挙に莫大な利益を得ます。この資金を盛岡銀行に出資することで、財界における金田一の発言力は見る見る増大し、村井の死後は、ついに盛岡銀行頭取に就任したのでした。
これ以降の金田一勝定は、金融・電気・鉄道を中心に数十の企業を束ね、岩手県内最大の財閥となっていきます。「井弥」などに代表される旧世代の財閥は、北上川の水運業との結びつきが強かったため、東北本線が盛岡まで開通した1890年以降は、鉄道による大量輸送の流れから取り残されてしまったという面もありました。
これに対して金田一勝定は、「電気」と「鉄道」という近代産業の根幹を同族企業で押さえることで、盤石の土台を築いていったかに見えました。
賢治の作品世界との関連では、岩手軽便鉄道会社が創立され、勝定が社長に就任したのが1911年、花巻―仙人峠間が開通したのが1915年でした。一方、盛岡電気株式会社が岩根橋にカーバイト工場を建設したのは1908年(cf.「カーバイト倉庫」)、岩根橋発電所の創業が1918年(cf.「岩根橋発電所詩群」)、という状況です。
賢治の作品にはよく「電信柱」が登場しますが、当時の岩手県の各地に電線が張りめぐらされていったのは、金田一勝定の功績によるところも大きかったのです。私は上の写真などを見ると、彼こそが岩手県の電気産業の総元締めですから、童話「月夜のでんしんばしら」に登場する「電気総長」と名乗る「ぢいさん」を、思わず連想してしまいます(笑)。
さて、県内に並ぶ者のない大実業家となった勝定が、自らその才覚を見込んだ女婿の國士に事業の発展を託し、72歳の生涯を全うしたのは、1920年12月31日のことでした。
一方、その大往生とは対照的に、同じ年の1ヵ月ほど前の東京では、勝定からすると甥にあたる金田一他人(おさと)という青年が、悲嘆のうちに若い命を散らしていたのでした。
また次回は、賢治の同級生でもあったこの金田一他人のことについて、書いてみようと思います。
今日子センセ
素晴らしい内容のブログを発見して、感動してます。
石原莞爾のことを調べていて、国柱会を経由して、
ここまでたどりつきました。
申し遅れましたが、予備校で日本史を教えております。
若い人は、日本鉄道会社や鉄道国有法など、産業史に興味を持てないものですが(それは私だって昔はそうだったですけど)、宮沢賢治や金田一京助など著名な人物を絡めることで、興味深い話ができそうです。参考にさせていただきます。
これからも楽しみにしております。
hamagaki
今日子センセ様、はじめまして。コメントをありがとうございます。
石原完爾 → 国柱会 → 宮沢賢治・・・、とてもディープなルートですね。
これも、昭和という時代の持つ、ある魅力的で危うい一面を象徴するものですね。
貴ブログも拝見させていただきました。「宮沢賢治に感じるある種の胡散臭さ」という今日子先生の嗅覚に、共感いたします。私のような賢治フリークにとっても、そもそも賢治自身が矛盾をはらんだ非常に多義的な存在ですし、また戦前の政治状況下で、さらにさまざまな厄介な意味を背負わされていました。
この、「賢治の胡散臭さ」のネガティブな面を露悪的に書き明かしたのが、吉田司著『宮沢賢治殺人事件』だったと思いますし、またその胡散臭さのポジティブな面を政治的にすくい上げようとしたのが、最近の太田光・中沢新一著『憲法九条を世界遺産に』なのではないかと思っています。
貴ブログによれば、「満州」が先生の当面のテーマになっているようですが、実は私も、宮沢賢治が夢想した理想郷としての「イーハトーブ」という地と、現実の日本が傀儡として捏造した「満州国」という存在が、どこかでオーバーラップしてしまうような感じを、しばしば持っていました。
それは、石原完爾のような人が観念的に構想した内容としてもそうですし、東北の農村から新天地への夢を持って満州に移住した貧しい人々のささやかな希望としても、そのようなところがあったのではないかと思います。
はからずも、賢治の作った「花巻農学校精神歌」という歌が、満州の地で歌い継がれていたことについては、「満州の「精神歌」(2)」というエントリで述べました。
ところで、貴ブログの「張作霖」の絵には最高に感激しましたが、この頃の満州に関しては、安彦良和著『虹色のトロツキー』というコミックも、推奨させていただきます(松岡正剛氏のレビュー参照)。
当ブログでも、次にこのシリーズで「金田一他人」という賢治の同級生を取り上げる時には、なぜか「満州」もちょっと登場する予定です。
どうかご期待下さい。
メグミ
はじめまして!
金田一家について調べていて、興味があり読ませて頂きました。ちょっとお尋ねしたい事があります…金田一勝定のこども、もしくは孫の名前はわかりますか??
hamagaki
メグミ様、書き込みをありがとうございます。お返事が遅くなって、申しわけありませんでした。
金田一勝定の子ども・孫の名前をということですが、『花巻温泉物語』(熊谷印刷出版部,1988)という本の12ページに、「金田一家の人たち」と題された写真が掲載されています。
その写真に写っているのは、まず勝定の子どもとしては、長女が「リウ」、その妹に「愛子」、「寛子」がいて、弟に「直太郎」がいます。
また、勝定の孫のうち、国士・リウの間の子どもとしては、長男が「丈夫」、次男が「貞吉」、三男が「正身」として写っています。
これ以外にも、子や孫がいた可能性はありますが、とりあえず私がわかった範囲では、以上です。
少しでもお役に立てば幸いです。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。