硅化花園の島(1)

 「〔つめたい海の水銀が〕」は、1924年に賢治が花巻農学校の生徒を引率して、修学旅行で北海道へ行った際の作品です。

つめたい海の水銀が
無数かゞやく鉄針を
水平線に並行にうかべ
ことにも繁く島の左右に集めれば
島は霞んだ気層の底に
ひとつの硅化花園をつくる
銅緑(カパーグリン)の色丹松や
緑礬いろのとどまつねずこ
また水際には鮮らな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みんないっしょに酸化されまた還元される

 日付や内容から、これは北海道からの帰途、室蘭から青森へ船で渡っている途中に見かけた風景かと思われます。(この修学旅行の旅程については、「修学旅行詩群」のページをご参照下さい。)

 さて、ここで賢治は船上から一つの「島」を眺めているようで、その景色はまるで「硅化花園」のようだと描写しています。
 「硅化花園」とは、「ケミカル・ガーデン」とも呼ばれる非常に美しい化学実験の一つで、珪酸ナトリウム(水ガラス)の水溶液の中に、銅、ニッケル、コバルト、マンガン、鉄、亜鉛などの金属塩の結晶を入れると、透明な溶液中を結晶がまるで植物が伸びるように成長していくというものです。紺色のコバルトイオン、青緑色の銅イオン、黄緑色のニッケルイオン、茶色の鉄イオンなどの色が、まるで「花園」のように見えるところから、この名前が付けられています。
 実際のその様子は、こちらのページなどで見ることができますが、まん中あたりの写真などは、まるで亜熱帯の海中風景のようですね。賢治自身も、この実験をしたことがあったのかもしれません。

 さて、「〔つめたい海の水銀が〕」で賢治が見かけた島の景色は、銅緑(カパーグリン)や緑礬いろや枯木の銅色などに彩られ、まさにケミカル・ガーデンの実験を連想させるものだったのでしょう。
 また、この作品の「下書稿(二)」には、

   そこが島でもなかったとき
   そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

という一節もあって、賢治はこの島の風景に、何かとても懐かしい太古の記憶を呼び覚まされるような感じも持ったのかと思われます。
 「島でもなく陸でもない」のならば「海だった」ということになり、そこに棲む「鱗をつけたやさしい妻」となれば、「魚」です。ここで賢治は、仏教的輪廻における自らの「過去世」のことを言っているのでしょうが、前年に「オホーツク挽歌」の旅でやはり津軽海峡を渡った時に、トシの輪廻転生のことを執拗に考えつづけていたことの、はるかな記憶が影響しているのかもしれません。
 海の中で「やさしい妻」と一緒に暮らすなんて言うと、私なんかは「竜宮城」や「乙姫様」を連想してしまいますが、上でご紹介した「ケミカル・ガーデン」の写真も、そう思ってみれば「竜宮城」みたいですね。


 ・・・などと空想は広がりますが、それにしても賢治がこの時に見た「島」とは、いったいどこの島だったのだろうということが、気になってきます。
 作品から推測されるのは、その島にはたくさんの樹木が茂っていること、それからもう一つ特徴的と思われるのは、「下書稿(二)」の題名が「島祠」となっているように、この島には何かの「祠」が祀られていて、おそらく船上の賢治の目からも、それがちゃんと見えたのだろうと思われることです。

 ということで、室蘭から青森までの航路を地図で眺めてみると、まず最初に見つかる島は、室蘭港の出口にある「大黒島」です。

大黒島

 こちらのページなどで、大黒島の写真を見ることができます。木々も茂っている上に、「天保9年(1838年)から7年間、この地域の場所請負人をしていた岡田半兵衛が、安全祈願のため島内に大黒天を祭ったことから「大黒島」と呼ばれた」とのことで、島に「祠」もあるようです。
 ただ残念ながら、「〔つめたい海の水銀が〕」の日付は「一九二四、五、二三、」となっているのに対し、賢治たち一行は室蘭港を5月22日午後5時に出港していますから、この島を見たのは、22日夕方のはずなのです。

 そこで次に、23日明け方に見えた可能性のある、津軽海峡内の島を見てみます。

武井ノ島と弁天島

 津軽海峡には、北海道側に「武井ノ島」、下北半島側に「弁天島」という二つの島だけが地図上で確認できます。

 「武井ノ島」は、こちらのページの上から5つ目の写真によって、陸上から見たその姿を見ることができます。小さな島で、「岩礁に木が生えている」という感じですね。しかし一応緑はありますし、さらにこっちのページを見ていただくと、「島内にある厳島神社では、近在の漁船が集まり航海安全、大漁を祈る例祭が行われる」とあって、海側から見るとその神社の「祠」も視認できる可能性があります。

 一方、「弁天島」は、こちらのブログに写真があります。下北半島の突端の大間崎から見たところですね。木も茂っていますし、何よりもその上から2つ目の写真を見ていただくと、左下に弁天様の「祠」がしっかりと写っています。「下書稿(二)」には鴎が出てきますが、この島にはカモメがすごくたくさんいますね。
 この修学旅行の往路に書いた「津軽海峡」の「下書稿(二)」の書き出しは、

東には黒い層積雲の棚ができて
古びた緑青いろの半島が
ひるの疲れを湛えてゐる
その突端と青い島とのさけめから
ひとつの漁船がまばゆく尖って現はれる

となっていますが、ここに出てくる「青い島」は、(航路の東の下北半島の突端にあることから)この弁天島なのではないかと思われます。

 しかし、「〔つめたい海の水銀が〕」に出てくる島がどちらに該当するのか、上記の資料だけからは何とも言えません。

 となると、直接に船の上から見てみるしかないのでしょうか・・・。

[ この項つづくかも・・・?]